――――空に見える光が、おぼろげになってゆく。
手を伸ばしても、届かない。
もがきながら空へと這いあがろうとしても。
その空には届かない。届く事は、ない。
わざと身体に傷を付けるのは、ここから逃げられないようにする為。俺が誰のものかと分からせる為だった。
「また傷が出来ちゃったね」
ナイフの刃が脚を切った。それは血が出るくらいの深さで、けれども致命傷にならない程の傷だった。
「―――お前が…付けたんだろう?……」
ぽたりと流れた血をお前は舌で舐め取る。そんな時俺は決まって、ひどく甘美な思いに襲われるんだ。こんな目に遭わされていながらも、こうして触れてくる舌の感触が。
「うん、そうだね。僕が付けている…だって許せないもの」
「…速水……」
手が伸びてきて、そっと頬を包み込む。その手のひらは泣きたくなるほどに優しい。優しくて、どうしようもなくて。こんな風に俺をしておきながら、お前は。お前の手は優しいから。
「僕以外が君に傷つけるのは」
そう言ってお前は俺の唇を塞ぐ。ひどく甘い口付けに、俺は胸が締め付けられそうになった。
―――傷は消える事はなかった。
幼い頃からずっと。ずっと傷は消えない。
俺のかあちゃんは、いっぱい。
いっぱい、いっぱい、いっぱい。
俺を傷つけた。俺に傷をつけた。
たくさんの傷。消える事のない傷。
決して消える事のない、傷。
幼かった俺の記憶は、真っ暗で狭い部屋だけだった。
何時もそこに閉じ込められて、そして。
そして身体に顔に、手に脚に。
俺はかあちゃんからいっぱい傷を付けられて。
狭くて暗い部屋と、かあちゃんの壊れた瞳だけが。
幼い俺の全てだったから。
――――でも速水…お前の瞳…何処か、かあちゃんに似ているな……
「…血が…止まらないね…」
「…お前のせいだろう…」
「うん、僕のせいだね…じゃあ僕も…」
「速水?」
「僕も血を流すよ」
ザクっと音がして、お前は自らの頬をナイフで切った。綺麗な顔にくっきりとした傷跡。そして真っ赤な血。ぽたぽたと、零れる血。
俺のかあちゃんは自分は傷つけなかった。一方的に俺を傷つけるだけだった。けれどもお前は。お前は自らも傷つける。自分自身を傷つける、それは。それは……。
「…これで一緒だね……」
狂った瞳。閉鎖された空間。
「…速水……」
俺がずっと味わってきたもの。
「…君と、一緒……」
俺が抉られてきた傷。
「…ああ…速水…ああ……」
その傷をお前は剥き出しにして。
「…一緒…だな……」
剥き出しにして暴いて、そして。
―――そして俺を、癒した………
俺を閉じ込めたのはお前。
誰にも見えない場所へと。
誰の手にも届かない場所へと。
俺を傷つけたのはお前。
誰にも触れられないようにと。
ここから逃げられないようにと。
でもお前も傷ついている。お前も閉じ込められている。
キスを、した。
何時もお前からだったから。
俺からキスを、した。
そうして舌を絡めて。身体を絡めて。
抱き合って、ひとつになって。
血だらけのセックス。血塗れのセックス。
でも、おかしいな…全然…痛くない。
痛みよりも、快楽の方が勝って。
お前の腕に抱かれる事の方が。
その熱を感じる事の方が。
―――今の俺には、全てだったから……
「…滝川…君の傷…もっと見せて……」
「…速水……」
「全部見せて、そうして剥き出しにして」
「…剥き出しにしたら…もう一度別のもので僕が埋めるから……」
狭い所が嫌いだから、閉じ込められた。
傷つけられるのが嫌だから、傷つけられた。
俺の背負っているトラウマをわざと見せ付け。
わざと剥き出しにして、同じ事をした。
かあちゃんと同じ気持ちで、かあちゃんと別の想いで。
もしかしたら…かあちゃんも…俺を傷つけながらも…好きでいてくれたのかな?
空は遠かった。光は遠かった。
天井は何処にも見えなくて。そこにあるのは闇だけで。
すっぽりとした闇だけが俺の前にあって。
その闇の中にお前が立っている。お前だけが立っている。
「こんな『好き』って気持ち…君は要らなかった?」
闇の中手を伸ばして、必死に手を伸ばしたら。
「もっと優しい想いが、欲しかった?」
お前の手がそこに在って。そして。そして俺の手を。
「…もっと綺麗な想いが…欲しかった?……」
その手を俺は必死になって、掴んだ。ぎゅっと、お前の手を。
「でもごめんね、あげられない。君がどうしようもない程に好きだから」
「…いいよ…速水…これで…いい…」
「…滝川……」
「…これで、いい……」
傷は埋めて癒しても疼くだけでしかないから。
だから傷を切り開いて、見せ付けて。そして。
そしてもう一度初めから違うものを埋めた方が。
その方が、本当は癒される事を知っているから。
天国、閉鎖。
空から隔離される。
全てから隔離される。
けれども滲んだ傷と。
生み出された、愛情が。
きっと、何かを変えてくれるだろうから。
俺達は多分凄く子供で、ただ一生懸命なだけだった。
その方法が例え間違えだったとしても、今この想いは。
確かに今この想いは、ここに存在しているのだから。
―――これが好きと云う…想いだと…分かっているから……
END