―――春になったなら、一面の桜を見に行きましょう。
一面の桜の花びらを。
降り積もる花びらを。
ふたりで、一緒に。
…一緒に見に、ゆきましょう……
「どうして桜なの?」
見上げてくる貴方の瞳の思いがけない幼さに、僕は口許に優しい笑みを零さずにはいられなかった。何時も眼鏡越しに見せるその瞳は何処か他人を拒絶している瞳だったけれども。まるで鏡のように何かを拒絶している瞳だったけれども。
―――今、貴方が僕に見せているその瞳は……
「貴方に桜が似合うと思ったからです。一面の桜が」
「僕には似合わないよ…女じゃないし…花なんて……」
俯くその頬にそっと手を充てて、そのまま自分へと向かせた。幼い瞳は消えて、次に見せたのは何処か淋しげな色。僕は貴方にそんな瞳をさせたくはなかったのに。
「似合いますよ、きっと綺麗だ」
その瞳を閉じ込めるように、そっと口付けた。閉じられた瞼の中に、僕の顔だけを焼き付けさせて。
「…貴方には一面の桜が似合うから…薔薇よりもかすみ草よりも…貴方は桜だと、僕は思います」
「―――それは君の、趣味だろう?」
上目遣いに僕を見上げてくる貴方の顔がくすりと微笑った。ああ、僕は貴方のその顔が見たかった。ひどく無邪気な子供のような貴方のその顔を。
「ええ、貴方は僕の趣味の全てなんです」
「趣味の全てって…」
「貴方だけが、僕のプライベートだから」
その言葉に一瞬貴方の瞳が大きく見開かれる。そして次の瞬間に、弾けるように笑った。子供のように声を上げて、貴方は笑った。
「どうして笑うんですか?」
「だってキザなんだもの」
「キザですか?僕は本気で言ったのに」
少しだけむっとした顔をすると、その手が僕の頬に伸びてきた。見掛けよりもずっと、ずっと細い指が。
「君は恥ずかしい台詞を何時も真顔で言う…でもそれって本気なんだよね」
「僕は何時でも思ったことだけを口にしています。特に貴方の前では」
「…うん、分かっている……」
頬に触れていた指が髪に絡まる。貴方は僕の髪を弄くるのがひどく好きだった。気が付けば何時も。何時も貴方の手は僕の髪に触れている。
「遠坂は僕には嘘を付かないから」
そうしてくいっと引き寄せられて、貴方からキスをしてくれた。
桜の花が咲くまで。
一面の花びらの雨に降られるまで。
君と僕はこうしていられるだろうか?
ずっと、一緒にいられるだろうか?
そんな不安に時々駆られる事がある。
それは突然に、ふとし瞬間に押し寄せるから。
僕はどうしていいのか分からないんだ。
…そんな時、君の髪に触れるしか…思い付かない……
「…桜咲くまで…どのくらいかな?……」
「そうですね、後…5ヶ月くらいですね…」
「それまで僕達」
「はい?」
――― 一緒に…いられる、かな?……
君の瞳を信じている。君の想いを信じている。
君の優しさを信じている。君の言葉を信じている。
けれどもどうして?
どうして、不安になるの?
「どうして貴方はそんな顔をするんですか?」
見下ろした先の、貴方の瞳。捨てられた子猫のような瞳。時々見せるその瞳に何時も僕は胸を締め付けられそうになる。笑っていたはずの貴方の瞳が時々途切れるその瞬間が。
「どんな顔に、見える?」
「淋しそうな顔に見えます」
何時もどうしたらその淋しさを消す事が出来るだろうと思っていた。どうしたらその瞳の色を変えることが出来るのかと。何時になったら消す事が出来るんだろうと。
―――何時もじゃない。けれども必ずふとした瞬間に見える、その淋しげな瞳を。
「…そうかも…しれないね…」
どうしたら消す事が、出来るのだろうか?
僕の廻りには何時もたくさんの人間がいた。
たくさんの人達に囲まれていた。
誰もが僕の周りに集まり、誰もが僕と一緒に笑いあう。
そんな日々が永遠に続くと思っていた。
そんな時がずっと続くと思っていた。
けれどもそれはあっさりと崩壊した。
この脚が動かなくなった瞬間、僕の廻りの全てがなくなった。
僕の廻りで笑っていた友達も。
僕を好きだと言った恋人も。
全てが僕の前から、消えていった。
―――もう誰も信じない……
誰も信じられなかったから。
もう誰一人僕は信じる事が出来なかったから。
期待すれば裏切られる。
希望を持てば打ち砕かれる。
だから。だから、僕はもう…。
『…貴方の脚になります…永遠に……』
真っ直ぐな瞳で、揺るぎ無い瞳で君は言った。
迷う事無く僕にそう告げた。
信じられなくなっていたから。もう誰も。
誰も信じる事が出来なくなっていたから。
けれども。けれども、僕は。
僕はやっぱりただのちっぽけで弱虫な人間だから。
もう一度人を信じようと、君を信じようと思った。
―――君を、信じたいと…思ったから……
「淋しいですか?僕がいるのに」
「…君といるから、淋しい…」
「どうして?」
「君がいなければ淋しいなんて思うことすらなかった。君がいなければ淋しいなんて気付かなかった。君がいて初めて僕は」
「僕は淋しいと、思った」
だから、だね。
だからこんなにも僕は。
僕は不安になるんだ。
君が好きだから。好きになりすぎたから。
だから淋しいんだって、思うんだ。
だから不安だって、思うんだ。
君がいなければ君を失う不安に怯える事もない。
君がいなければ君がいない淋しさに苦しくなる事もない。
全ての気持ちが君に、起因しているから。
―――だから僕はこんなにも……
「じゃあ貴方が淋しくなくなるまでそばにいます」
「…そうしたらきっと…ずっとだよ…」
「だったらずっと、そばにいます」
「…本当にずっとだよ…」
「はい。ずっとずっと、そばにいます」
「―――永遠に……」
―――貴方が、微笑う。
その笑顔を見るためならば僕は何でも出来るから。
貴方の為になら僕はどんな事でも出来るから。
…どんな事、だって……
「桜、見に行こう」
「はい、ふたりで行きましょう」
「…うん…約束だよ…」
「はい」
そして僕等は指を絡めて、約束をした。未来へと、約束を。
END