天使の失踪

ただ凍えそうな手を暖めて欲しかった、だけ。


天使が消えた、夜。世界が反転した。
何も知らずに海の底で静かに眠っていた自分は、もう、どこにもいなくて。
後ろをついてきてくれた太陽は、どこかに消えてしまって。
信じていた夢のかけらは、静かに砕け散った。


―――最後の楽園に神様はいない。



積もり続ける雪はまるで死にゆく子供みたいだった。
「何を見てるのですか?」
雪はしんしんと音がして。子供の泣き声に聞こえた。それが哀しくて胸が、痛い。
「…外…雪が降ってる……」
「そうですか」
遠坂はそれだけを答えると、車椅子ごと狩谷を後ろから抱きしめた。その華奢な身体のぬくもりを確認したくて。
「身体冷めたいですよ。いつからここにいたんですか?」
「忘れた」
暖房も明かりも付けていない部屋は、現実から隔離された空間みたいで。全てから隔離されたようで。全てを、隠してくれる。
「忘れたって…風邪を引いたらどうするんですか?」
遠坂の半ば呆れたような、でも心底心配しているその声。この声をずっと聴いていたい。ずっと、聴いていたい。どんな言葉でもいいから、聴きたい。
「そうしたら君が看病してくれるだろう?」
「―――卑怯ですね、貴方は」
「どうして?」
瞳をそっと閉じる。今は夢の中にいたい。その声が導くやわらかな夢の中に。その腕が与えてくれる優しい夢の中に。君の夢の中に、いたい。
「僕に言わせるのですか?」
「聴きたい」
「僕がいやだと言う訳ないでしょう」
少しだけ不機嫌になっても、それでも必ず。必ず遠坂は狩谷の欲しい言葉をくれる。心に刻み込まれる、その言葉が。その言葉が、何よりも欲しいもの。欲しい、もの。
「―――うん。知ってたよ。だから言ったんだ」
「…貴方は本当に……」
呆れたような声。でも優しくて。でも、優しい。どんな言葉を告げても、必ず含まれるものが優しさだと、知っているから。だから、その声に埋もれてしまいたい。

―――そして、消えたい。その声を、聴きながら……

「…遠坂……」
「何ですか?」
見上げればそこには、遠坂の綺麗な瞳がある。こうして間近で見つめるようになって気が付いた。この瞳に全くの曇りがない事に。自分と違い、真っ直ぐに綺麗に映っている事に。
「君の瞳って綺麗だね」
狩谷は細い指で遠の前髪を引っ張った。そうして指先に髪を絡めることが、狩谷の無意識の癖になっていた。こうして髪を指に絡めることで…彼はその存在を確認していると遠坂が気付いたのは、何時だっただろうか?
「当たり前ですよ。貴方の顔を映してるのですから」
「僕、綺麗じゃないよ」
髪をつんつんと引っ張っりながら、狩谷は楽しそうに微笑う。まるで子供のような仕草と、そして笑顔。ずっとこの顔を見ていられたら。ずっとこの笑顔を引き出せたならば。遠坂は他に何も望むものはなかった。何も、欲しいものがなかった。
「綺麗ですよ、貴方は。僕が見た物の中で一番です」
華奢な身体も、細い髪も、何処か孤独な瞳も。全部、全部、奪いたいほどに綺麗で。綺麗、だから。
「嘘ばかり」
「僕が嘘を言うとでも思うのですか?」
「でも僕は穢たないよ」
髪に絡みつくのは死の匂い。引きずっているのは醜い嫉妬。きっと死んだら白い服を、僕は着る事が出来ない。
「僕が言った事は全て正しいんですよ。だから貴方は何よりも綺麗です」
「バカ、だ。君は」
「そうです、僕はバカです。貴方に対してだけは」
「…もう…君は……」
そう言って狩谷はぷいっとそっぽを向いてしまう。その頬がほんのりと紅い。それが何よりも遠坂には愛しい。愛しくて堪らなくて、抱きしめる腕に力を込めた。



向こう側へ行きたくない。
でも、僕は祈りの言葉すら知らなくて。
絡みつく死の匂いは日に日に濃くなって。
今にも僕を引きずろうとしている。

―――このまま、独り。

閉鎖された空間の中で殺されていく。
きりきりとした痛みが静かに侵入しながら。



「積もりましたよ、雪」
白い雪に反射する太陽の光が、とても眩しくて目が痛かった。痛くて、目が開けられない。
「…ん……」
それでも必死になって、目を開こうとした。その顔が、見たかったから。その顔を見て、安心したかったから。
「綺麗ですよ」
二人が眠るには少し狭いベッドが、却ってお互いの存在が近くに感じられて、好きだった。もっと大きいのを買いましょうと君は言ったけれど、僕はこの大きさが良かったから。
「…もう…少し……」
大きな手が頬に触れる。その体温をもう少し。もう少し感じていたくて、開こうとした瞼を閉じた。そのぬくもりを、感じたくて。
「しょうがないですね」
溜め息が一つ、聴こえてくる。それすらも優しいもので。優しいもの、だから。
そのまま目を閉じていると、再びベッドの中に君は入って来た。そしてそっと、僕を抱きしめてくれる。その大きくて、暖かい腕で。だから僕はもう少し、寝たふりをした。



遠坂は狩谷を起こさないようにと、そっと顔を覗き込む。余りにも無垢で綺麗で、その寝顔はまるで天使に見えた。
―――ふと、遠坂は思う。この腕に眠る人が昨夜と同一人物なのだろうか、と。
昨夜、自分の背中に爪を立て。濡れた瞳で自分を見つめ。そして眩暈を覚える程の淫らな表情で。歓喜の声を洩らしていた人なのかと。

―――堪らない罪悪感が襲う。

自分はこの天使を穢しているのはないかという錯覚に陥る。
綺麗で無垢で純粋な天使を。
それでも、自分は。彼を離せない。離せる筈がない。


その瞼がそっと開かれたと思ったら、真っ先に飛んで来たのは至極不機嫌な声、だった。
「何、人の顔じっと見てんだよ」
「貴方があまりに可愛かったから」
「…き、君は……」
「可愛いですよ、貴方は誰よりも」
こういうセリフを遠坂は真顔で言う。狩谷はそのたびに思わずにはいられない。彼には照れと言う物が無いのか、と。本当に彼はストレートに自分の気持ちを、伝えてくれる。それなのに。それなのに、不安になるのは何故?
こうして身体を重ね合っても。「愛しています」と囁かれても。不安と切なさが積もるのはどうしてだろう。
そしてその気持ちは何時しか、自分の心を静かに侵していく。染み込む闇が、不安が、あちら側へと誘う。行きたくない筈の場所へ。優しく残酷に浸透する、夢。夢に眠れれば。この痛みも切なさも消えると、知っている。
だけど、行けない。何も持っていない。自分は白い服を着られない。まだ、なにひとつ手に入れていない。
「…遠坂……」
自分を引き止めてほしい。絶望の中に引き込まれないように。強い腕で抱きしめて欲しい。
「どうしたのですか?」
見上げれば遠坂の暖かい笑顔。優しい、自分にしか見せない顔。自分以外、知らない彼の顔。
「キス、して」
君だけが自分をそこへ送り込む事も、引き止める事も出来る唯一の、人。ただ独りの人。
「幾らでも、貴方が望む限り」
クスッと一つ笑って遠坂は、狩谷に優しいキスをくれた。


「寒いけれど…学校行きますか?」
「…ってまた君は、僕を甘やかす…」
「ええ、僕は貴方にだけは、甘いんですよ」
「行くよ…君が連れていってくれるんだろう?」
「はい。でもきっと雪が凄いから…授業どころじゃないでしょうけれどね」


優しい笑顔。優しい言葉。
君だけが僕に与えてくれたもの。
君だけがこんな僕になっても与えてくれたもの。
脚が動かない僕に、何もなくなった僕に。
君だけが、僕に、くれたもの。


―――ずっと一緒に、いたい。



「雪合戦しようぜっ!!」
滝川の一際大きな声が教室中に響く。それに弾かれる様に皆は庭に飛び出して雪合戦を始めた。この時勢ささやかなものですら、大事だった。こんな機会でもなければ、無邪気にはしゃぐ事も出来はしないのだから。
「行って来なよ」
けれどもその声に狩谷は反応しなかった。車椅子に座り、外に駆け出す皆をただ見下ろしていた。そんな彼に付き合い横に立つ遠坂に、狩谷はぽつりと言った。
「どうして?貴方がここにいるのに」
そういう事は…分かっていた。遠坂がそう言ってくれるのは。それでも。それでも今は。今はひどく。ひどく独りになりたかった。自由に歩き回る皆を見て惨めな思いをする自分を…彼に見られたくなかった。
「いいから、行って来なよ。君の姿見たいから。僕の代わりに…雪と遊んできて」
そばにいて欲しい思いと、そして見られたくない思いと。そして見ていたいという思い。それが全てごちゃ混ぜになって、こんな風に。こんな風な言葉を言わせる。そして。
「―――分かりました…でもすぐ戻ってきますからね…」
やっぱり一番狩谷が望む答えを…彼は与えてくれるのだ。


「おい、遠坂クン」
器用に雪を避け確実に相手に当てている遠坂瀬戸口が声を掛けてきた。彼も普段あまり授業やら訓練らに出てはいないくせに、遠坂以上に反射神経が良いのか、器用に雪を避けていた。
「何ですか?瀬戸口くん」
「大きなお世話だけど、狩谷ほったらかしてこんな事してていい訳?」
「それを言うなら貴方も『ダーリン』をほったらかしていいんですか?」
瀬戸口の問いにここぞとばかりに遠坂は反撃した。その言葉に瀬戸口は耳まで真っ赤になる。どんな事にでも飄々としている瀬戸口だが『彼』の事になると面白いくらいに動揺するから楽しい。その事実に気付いてからというもの、事あるごとに返り討ちにしている遠坂だった。
「いいの、あいつは…大体皆と戯れて雪合戦なんてするキャラだと思うか?」
「確かに…それにあの制服では寒いですよね」
「いーの、寒くても俺が暖めてやるんだから」
「って逆でしょうが、それは」
「―――いちいちムカツク奴だな…お前は……」
「真実を言っただけですよ、瀬戸口くん。それよりもほら、貴方の『ダーリン』が呼んでますよ」
「え?」
遠坂の指差した方向に瀬戸口が視線を向ければ、廊下に来須が立っていた。呼んでいると言うのは遠坂の勝手な判断だが、その目は明らかに瀬戸口を見つめていた。帽子で隠れていても、瀬戸口だけには分かるのだ。
「…あ…わりー俺ちょっと用事思い出した」
そう言って咄嗟に雪合戦から抜けて廊下へと向かう瀬戸口に、遠坂は苦笑を隠しきれなかった。そして。
そして自分の恋人もこんな風に素直だったならばと…少しだけ、思った…。



外から楽しそうな笑い声が聴こえてくる。でもその声も何処か耳には遠い。遠くから、聴こえてくるようだった。
「…遠坂……」
遠坂は優しい。自分にだけは優しい。どんなにひどい事を言っても、どんな我侭を言っても、彼は。彼は何時も微笑ってその全てを受け止めてくれるから。
―――自分の欲しい物全てを与えてくれる。大好きな、君。
気付いたら好きだった。自分を見つめる真っ直ぐな瞳も。優しい笑顔も、包み込む腕も、全部好きだった。
それは。それは、自分が昔からずっと欲しくても手に入れられなかった物に似ていて。


消えてしまった天使と、砕けた夢を忘れてしまえる程。
大切で。大切、だから。だから、怖かった。
もしも。彼が自分から消えてしまったら。
―――その事が僕を絶望の夢に、誘う。



冷たい空間の中でずっと待っていた。ずっと、待っていた。
帰ってくる筈の無い人を。戻ってくる筈のない恋人を、ずっと待っていた。
どこかで、信じていて。いつか自分の元に帰ってきてくれると。
脚がなくなった僕でも、愛してくれると。動けなくなった僕でも愛してくれると。


…でも、戻ってはこなかった。誰一人自分の元へは……



「―――あ、狩谷」
瀬戸口が視線を巡らさせた先に、車椅子を引いてやってくる狩谷の姿があった。何時もなら必ずその車椅子引いているはずの遠坂の姿がなかった。まだ、雪合戦に興じているのだろう。
「…瀬戸口…」
瀬戸口の呼びかけに気付いた狩谷が顔を上げて、こちらを見上げた。瀬戸口の隣に立つ来須にも軽く視線を巡らせながら。
「外行くのか?つーか『従者』はいなくて平気なのか?」
先ほど遠坂に言われた『ダーリン』に密かに対抗するように瀬戸口は言ってみた。けれどもこの手の冗談に狩谷が付き合う筈もなく。
「―――」
「あ、じょ、冗談。わりー、気をつけて行けよっ!雪は転びやすいからな」
「君もあまり来須には迷惑をかけないようにね」
くすりと口許だけで微笑って言う狩谷のセリフに瀬戸口は首を竦めた。この皮肉屋の天才は、誰にも心を開かない。心をこじ開けた、遠坂以外には。
「…狩谷、雪は危ない。気をつけろ」
「ありがとう、来須」
それでも来須の言葉には素直に答えを返した。けれどもやはり口許だけで微笑っているのは変わらなかったけれども。



雪に埋もれた街は別世界のようだった。吐く息が白くて、空気がつんっとする。汚い街を雪が覆い隠してくれて、凄く、綺麗だった。
―――それでも現実に引き戻すように車のクラクションが、鳴った。
その音を無視するかのように、狩谷は自らの車椅子を押して雪に埋もれた歩道を進み続けた。あれから校庭を遮るように校舎を飛び出し、こうして街を今歩いている。
「…眩しい…」
空を見上げると、やっぱり都会の空は灰色で。本物の空じゃなかった。本物の空の色をしていなかった。それが何だか、切なくて。ひどく、切なくて。

――――本物の空は存在するのだろうか?

こんな時にふと、思う。こんな汚い世界の何処を捜せば本物の空は見つかるのだろうか?と。この頭上にあるのはただの空間でしかないのではと。もうどこにも本物の空なんて、無いのではと。
「…遠坂……」
その口が無意識に大切な人の名を紡ぎ出す。無意識に、その名を呼ぶ。声が、聴きたい。優しい声が、聴きたい。そして今の不安定な心を、そっと抱きしめて欲しい。
でもその心の正反対の場所が、言っている。こんな情けない自分を、見られたくないと。こんなに弱い自分を、見られたくないと。
自分は何時の間にこんなにも脆い人間になってしまったのだろうか?気付けば何時も何時も、何処かで君を求めてる。君がいなくては生きてはいけない程に。

―――ううん、生きてはいけない。

もう僕は、君なしで生きていく事なんて出来ない。君のいない世界を、君がいない世界を、僕は考えられない。
そう、知っていた。そう、分かっていた。どうしてこんなにも不安になるのか。どうしてこんなにも…自分が怯えているのか。
君に抱きしめていられても、愛していますと言われても、不安になる訳を。自分が夢の中に引きずられる訳を。

―――怖い、君を失うのが……

もしも君が僕の事を嫌いになったら?
もしも僕以外の人を君が愛したら?

信じている筈なのに不安になる。信じたいのに、怯えている。
だって、君は。君は、僕がいなくても生きてゆけるけど。
僕は君がいなければ、生きてはいけない。君が、僕のそばにいなければ。


独りで生きていくだけの強さと優しさが、君にはあったから。だから。
だから僕は、願う。だから僕は、想う。

君が僕を愛してくれる、この瞬間。
幸福でいられる今、死にたいと。
君の瞳が他人を映す前に。
君の瞳が僕以外を見る前に。


死んでしまいたい。このまま。このまま、しあわせなままで。




もしも、今僕が死んだら、どの位の人が哀しんでくれるのだろうか?




「瀬戸口くん、来須くん、夏樹を知らないですか?」
渡り廊下から教室に戻ろうと歩き始めた時、ふたりは遠坂に呼び止められた。その顔はひどく真剣で、何処か不安げだった。
「狩谷ならさっき、外行ったよ」
「―――外、ですか?でも校庭には…来なかった」
「でも向かってたぜ、な。来須」
「…ああ…だが……」
しばらく来須が何かを考えているようにして、そして。そして視線を校門へと向けた。そして。
「校庭には向かっていなかった…多分」
「分かりました、ありがとう来須くん」
「って俺には礼言ってくんねーの?」
少しだけ不満そうにしている瀬戸口に遠坂はひとつ微笑って。
「いいでしょ?貴方に言うのも来須くんに言うのも同じでしょ?貴方達は何時も一緒なんだから」
瀬戸口の耳まで真っ赤にするようなセリフをサービスした。



「…夏樹…もう私達…別れましょう・…」


僕が真先に思い出す彼女の言葉はこれだった。
最期まで信じていた彼女。ずっとそばにいてくれると信じていた彼女。
いつしか帰らない彼女を玄関で膝を抱えて待っていた。
何処かで、信じてた。自分の元に帰ってきてくれると、信じていた。

身体が凍えても、心が凍えても、待っていた。帰ってきてくれると。


天使が失踪しても。海の底から目覚めても。
子供の時間が終わっても。
夢を信じていたかった。
くだらない事を大切にしたかった。
子供のままでいられたら。
きっと死にたいなんて思わなかった。


―――僕をがんじがらめに縛って、離さないで欲しい。



「…寒い…な……」


大人になっていくたびに。子供が死んでいくたびに。
信じられる物が少しずつ消えていく。そして、きっと。
そして、きっと全てが無くなってしまう。
今も、信じられなくて。大切な人すら信じられなくて。
自分は、こことは違う場所へ行こうとしている。

―――行ってはいけない。

そんな事分かっている。でも、それを押し退けるだけの強さが自分には無い。今が幸せであればある程。君が優しければ優しい程。自分はどんどん弱くなって、ここから消えたくなって。―――消えてしまいたい。
もう誰も自分のもとから行ってしまわないでほしい。誰も、自分から消えないでほしい。
「…何だか、眠いな…」
このまま、眠ってしまえば。再び、自分の大切な人を失わなくてもすむだろうか?冷たい空間でずっと待っていなくてもいいのだろうか?
「…眠ろう……」
この大きな木の下で。空に還ろう。空に、還ろう。白い服が着られなくても。何も手に入れる事が出来なくても。もう失う恐怖に脅えるよりも、いい。


―――神様はいない。

全てを失って、それを知った。
だってどんなに祈っても、願っても。
願いは、祈りは、叶わない。
だから、最後の楽園に神様はいない。



「…き……なつ…き…夏樹っ!!」
身体を揺らす衝撃に失いかけていた意識が呼び戻される。自分の名前を呼ぶ、その声に。その、ただひとりの声に。
「夏樹!!」
身体が、あたたかい。何かに包まれているみたいに。つつまれて、いる。おおきなうでに。あたたかい、うでに。ああ、このままでいたい。
「…遠…坂…」
目を開けた瞬間に、驚いたような…怒ったような…けれども何よりも心配そうな瞳。君のそんな目見られるなんて、嬉しいな。
「―――よかった…夏樹……」
けれども君が。君の腕が強く僕を抱きしめるから。だからその顔が…その表情が見えなくなって。もっと色んな君を、見たいのに。もっと、その顔を見たいのに。
「…遠坂?……」
名前を呼べば、その腕の力が益々強くなる。あまりにも強くて痛かったけれど。でも嬉しかった。うれしかった、から。

―――だから僕は両腕を背中に廻して、君にぎゅっと抱きついた。

「…こんな所で眠っていたら…死んでしまいます…」
「…死ぬ?……」
ああ、そうだ。そうだ、僕。僕、死のうとしていた。ううん、死にたかった。君を失うのが怖くて。彼女みたいに、僕から離れていくのを見たくなくて。
「…遠坂…僕……」
全てを失う前に消えてしまいたいと、そう思ったから。失う前に消えてしまえば、胸の痛みも苦しみも、全てが。全てが消え去ってくれるからと。
「…死のうと、思った……」
「…夏樹?……」
「僕、死にたかった」
その言葉と同時だった。―――君の手が僕の頬を叩いたのは。



「…痛い…遠坂……」


いやに冷めた口調で言っていた。自分でも驚く程に。まるで他人事のような、声。
「貴方は、何を言っているのか自分で分かっているのですかっ?!」
君の手が僕の肩を掴んで。きつく、掴んで。その指が肩に、食い込むほどに。食い込むほどに、強く。僕が顔をしかめずにはいられない程に。
「うん、分かっている。僕はバカだから」
「…ええ、貴方は馬鹿です…」
「ひどいな、そこまで言わなくても」
くすっと口許だけで微笑ったら。君は僕を。僕を強く、抱きしめた。胸が折れるのではないかと思うくらいに、強く僕を。
「…苦しいよ…遠坂……」
「嫌です、離さない。離したら、貴方が消えてしまう」
「―――遠坂……」
「…離さない…絶対に……」
その低く、けれども強く告げられた言葉に。その言葉に僕は瞼を震わすのを…止められなかった。


哀しい。とても。君の腕の強さが。
君の身体の暖かさが。君のこころの声が。

…君の全てが…、僕は……



「…遠…坂……」



気が付いた時には、自分は泣いていた。透明な雫が瞳からとめどもなく流れる。流れて、そして零れ落ちて。ぽたり、ぽたり、と。
「…僕…怖かったんだ……」
その涙に君の腕の力が弱まって。そして。そして、そっと僕を見つめた。何処までも優しい瞳で。何処までも、哀しい瞳で。
「―――夏樹?」
「…いつか…君が、僕から離れて行くんじゃないかって…ずっと…」
「何を言って…夏樹……」
「だってそうだろ?!僕は君なしでは生きていけないけど、君は…生きていけるだろう?……」

「…君は強いから…僕みたいに弱くないから。だから……」



また、貴方の頬に涙が伝う。綺麗で哀しい涙が、そっと伝う。僕は。僕は貴方にそんな顔を…そんな瞳をさせたくはないのに。僕はどんな時でも…貴方に微笑っていた欲しいのに。
でも貴方は無言で僕に告げている。こんなにも、自分は弱いと。そしてこんなにも自分はちっぽけだと。
「どうして、貴方は…僕は……」
再び、僕は貴方を抱きしめた。壊れないように、壊さないように、そっと。そっと貴方を抱きしめる。大切な貴方を。
「僕が強いと言うならば…それは貴方がいるからです。貴方がいるから僕は…幾らでも強くなれる……」
「…遠坂……」
「貴方の為に、僕は強くなる。そう決めています。貴方を護る為だけに強くなると」
貴方の冷たい頬に手を重ねたら、ぴくりと睫毛が震えた。けれども構わずに僕はその頬に触れる。貴方を少しでも、暖めたかったから。
「だから貴方が僕の側にいなければ、僕はこの世のどこにもいません」
「…どうして?……」
「―――貴方のいない世界なんて、僕にとっては生きている意味がない場所だから」

「…貴方がこうし存在する場所が…僕にとっての唯一の生きる場所だから……」


貴方がこうして生きて。
そしてそっと微笑い。
貴方の心が少しでも。
少しでも光に包まれたら。
それだけで、僕は。

―――僕は生きている意味が、あるのだから……


「…遠坂……」
視界が涙で、歪む。それでも僕は。僕は君を見上げた。君だけを、見つめた。永遠も未来も信じてはいなかったけれど。でも今は。今はその瞳だけは、信じたい。信じられる。
「―――夏樹…」
涙をそっと拭ってくれる手。暖かい大きな手。僕を包み込んでくれる、どこまでも優しい手。どこまでも優しい、手。
「…愛しています…貴方だけを……」
この手だけが、僕を救う。この手だけが、僕を引き上げてくれる。この手だけが、僕を。
「…僕も…君だけ……」
見上げて、真っ直ぐに君を見上げたら。そっと唇が降りて来た。降りてきて、そして。そして重なり合う。
今は、これで充分だった。これだけで、しあわせだった。



たとえ、子供の時間が終わっても。
夢が砕けても。空がどこにも無くても。

―――天使が失踪しても。

失わない物はある。消えないものはある。
ちゃんと、真実は、本当の事は、残る。
自分にとって命懸けの物ならば。
たとえ全ての人がそれを奪おうとしても。
誰にも、奪えないから。誰にも、奪えはしないから。

傷ついても壊れても。もう、怖くない。
―――もう、怖くない。
僕を誘う絶望の夢も、君が消してくれる。



「―――夏樹」
「何?」
冷えきった身体は君が暖めて、くれた。その腕の中に僕はいるだけでいい。それだけで、いい。
「いいえ、何でもないです」
「何だよ、ちゃんと言えよ」
少しだけ拗ねたように言ったら君は、微笑った。ひどく優しく、ひどく嬉しそうに。そして。
「―――仕方無いでしょう……」

「貴方がそんな事を言ってくれるとは、思わなかったから」



「…貴方は、天使だから……」
「…遠坂?……」
「知っていますか?天使が降りる時、最も自分の大切な人の顔をして現れるって事を」
「―――だから?」
「貴方は、僕の天使です」




最後の楽園にいるのは。
神様でも天使でもなくて。きっと。



―――きっと、目の前に映る人だと、思う。


END

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