月に濡れて、そのまま溶けてゆきたい。
ゆっくりと、溶けていって。
腕の中で少しづつ溶けていったら。
そうしたら、僕は。
僕は『無』になっても、君の中へと。
―――君の中へと染み込んでゆくのかな?……
君に抱かかえられたまま、静かに海の中へと入ってゆく。水はまだ冷たくて、夜空が映し出された水面はまるで深い穴のようだった。
「ねえ、来須」
名前を、呼んだ。その口許から白い息が零れてゆく。まだ。まだ春は遠いのかもしれないね。ううん、もしかしたら。もしかしたら春は…来ないのかもしれない。
「なんだ?」
ぎゅっと背中に抱きついて、そのぬくもりを感じた。こうしていれば寒さなんて全然感じなかった。君がいれば、寒さも熱さも全て。この腕の中で遮断され、そして残るものは君のぬくもりだけで。
「このまま海の中に潜って死んじゃおうか?」
髪に本当は指を絡めたかった。けれども君は帽子を取ってはくれなかったから、それは叶わなかったけれども。でも今はそれでいいのかもしれない。今髪に指を絡めたら。
―――きっと切なくて苦しくて、どうしていいのか分からなくなるから…
「お前がそう望むなら」
口許だけで君は微笑った。それが何だか切なくて、僕から君にキスをした。
我が侭を云ったのは、僕。
僕を抱いたまま海に入って、と。
このまま入って、と。
でも君はそんな僕の我が侭をきいてくれる。
どんな我が侭でも、どんな望みでも。
君は決して僕を拒まない。
それが。それが僕は、切ない。
「時々死にたいと言う衝動に駆られる」
「―――狩谷……」
「君に優しくされるたびに、そう想う。君のせいだ」
「俺のせいか?」
「君のせいだ。君が僕を甘やかすから…優しくするから…いけないんだ」
君が優しいから。優しすぎるから。
だから、逆に。逆に不安に、なるんだ。
どうしようもない程の、不安に。
「…君は僕が死ねと言ったら…死ぬの?」
全ての望みを与えてくれる唯一の相手。
全ての望みを奪える唯一の相手。
優しくされ、そして叶えられれば。
残るものはただひとつ。ただ、ひとつ。
―――失う事への、不安と怯え。
「お前が望むなら」
ほら、やっぱり君はそう言うね。僕の言葉を全て叶える君は、それがどれだけ僕を追いつめるか分かっているのかな?
「この身体も、命も…お前にやる…」
全てなんていらない。全てなんて欲しくない。そうしたら君は。君は消えてしまうだろう?だから僕はそんなモノを欲しくはないんだ。
「…来須……」
大きな手が僕の頬に触れる。全てのものはいらないけれども、このぬくもりだけは。この手のひらのぬくもりだけは、どうしても欲しいものだった。
「けれどもお前は、そんな事は望まないだろう?」
見上げて君の顔を見つめれば、そっと口許がひとつ微笑った。柔らかい笑顔に胸を締め付けられながら、僕は。僕は苦しくてどうしようもなくて、目を閉じ自分からキスをした。
「…独りでは死なない…お前はそれを望まない…」
「…どうして…分かるの?…」
「お前は失う不安に怯える前に、自分からそれを断ち切るから」
「――――」
「だからお前は、俺が死ぬ前に…」
「―――自らの死を選ぶだろう?」
失う事への不安。
それが何時も僕には付き纏っていた。
消えない、消せない、不安。
一度全てを失った僕にとって、もう二度と。
もう二度と失う事への怯えを。
消す事は、出来なかった。
―――ひとはひとりでは、生きられない……
「このまま君と沈みたいと言ったら?」
「構わない、共に行こう」
「…本当に?…」
「―――ああ……」
「そうしたらお前は、信じるか?」
僕が言葉を紡ぐ前に、その唇がもう一度触れた。優しい、キス。優しすぎる、キス。僕にとっての全ての想いが、今ここにあるとしたならば。
「俺の気持ちを、信じるか?」
ここにあるとしたならば、僕の想いは全て。全てが君へと向かっている。ただ独りの君へと。
「どんなになってもお前のそばにいると言う俺の想いを……」
その言葉に微笑おうとしたら上手く微笑えなかった。口許が歪んで。歪んでそして。そして瞳から涙がひとつ、零れ落ちた。
―――ぽたりとひとつ、海に雫が零れ落ちた。
君を、探して。
ずっと、探していた。
ただ独りの君を。
僕の手を離さない君を。
ずっと、ずっと。
―――僕は君を、探していた……
「このまま溶けて無くなっても」
「――――」
「君は僕を見付けてくれる、よね」
「ああ」
「どんなになっても俺はお前を探し出すから」
頭上に浮かんでいた月がふと消えて、そして。
そして闇の中にふたり紛れても。
繋いだ手は離れないし、触れ合っているぬくもりは。
……そのぬくもりは永遠だと…信じられる…から………
END