――――境界線を越えたら、もう戻れない。
伸ばした指先を、そのまま絡めたら。
引き寄せて、そして抱きしめたなら。
もう二度と。二度と戻れない。
そう分かっていても、この指を離すことなんて出来なくて。
…離す事なんて…出来ないから……
「君がここまで来たら、もう戻れないよ。それでもいいの?」
ひどく自分が冷静に告げているのが分かる。それが自分でも不思議だった。こんな風に他人事のように言えた事が。本当は心の中はもっと。もっと違う想いで埋められているのに。
「――ああ」
それでも君は僕の手を取った。手を取り、そのまま僕を引き寄せる。不安定な姿勢に車椅子から落ちそうになったが、その力強い腕が抱きとめてくれた。身体をそっと、抱きとめてくれた。
「…来須……」
そのまま背中に手を廻せば、身体が宙に浮くのが分かる。少しだけ君と空に近付く瞬間だった。もう二度と届かない空に、触れられそうな瞬間。
「もうこれで君は戻れないよ」
本当はもっと違う言葉が言いたかったのかもしれない。けれども今はこの言葉しか言えなかった。背中に廻した手に力を込めてそう告げるしか。
「戻る場所なんて俺にはない」
そう言って口付けられたその激しさに。全てを奪うような口付けに、何もかも溶かされてゆく。
―――全てを、溶かされてゆく……
君は風だと、思った。
ふわりと全てを包み込む風。そして飛んで離れてゆく風。
一定の場所にとどまる事無く何時しか。
何時しか必ず僕のそばから消えてゆくんだと。
気まぐれな風は、ずっと同じ場所にはいない。
だから何時しか君も。
君もここではない何処かへ。
…ここではない何処かへと、消えてゆくんだと……
それでも君を、感じたい。それでも君を、憶えていたい。
「君を独りいじめ出来たらいいのに」
鼻孔を掠めるのは草の匂い。少しだけ朝露を含んだ萌える香り。その香りを感じながら目を閉じた。瞼の裏に蒼い空と、君の瞳を焼き付けながら。
「何処にも君がいかないように…ずっと僕のそばにいてくれるように…」
ずっと背中に手を廻したままでいた。目を閉じているから、離したら君が分からなくなってしまうから。けれども瞼を開こうとは思わない。君が言った言葉の意味を少しでも分かりたかったから。
―――目に映るものだけが、真実じゃない……
ならばこうして目を閉じて君を感じれば。君のことだけを感じれば…僕は真実を見る事が出来るのだろうか?君の、真実を。
「俺は何処にも行かない」
草の上に身体が降ろされるのが分かる。こんな風に芝生の上に寝転んだのは、何時以来だろうか?もう記憶がない幼い子供の時以来だろう。
「ずっとお前のそばにいる」
…嘘…と言葉にする前に、その唇でそっと塞がれた。その柔らかく切ない口付けに、僕の意識が溶かされてゆく。そっと溶かされてゆく。
「…んっ…ふぅ…ん……」
自ら唇を開いて、その舌を受け入れた。自分から積極的に絡めて、君を誘う。ぴちゃぴちゃとわざと音を立てながら。
「…くる…す…はぁっ……」
この瞬間になって初めて、目を開いた。唇が離れたと同時に、唾液の線が一本伝う。それが僕の顎先に流れれば、君は指でそれを拭った。
「…本当に…そばにいて…くれる?……」
約束は、果たされる事はない。分かっているよ、だって。だって君は風だから。一定の場所にとどまる事を許されない風だから。僕の時間軸と君の時間軸は違う。重なり合う瞬間は合っても、また離れてゆくのだから。離れて、そしてその時はもう二度と逢えないのだろう。
「いる、お前が死ぬまでずっと」
髪の後ろに指を入れられて、そのまま少しだけ上半身が浮くのが分かる。近付く顔と蒼い瞳が…空よりもずっと蒼い瞳が、とても綺麗だった。
「…僕が…死んだら?……」
「ずっと、ここにいる」
空いた方の手が、自らの胸を指す。その仕草に僕は微笑った。君らしくなくて、けれどももっとも君らしいその仕草に。
時間軸が重なり合った偶然。
その偶然が奇跡だったならば。
それだけで、しあわせなのかもしれない。
けれどもしあわせは同時に哀しみと苦しさを生む。
その微妙なバランスが。
ただひたすらに、切なくて。
―――どうにも出来ないほど、切ないから……
「…うん、ここに……」
手を伸ばし、君の胸に触れた。
「ここにずっと」
触れて感じる命の鼓動。命の音。
「ずっと僕を―――」
とくんとくんと聴こえる命の。
「…置いていて……」
命の、あたたかさ。
もしかしたら君のほうが、切ないのかもしれないね。
互いに服を脱がし合って、そして抱き合った。
この蒼い空の下。萌える緑の上で。
熱い身体を重ね合って、そして甘い息を零し合って。
誰に見られても構わないと思った。
誰に何を言われてもいいと思った。
僕にとって大事なのは君といる事だから。
限られた時間の中で、君を感じる事だから。
君だけを。君だけを僕の全てで。
全てに刻み込む事だから。
――――君だけを…僕の全てで……
「お前だけが、俺を捕らえた」
「…来須……」
「お前だけだ…俺がいたいと思った場所は」
「…お前のそばだけなんだ……」
背中に廻した手に力を込めた。風のような君。何時しか去ってゆく君。それでも。それでもそばにいてくれると言った。僕のそばにいてくれると、そう。ここにいたいと、言ってくれたから。
「…離さないよ、ずっと…」
厚い胸板に顔を埋める。聴こえてくるのは命の鼓動。この音に埋もれている時間が何よりも僕にとって必要な時間だと気が付いたから。
「君を離さないよ」
何よりも僕にとっても、ここが。この場所が大切だから。
「それは俺の台詞だ」
見上げて、見つめ合って。そしてくすっとふたりで笑った。その笑みに含まれている切なさはふたりには痛いほど分かっていたけれども。それでもその切なさを押し込めても僕等は。僕等は今、微笑いあいたかったから。
「お前が死んでも…俺のココに閉じ込めるから」
君の胸の中。君のこころの中。何時しか僕の居場所はここだけになるんだろう。肉体も命も魂もなくなっても、ここに。ここに永遠に宿る事が。
「…うん…閉じ込めて……」
―――君の、永遠になれたならば……
もう戻れなくてもいいと思った。
捕らわれた場所が君のこころの中で。
そして僕が捕らえたものが、君だったならば。
もう何処にも戻れなくてもいいと思った。
ふたりが越えた境界線の先には、ただふたりだけが存在していたから。
END