地上を飛び立つ羽は、背中からもぎ取られた。
何処にも行けない。何処にも辿り付けない。
無数の扉を全て開いたとしても、そこには。
そこにはまた、扉が続いてゆくだけ。
何度開けても辿り着けない。永遠の、迷路。
――――何処にも、僕はいけない……
「…このままお前さんは、壊れるのか?……」
無意識に瞼を震わせてしまう、その声に。その声に、溺れたいと思った。けれども全身を貫くような、鋭い視線がそれを許してくれない。
「―――壊れるか?」
壊れたかった。壊れてしまいたかった。僕は何処にも行けないのなら、何処にも辿り着けないのなら。永遠の迷路から…逃れられないのなら。
「…壊れたい……」
永遠に動かない脚。永遠に何処にも辿り着けない自分。このままあしき夢に捕らわれ、滅びの道に進む以外ないのならば。
「そうか、なら」
彼の長い指先が僕の髪に触れる。その瞬間ぴくっと、身体が震えるのを抑えきれない。心が麻痺しかけていても、やはり君に触れられると…胸に宿るものがあるから。
「俺が壊してやるよ」
「…え?……」
僕がが疑問符を投げ掛ける前に―――不意に彼の唇によって、僕の唇が塞がれた。
しあわせになりたいと、思った。
ふと、思った。ただ、思った。
何をする訳でもなく、ただしあわせに。
しあわせになりたいと、願った。
それがただの夢でしかないと分かっていても。
もうすぐ僕はあしき夢に捕らわれ、そして自我をなくすだろう。
何処にも行けない僕は、何処にも逃れられない僕は。
それでもふと、思ったんだ。君の顔を見た時に…しあわせになりたい、と。
「……や、だ………」
唇が離れたと同時に狩谷の首が弱々しく振られる。そんな様子を見て瀬戸口はくすりと、笑った。ひどく、自虐的な笑みで。
「壊れたいって言ったのは、お前さんの方だろう?」
「離せっ!」
瀬戸口の力強い腕が狩谷の細い手首を掴み、強引に引き寄せる。その瞬間、狩谷の身体が目にも分かる程明らかに、震えた。
「その身体に匂いが染み付いている―――俺と同じ…匂いが……」
「…やめっ……」
浮き上がった首筋に噛みつくように口付けられる。その瞬間、マヒするような感覚が狩谷を襲った。身体の芯から沸き上がるような、甘い痛みが。
「…あっ……」
思わず狩谷の口許から甘い吐息が漏れる。咄嗟にそれを隠そうと唇に手を持ってゆくが、寸での所でそれは遮られてしまって。
「何故、隠す?お前の本当の顔が見たい」
口許だけを微かに上げて笑うその表情は、怖い程綺麗で。魅せられずにはいられない。その紫色の瞳の奥に棲むモノが、自分を引き寄せる。同じ匂いのする、その瞳が。
「俺はお前の素顔が見たい。本物の顔を」
「…僕の、素顔?…」
「―――見せてくれ………」
そう言って再び塞がれた唇を、狩谷は拒む事が出来なかった。
―――本当は気付いていた。
君の、紫色の瞳の奥に見えるものが。それが僕と同じで。
僕はその瞳を通して自分自身を見つめていた。
決して社会に、ここに、この場所に、溶け込めない自分たち。
どんなになろうとも世界から、摘み出される自分たち。
――――君と僕は、同じ孤独を抱えている。
「…はぁっ……」
長い口づけから開放されて、狩谷の口から長い溜め息が零れる。その間にも狩谷の肢体は冷たいコンクリートの上に押し倒されていた。脚が動かない自分の身体を車椅子から降ろして、冷たい教室の床に。そのまま指先がそっと。そっと、髪を撫でる。
「…あっ…」
髪を撫でていた手が頬を辿り、首筋を滑り、鎖骨に辿り着く。その滑らかなラインを指先で玩びながら、瀬戸口は器用に狩谷の制服を脱がしてゆく。
「…あぁ…っ……」
指の後を辿るように彼の舌が狩谷の鎖骨を舐め、瞼を震わせる。鎖骨の窪みを柔らかく吸い上げると、その口は耐えきれずに甘い息を洩らした。
「…あ…んっ…あぁっ……」
偶然に辿り着いたとでも言うように、瀬戸口の繊細な指が狩谷の胸の突起を捕らえる。それを人指し指と中指でつまみ上げると、それはぷくりと立ち上がった。
「敏感だな、お前は」
「…うるさ…あっ……」
くすくすと笑われながら言われるのが悔しくて反撃を試みるが、その言葉は瀬戸口の口に含まれた突起のせいで言葉にならなかった。
「…あっ…あぁ……」
舌先でつついたり軽く歯を立てたりして、瀬戸口は性急に狩谷を追い詰めてゆく。巧みなその愛撫は、的確にその肢体を追い詰めるのだ。
「…はぁ…ぁぁ……」
やっと胸を開放されたかと思う間も無く、瀬戸口の指と舌は狩谷の全身を滑る。脇腹から股、そして足の指にまで。彼は余す所無く、その全身に口付けた。まるで自分の知らない所がある事が、許せないとでも言うように。
「―――あっ!」
足の付け根を蠢いていた手が、ついに狩谷自身へと触れる。それは先程の愛撫によって微妙に形を変えていた。
「…ああ…あ…」
形を辿るように指は淫らに絡みつく。それに耐えきれずに狩谷の指が瀬戸口の茶色の髪を掴んだ。そしてそれをくしゃりと乱す。
「…やぁ…あ…んっ……」
限界まで膨れ上がったそれに、無情にも瀬戸口は愛撫の手を止めてしまう。そしてその手を狩谷の口の含ませた。
「…んっ…ん……」
口内で彼の指が悪戯に蠢く。口の粘膜を指で押したり、舌を撫でたりして、しばらくその感触を楽しんで。そして。
「…くぅ…ん……」
引き抜いた指を狩谷の最奥へと侵入させる。しかし本来の目的で使われている訳では無いそれは、容易に異物を受け入れなかった。
「…いた…い…くふっ……」
耐えきれずに瀬戸口の背中にしがみつく。そんな狩谷に瀬戸口はひどく優しく笑って。
「大丈夫、力抜け」
「…あ…んっ…」
痛みから意識を遠ざけるように、瀬戸口は狩谷に口付けた。口内に舌を侵入させ、臆病なそれを絡め取る。
「…ふぅ…ん…はぁっ……」
その痺れるような口づけに、狩谷は酔い痴れた。その間にも指は奥へと忍び込み、いつの間にか本数が増やされていた。狩谷が意識、する前に。
「―――あっ……」
キスから開放されたかと思うと、今度は狩谷の中にいる指の動きに悩まされる。いつのまにか痛みは、背筋から沸き上がる別の感覚へと擦り代わっていた。
「…あっ…あ……」
それぞれ勝手な動きをする指は、ひどく自分を悩ませる。けれどももう、痛みは感じなかった。痛みよりも別のものが、自分を支配して。じわりと、支配して。
「―――いいか?」
馴染んだのを見計らって、狩谷の中から指が引き抜かれる。そして瀬戸口はひどく優しい声で、狩谷の耳元に囁いた。
―――自分は、その声に導かれるように無言で頷いた。
傷が、同じだから。こころの傷が同じたから。
だからもしかたら、埋め合えるかもしれないと思った。
もしかしたら、孤独を埋め合うことが出来るかもしれないと。
…けれどもきっと…きっとそれすらも…ただの夢なのかもしれない……
「―――ああっ!」
指とは比べ物にならない圧迫感に、狩谷の目尻から雫が伝う。それに気付いた瀬戸口の手が優しく零れ落ちる涙を拭った。
「…あっ…ああ……」
瀬戸口は狩谷を傷付けないようにと、細心の注意を払ってその身体を手に入れてゆく。ゆっくりと、焦らずに、そしてじっくりと。
「…ああ…あ……」
痛みを和らげるように、放っておかれた狩谷のそれに指を絡める。そして快楽に身体が緩んだ隙に、瀬戸口は奥へと自らを埋めていった。
「…あぁ…あ…ん……」
耐えきれずに狩谷は彼の白い背中に爪を立てる。そこからは、薔薇のように紅い血が滴り落ちた。それがひどく、狩谷の目に焼き付いて。その真紅の色彩が。
「―――狩谷…」
抱かれてから初めて、呼ばれた名前だった。それがひどく狩谷の胸に染み込んだ。もっと、名前を呼んで欲しいとそう思った。もっと、呼んでと。
「―――あああっ……」
一層深く貫かれ、狩谷の最奥に白い本流が流しこまれる。それを感じながら、狩谷は瀬戸口の手によって自らも開放していった……。
やはり僕は逃れられない。
無数に絡まった糸が、僕を。
僕を闇へと導く。僕は。
僕は何処にも行けない。
そして君も…やっぱりそこからは逃れられない……
互いにもぎ取られたのは背中の翼。
自由と言う場所へと連れてゆく翼。
それをもぎ取られ、何処にも行けない僕らだから。
だからこんなにも、惹かれ合う。
「…瀬戸口…僕は…君と同じ……」
紫色の瞳が抱える孤独。自分の居場所がここにはないという孤独。
「…君と同じだ……」
決して皆と同じにはなれない。決して同じにはなれない。しあわせに、なれない。
「―――そうだな、狩谷…俺達は結局……」
「…壊れるしか…ねーんだ……」
それでも惹かれ、それでも想い。
それでも願う。ただひとつのこと。
叶わないと分かっていても、願わずにはいられない。
しあわせになりたい、と。
END