――――過ぎ去ってゆく季節の中で、それでも消えないものがあれば。
店先に並ぶ色取り取りのラッピングにふと、瀬戸口は目を止めた。その時点になって思い出す、今日が二月十三日である事を。
毎年だったらこの時期になると愛の伝道師の名に恥じぬように、お嬢様方からチョコを貰う準備に余念のないはずの自分が。そんな自分が、すっかりその事すら頭から抜けていた事実に驚かされた。
もう習性と言うよりも反射神経でこの時期にはチョコを貰う…例えそれが自分の意思とは大いに違っていても。違っていてもそれが自分にとっての『当たり前』だった。望まなくてもそうする事で自分の思い通りのキャラを演じてきたのだから。でも。
でも、もう。もう自分はそんな道化師を演じなくてもいいんだと。愛のない愛の伝道師を演じる事をしなくてもいいのだと。そう思ったら、ひどく。
―――ひどく満たされてゆく、自分が、いた。
並べられたたくさんのチョコの中からひとつ手に取ってみる。ヤローがこうして手に取るものではないのだが、そんな事は今の瀬戸口には気にならなかった。
「…ってチョコって柄じゃねーよな……」
渋めの茶色のラッピングされたチョコをしばらく眺めていたが、瀬戸口はそれを元に戻した。脳裏に浮かんだ人物に、目の前のチョコと照らし合わせて…合わないような気がしたから。
何度も季節は巡り、そして過去になる。
消え去ってゆくものばかりで、手に残るものは何もなかった。
残したいと思うものが、何もなかった。
ただ無駄とも思える永遠の時間を、流れ続け。
そこに見出すものはひとつも、見つけられなかった。
望んだものも、欲しいと願ったものも。何もなかった。
―――お前に、出逢うまでは……
欲しいと思ったものも、失いたくないと思ったものも。
願った事も、祈ったことも、夢を見たことも。
お前に逢うまで忘れていた。お前に逢うまで諦めていた。
ただひたすらに無限とも思える時を、ただ耐えるしか。
耐え続けることでしか、出来なかったから。
伝わるかな?俺がどんなに今、しあわせかと云う事が。お前にちゃんと、伝わるかな?
部屋の鍵が掛かっていないことに、来須は別段気にも止めなかった。この鍵が掛けられている時の方が、今では珍しくなっているくらいなのだから。
「お帰り」
「―――ああ」
カチャリとドアを開ければ予想通りの顔がそこにあった。柔らかい笑顔と、紫色の瞳が。何時もは自分を見上げてくるその瞳も、こうして玄関の段差のせいで今は真っ直ぐに自分に視線が向けられている。
「…ただいま……」
瀬戸口は何時もこの言葉を、欲しがった。帰ってくる時にただ一言―――ただいま、と。それが彼にとって確認である事に気付いたのは、つい最近だったが。
確認、している。その言葉を聴く事で、自分がここにいると云う事を。そして自分が帰る場所が彼の元だと云う事を。
「今日も訓練、していたのか?」
靴を脱ごうとする来須に瀬戸口はそのまま抱きついてきた。仕方なく抱きとめてやると、来須は後ろ手にドアを閉めた。そして鍵を、掛ける。ふたりだけの空間を、ふたりだけの場所を作り出すために。
「汗の匂いが、する…シャワー浴びてこなかったのか?」
髪に指を絡め、そのまま首筋に顔を埋めた。くっきりと浮かぶ鎖骨から微かな汗の匂いがする。その雄の匂いが、瀬戸口の睫毛を震わせた。
「お前が、待っていたから」
抱きとめる腕がそっと背中を撫でる。その優しさが何よりも瀬戸口は好きだった。この言葉少ない男が見せる、こうした無口な優しさが。何よりも好き、だから。
「うん、待っていた。早くお前に…逢いたくて…来須……」
埋めていた顔を上げて瀬戸口は口付けを、ねだった。こんな時に彼はひどく子供のような顔をする。無邪気な、子供のような顔を。そして自分は、そんな彼を見ているのが…何よりも好きだった。
「―――ああ……」
微笑って、大きな手が頬に重なって。そしてキスがひとつ、降って来る。その優しさが泣きたくなるほどに、好きだった。
汗の匂いが、好きだった。自分しか知らない彼の匂い。雄の、匂い。
身体を重ねる時に感じるこの匂いが、この薫りが。自分だけのものだという事に。
自分だけが、知っているという事に。眩暈がする程のしあわせを感じる。
宥められるように口付けられた後に、瀬戸口は来須から身体を離された。少し残念だったけれどこのまま抱き付いていたら自分は、きっと。きっとこのまま抱いて欲しいと、思っただろう。その汗の匂いに、包まれながら。
「風呂先に、入るか?」
靴を脱いで部屋に上がる来須に、瀬戸口は腕を絡めながら聴いていた。瀬戸口はこうして二人でいる時は必ず自分の何処かに触れてくる。教室や、外では口すら聞くことがないのに。こうしてふたりきりになると、必ず人肌のぬくもりを求めて来る。
「ああ…一緒に入るか?」
珍しく、本当に珍しく来須のほうから言ってきた言葉に、瀬戸口は嬉しそうに微笑った。来須の室内のバスルームは男二人が入るのがやっとだったが、それでも瀬戸口は何時も一緒に入りたがっていた。例えそこで行為が行われようとも…それを自らが望むくらいに。
「お前から言うなんて、どう言った風の吹き回しだ?」
「そう言えばお前が喜ぶと思ったから」
その言葉に瀬戸口は答える変わりに自らキスをした。子供のような笑顔で、本当に嬉しそうに。そんな彼の髪を撫でてやりながら、二人はバスルームへと向かった。
シャワーを浴びながら、身体を重ねあった。濡れた肌と重なり合う熱さが、ひどく瀬戸口には心地よかった。
「…あっ…冷たっ……」
ひんやりとしたタイルの壁に押し付けられて、瀬戸口の形良い眉が歪む。それでもそれはすぐに熱となり、口から零れるのは甘い吐息だけになる。
「―――後ろを向け」
言われた通りに身体を反転させれば、後ろから抱きしめられる。そのまま大きな手が胸の果実に触れ、ぎゅっと摘まれた。
「…来須…あっ……」
それだけで痛いほどに張り詰めたソレは、指の腹で転がされる感触だけでぞくぞくと震えた。タイルに顔を押し付けて、必死に熱から逃れようとしても…襲ってくる快楽の波に飲み込まれるのを止められなくて。
「…あぁ…ん…はぁっ……」
前には触れられずに、そのまま指が秘所に滑り込む。濡れた指はスムーズに中へと侵入した。くちゅりと音を立てながら掻き乱されて、がくがくと瀬戸口の膝が揺れた。
「…来須…今日は強引だ…な……」
施される愛撫は瀬戸口の弱い部分だけを的確に攻める。そこに何時ものゆっくりとした愛撫はなかった。瀬戸口の全てを包み込み、乱してゆく愛撫が。そして何よりも。何よりも感じる来須自身の熱と硬さに…彼が自分を性急に求めてくれているのが分かるから。
「―――イヤか?」
胸をきつく摘まれながら、耳元で囁かれる言葉に瀬戸口は首を左右に振って否定した。イヤなんて思うことは何一つない。こんな風に求められることは逆に、嬉しかったから。こんな風に自分を性急に欲しがってくれていることは。
「…イヤじゃない…嬉しい…お前がこんな風に俺…欲しがってくれるの……」
無理な態勢になるのは分かっていたけれど、瀬戸口は来須へと顔を向けるとそのまま貪るようにキスをした。その間も手は胸を弄り、最奥を指で攻めたてられる。立っているのも限界だったけれど、それでも唇を求めるのを瀬戸口は止めなかった。
そのまま唇を重ねたままで、来須が瀬戸口の中へと入ってくる。その熱を夢中になって瀬戸口は、求めた。自分の意識が真っ白になるまで。
身体を抱き上げられて、そのままベッドに降ろされる。身体を拭かれて、手元にあったトレーナーを着せられた所で瀬戸口は目を開いた。
「―――もしかして気絶してた?俺……」
その言葉に来須は瞳だけ微笑って答えた。その優しさが嬉しくて抱き付こうとして起き上がったら、腰に痛みが襲ってきた。
「大丈夫か?」
そのまま前に崩れる瀬戸口を来須は抱きとめて、そっと腰を撫でてやった。それだけで瀬戸口は痛みがどこかへ消えるような気がした。それだけ、で。
「…っやっぱ無茶な態勢だったかな?」
「すまん。俺が、抑えが効かなかった」
「謝るな、バーカ。俺がお前…欲しかったんだ……」
こつんと額を合わせて、そして見つめあって微笑った。滅多に来須は微笑う事はないけれど、それでも瀬戸口の前では微笑ってくれた。世界で一番自分が彼の笑顔を見ているんだと、そんな自信を持っているくらいに。そしてその笑顔が手に入るためなら、自分はどんな事でもするだろうと。
「それに…嬉しかったし…今日はいい事だらけだ」
「そうか?」
「うん。だってお前シャワーも浴びずに、帰って来てくれた」
「お前に、逢いたかったから」
「それがいい事の一番」
待つ事には慣れていた。むしろ諦めと言った方が近いのかもしれないけれども。それでも待つという行為は自分にとって、トラウマのようなものになっていた。それでもこうして。こうして来須を待つようになってから、そのトラウマは少しずつ消えていった。
それは。それはこうして必ず彼が、自分の元へと帰ってきてくれるから。
「…お前の顔が無償に見たくなった……」
必ず、帰ってくると。まださよならを言っていないから。
「逢いたくて、堪らなくなった」
まだ永遠のさよならを俺達は言っていないから。だから。
「―――来須……」
絶対にお前は俺の元へと、帰って来る。
その永遠のさよならが、ずっと来ないでいてくれれば…いいと…願いながら……。
「ってまだご飯、食べていない」
思い出したように言ってくる瀬戸口に来須は彼の顔が真っ赤になるような言葉を囁いた。その言葉に瀬戸口は来須の背中を、ぎゅっと抓った。
「…お前何言って……」
「本当のことだ」
真顔で言ってくる来須に瀬戸口は大きなため息を付いた。けれども内心心臓はまだどきどきと脈打っていた。例え冗談であろうともその唇から『お前を、食べた』と言われれば。
「…じゃなくてっお前さっきまで訓練していたんだから腹減ってるんだろう?」
「お前は減っているか?」
「俺は、別に」
来須は瀬戸口がそう言うのを分かっていて合えて聞いた。食に関しての欲がない彼がもっぱら食事を取るのは、ただ身体を維持する為と…自分が食べるのに付き合う為だけだった。自分自身から食物を摂取するという行為に、彼ほど無関心な人間を来須は知らない。
「ならしばらく、こうしていてもいか?」
来須の言葉に瀬戸口は無言で頷いた。そしてそのまま背中に手を廻すと、身体をもつれ合うようにベッドに転がる。もう一度身体を重ねたいと欲望が疼いたが、それでも今は。今はこうして肌が触れ合っているだけでもひどく満たされている自分がいる。
「本当に今日はいい事だらけだ…俺明日死ぬかも」
こつんと来須の胸に頭を乗っけて、瀬戸口は目を閉じる。背中に廻していた手を解いて、そのまま大きな手に指を絡めた。大きくて優しい、手。細かい傷がたくさんある、厚い肉に覆われた、触れているだけで安心出来る手。
「―――それは…困る…」
「冗談だよ、死なないよ。もっとお前、見ていたいから」
くすくすと腕の中で微笑う命が、何よりも来須にとって愛しいものだった。何よりも愛しく、そして。そしてどうしようもない程に…。
「ずっと、見ていろ。俺だけを」
その言葉に瀬戸口は紫色の瞳を開いて、そして。そして来須へと真っ直ぐに向けて。向けて、こくりと頷いた。
名前も知らない少女が、俺の前に立っていた。そして俯きながら小さな包みを、手渡す。
『一日フライングですけど…いっぱい貰うから、逆に憶えてもらえるかなって…』
その言葉に、胸が痛くなった。彼女の思いに答えられない自分と、そして。そして憶えていてと言う言葉が。それが何よりも自分に、痛かった。
「―――すまない、俺は……」
初めてじゃなかった。今まで何度もこうして場面は経験してきた。その全てに自分は断ってきた。何時しか『ここ』からいなくなるのが分かっていたから。けれども。けれども今は、それだけじゃない。
『…分かってます…来須くん…私のことなんて知らないし…』
胸に、痛かった。今までこうして何度も会ってきた場面。憶えていてと告げた彼女達。その顔すら自分は思い出せない。誰一人、思い出せない。今までその事実が自分の胸を痛める事などなかった。そんな事を気にする事などなかった。でも。でも、今は。
「…すまない……」
忘れて欲しくない相手がいる。忘れたくない相手がいる。今までずっと時間軸を潜り続け、ただひたすらに戦うだけだった自分。それなのに、今。今思うことは、ただひとつだけ。
―――どんなことになろうとも、忘れられない相手がいる……
胸が痛かった。憶えていてもらいたいと。その言葉の重みを、今初めて気が付いた。今初めて、その想いに気が付いた。
『…いいんです…こうして言えただけで…』
こんな風に懸命に告げてくれる少女達の想いに…今まで自分は気付かないでいた。
「…本当に…すまん……」
でもやっぱり自分に言えるのはこの言葉だけだった。伝えられるのはこの言葉だけだった。それ以上の想いを与えたいと思う相手は…ただ独りしかいなかったから。
…涙を堪えて自分を見つめる少女を見ていたら…無償に、お前に逢いたくなった……
過ぎ去ってゆく時、二度と戻れない時。
それでもこうして、こころに。こころにそっと。
そっと残るものがあれば。消えないものがあれば。
―――ただひとつ、手のひらに大切なものが残されれば。
「…それに明日は…」
答えられない想いは、全て。全てお前のためだけに。
「来須?」
ただ独りお前のためだけに。俺のただひとつの想いは。
「お前にチョコを買ってやらないといけないからな」
お前だけに、向けられているから。
「…ってちょっと待てっ!そ、それって…」
「明日はそう言う日だろう?」
「そう言う日だけど…だけど何か、違う…」
「何が違うんだ?」
「えっとー、どちらかと言えば俺がお前に…」
「俺は甘いものは苦手だ」
「………」
来須の言葉に瀬戸口は何も言い返せなかった。確かに来須にチョコは似合わない気がしたし、自分が食べるほうが合っている気がする。が、しかし。しかし『買ってやる』は微妙にニュアンスが違うんじゃないだろうか…。
「いらないのか?」
でも、それが来須の気持ちだったら。それが普段想いを形や言葉にしない、彼からだったら。
「…ううん…そんな事ない……」
こんなささやかな出来事も。こうした想いも、手のひらにそっと残る大切なものならば。
「――――お前からなら…チョコでも何でも…欲しいよ……」
小さな事でも。ささやかな事でも。
ふたりでならば。ふたり、だったなら。
どんな事でも大切だから。どんな事でも。
――――かけがえのないもの、だから……
END