――――出口のない迷路に、たださ迷い続ける。
何処へ行きたくて、何処へ辿り着くのか。
何処へ逃れたくて、何処まで逃げるのか。
もう何も。何も分からなくなって、いた。
欲しいものはただひとつ。ただひとつだけ、だった。それだけが手に入れば他に何も望みはしなかった。
「――――」
何時ものように瀬戸口は教室の窓からそれを見つめていた。一番窓際の席に座り、何をする訳ではなくグランドをただひたすらに見つめ続ける。ただ独りを、見つめ続ける。
綺麗な金色の髪は帽子に隠されて、そして蒼い瞳も隠されてここからは見ることは叶わない。本当はもっと。もっと近くで見たいけれど。もっとそばに行きたいのだけれども。
「…来…須……」
名前を呼ぶ声の思いがけない切なさを、瀬戸口はそれを隠そうともしなかった。誰もいない教室で、唯一自分が本当の顔をする相手。彼が関わる時だけ、自分は本来の顔に戻る。
自分の弱さも本当の顔も、その瞬間だけが剥き出しになる。
この時間だけは、誰にも邪魔をさせない。
この時間だけは、誰にも。誰にも邪魔をさせない。
もう少しだけ近くで見たくて、瀬戸口は椅子から立ち上がるとそのまま窓の前に立つ。二階から見下ろす風景は、彼を小さく見せて切なかった。まるで今の自分と彼の距離のように。
――――どうしたら…近付ける?……
どうしたらあの風の中に入ってゆけるのだろう。どうしたらその蒼い瞳に自分が映るんだろう。何時も何処か人の輪とは違う場所にいるその人に。
今ここから飛び降りたら…その瞳は俺を、映してくれる?
そう思ったら自分はその身体を、窓から突き出していた。
何時も何処かでその存在を視界にいれていた。意識する前に気付くと、自分の視界にその姿が入っていた。
―――笑わない、瞳。口許だけで微笑う、その笑顔。本当は微笑っていないその表情。
人の輪にいる時何時もお前はそうだった。人の輪の中にいる時、何時も。何時もお前は口許だけで笑っている。けれども。けれども、気付いたことがある。
お前は決してその輪の中に溶け込んではいないという事を。
笑わない瞳。紫色のその瞳は。自分にはひどく泣いているように見えた。何故だか、そう見えたから。だから目が…離せなかったのかもしれない。
グランドを走り続ける自分に、強い視線を感じた。それを振り切るように走り続けたが、どうしても。どうしても絡み付く視線は消えなかった。耐え切れずに一端来須は脚を止めると、そのまま視線のする方へと目線を反らした。プレハブ校舎の二階の窓へと。
目が、合った。視線が、絡み合った。
その瞬間、俺は迷わず。迷わずこの窓から。
――――窓から…飛び降りた……
「―――瀬戸口っ?!」
声が、聴こえた。俺の名前を呼ぶ声。
耳に残るその声。ずっと焦がれていた声。
お前が俺の名を呼んでくれる。
他の誰でもないお前の名を呼んでくれる。
それだけで。それだけで、俺は…。
…俺は…しあわせ……
身体を打つ衝撃はこなかった。ただその代わりに与えられたのはその大きな腕。広くて優しい、その腕だった。
「瀬戸口…お前何して……」
その腕に抱かれているんだと思ったら、ふと。ふと本当に今この瞬間に死んでしまいたいと思った。他の誰でもなくお前が。お前がこうして俺に手を差し出してくれている瞬間に。
「―――来須……」
瞼を開いて、その顔を見つめて。見つめて、俺は微笑った。
「…何故…笑う?…」
「…来須?…」
「…お前の…本当の笑顔を…どうして俺に…」
「…どうして俺に、見せる?……」
蒼い瞳。綺麗な瞳。その瞳に俺が映ったら。
映ったら少しでも、穢れた俺が。穢れている俺が。
―――綺麗になれる気が、した。
「お前の瞳に俺が映っているから。お前が俺を抱いているから。お前が今…今俺だけを見ているから」
他に望む事なんてない。何も望む事なんてない。欲しいものはただひとつで。ただひとつだけが、欲しかった。それが手に入るなら俺は。俺はどんな事だって出来るから。
「…飛び降りたのは…どうしてだ?…」
何時も視界に何故かいた。意識せずともお前の姿を瞳が捉えていた。決して本気で微笑わないお前の姿を。俺の瞳は、ずっと無意識のうちに。
「お前がいたから…飛び降りたら、俺の事見てくれるかなって」
「その為だけに、こんな無茶をしたのか?」
「どうして?無茶なんかじゃないよ」
「無茶だろうっ?!もしも俺が受けとめなかったらお前は…」
「…お前が見てくれるなら、脚の一本なくなっても、腕が動かなくなっても…構わないよ」
紫色の瞳が、真っ直ぐに見上げる。何処までも真っ直ぐに、そして揺るぎ無い瞳。そこに見え隠れするのは狂気でも何でもなく、ただ純粋な。純粋な剥き出しの想い。それを。それをお前は俺に…向けていたのか?…ずっと、この俺に……
「死んでも、よかった。最後に映るのがお前なら」
伸びてくる白い手。陶器のような白い、手。その手が俺に触れる。触れて、そっと。そっとぬくもりを伝えて。
「…お前は…ずっと…俺を…見ていたのか?」
「見ていたよ、ずっと。ずっと、見ていた。お前が俺に手を差し出したあの時から、ずっと。ずっとお前だけを」
差し出した手。偶然に見かけたお前を、放って置けなくて差し出した手。何時も何処か冷めた瞳で全てを見ていたお前が初めて見せた、剥き出しの瞳。
…今にも泣きそうで、そして何処か怯えていた…瞳……
「…でも…まだ…近付けなかったから…全てが終わるまではお前には…けれどももう俺は…」
手が、震えている。俺の頬に触れる手が。あれだけ他人を見下したように見ていたお前が、こんなにも怯えてそして。そして剥き出しになっている姿を。その姿を誰が、知っている?
「―――瀬戸口?」
「…お前への気持ちを…抑えきれない……」
紫色の瞳から、そっと。そっと涙が零れ落ちる。それは。それは哀しいほどに、綺麗で。綺麗だから、哀しくて。
「…どうしたら…手に入る?どうしたらお前を…俺のものに出来る?…どうしたら…お前は…俺のものになってくれる?」
「―――」
「…何でもする…何だってする…お前が俺を好きになってくれるならどんな事でもする…だから…だから…俺を……」
「…俺を…拒まないで…くれ……」
何もいらない。何も欲しくない。
しあわせもいらない。夢もいらない。
未来なんていらない。だから。
だから俺にこのひとをください。
何もいらないから、どうなってもいいから。
「…瀬戸口…俺は……」
後から、後から零れ落ちる涙が。震える細い肩が。見上げてくるその紫色の瞳が。
「…お前のためなら…俺は何だってする…どんな事も出来る…だから…俺を……」
その瞳を受け入れたら。俺がお前を…受け入れた、なら……。
「…俺を…嫌いにならないで……」
受け入れることがどれだけ残酷なことか、分かっている。今のお前を受け入れても、決して。決してお前のためにはならない事も。けれども、俺は。
「―――俺はお前が執着するほどの男じゃない」
けれども俺は。この腕の中で震える小さな命を。零れ落ちる涙を。その濡れた紫色の瞳を。
「俺はお前をしあわせには出来ない」
―――その瞳を、拒むことが、出来ない。
「…しあわせなんて…いらない…そんなものお前と引き換えなら…いらない……」
「…いらない…何も…だからお前を俺に…ください…」
手が、伸びてくる。もう一度俺の頬に。
「―――瀬戸口……」
そのまま俺の髪に絡まり、そして。そして引き寄せて。
「俺を好きでなくていいから…俺を否定しないで……」
引き寄せて俺の、唇を塞ぐ。
「…好き…お前が好き…お前が欲しい…全部…欲しいよ……」
泣き崩れるお前の身体を、そっと抱き寄せてそのまま髪を撫でた。そっと、撫でた。指先から伝わるぬくもりと、微かに薫る髪の匂いが。
「…そんなにも俺が…好きか?…こんなになるほどに……」
いとしい、と想った。ただそれだけを、想った。
「…懸命に覆っていた自分をの殻を…壊すほどに……」
どうしようもない程に、いとしさが込み上げて来るのを、感じた。
――――このまま何処にも戻れなくてもいいと…想った……。
END