――――君を愛することが許される手と、身体と、そしてこころが欲しかった。
殺戮と血の匂いだけが、俺の全て。ただ目の前に現れる敵を倒し続けるだけ。
それだけが、何時しか俺にとって生きている『意味』となった。
殺して、殺し続けて、血を浴びて。かつて仲間だったモノの血を浴びて。
そうしたら俺は人間になれるのかと…思っていた。君と同じ人間に、なれるのだと。
『―――お前は…本当は、誰よりも優しい』
初めて瞳を真っ直ぐに向けて。そして見つめあった先に、与えられた笑顔に。優しく微笑ったその顔に。
ただ泣きたくなった事だけを、憶えている。全てを忘れても、それだけは。それだけは、憶えている。
ただひとり愛した人は、俺に言った。『貴方は誰よりも優しい人』だと。
けれども俺の手は何時しか血塗られ、そして。そしてそれが当たり前になって。血を浴びることが、幻獣を倒し続けることが、当たり前になっていた。
それが何時しか俺の日常になって、そして。そして君がいなくなった今でもこうして俺は、手を血で濡らし続けている。
誰か俺に、教えてくれ。誰か俺に、教えてください。
何の為にこうして生きているのか?
何の為にこうして生かされているのか?
――――誰か俺に、答えをください。
君のいない世界で、俺だけが生き続け。俺だけがこうして生きて。
聖にもなれず、魔にも戻れず、ただ。ただこうして生かされ。
何の為に、俺はここにいる?何の為に俺はここに在る?
―――誰か答えを、俺にください。
「―――俺は…オペレーターになるよ……」
上層部からの通達に、俺はそう答えた。俺をよく知っているそいつは、ため息をついて『そうか』と、それだけを告げた。
「君には絢爛舞踏章も、意味のないものなんだね」
眼鏡の奥の瞳がどんな色彩をしていたのか、ふと気になったけれども…俺はその表情を見ずにそのまま目線を逸らした。
―――多分俺は、そこに『哀れみ』を見るのが、怖かったんだろう。
誰もが羨むそれを手に入れた俺。ただひとつの欲しかったモノの代償に、与えられた名誉。そんなモノは欲しくなかった。俺が欲しかったのはただひとつ。ただひとつのものが、欲しかった。
「まあ、いい。本当は君には戦って欲しかったんだけどね…無理強いは出来ない」
「…悪りーな…善行……」
そう言って、初めて俺は目を合わせた。そこには同情も哀れみも、なかった。ただ静かに。静かに俺を見ているだけだった。
―――5121部隊。学生の寄せ集めで出来た部隊。戦うことを止め、身を隠していた俺に召還命令を出したのは善行だった。数少ない俺の正体を知っている人間。そして。そして俺の心の傷も少なからず分かっている人間。だから俺はその命令に従った。
―――君ならば俺が戦わなくても、許してくれると思ったから。
俺はもう、戦えない。戦うことが出来ない。そこに何も見出せず、ただ。ただ虚しさだけが募る自分は、このまま。このまま内側から壊されてゆくだけだった。
…何で、俺生きてんだろう……
もう彼女はこの世の何処にもいない。何処にもいない。俺は結局人間にはなれなかった。君と同じにはなれなかった。ただの『生き物』としてこの世に存在しているだけ。君の為に人間になろうとしたのに、君はもう何処にもいない。何処にも、存在していない。
―――じゃあ俺は、何の為に、生きている?
風が、吹いた。ふわりと、吹いた。そっと俺の髪を揺らして通り抜ける風。
それがひどく優しくて。優しかった、から。
だからなのかな?一瞬だけ、忘れていた何かを思い出したのは。
ふわりとすり抜けた風が、哀しいくらい優しかったから。
生きる事に意味を見出せないまま、俺は深い闇の中にいた。ずっと深い闇の中に。そこに膝を抱えて丸まって、全ての事から目を閉じ耳を塞いでいた。何も感じなければ、傷つくこともないと。何も思わなければ、苦しい事もないと。
そう思ったから、俺は。俺は自らの『心』を閉じ込めて、ただ流されてゆくだけだった。
―――戦う為だけに、与えられた命。
名前すらも、ただの記号でしかなかった。名義上他者と区別するためだけに存在するもの。だから次の名前がどうであろうとも、俺には興味すらも湧かなかった。
何時ものように適当な名前と身分が与えられ、そして。そして戦うだけ。それだけが俺の存在意義。
そしてその意義が達せられたら、俺は消えるだけ。適当に消費されて、そして。そして消え去るだけ。
それを淋しいと思う事はなかった。それがどうかとかも、考えたこともなかった。ただ戦うために与えられた命なら、それを全うするだけで。
遠い昔、もう忘れるほどに遠い昔一度だけ。一度だけ、考えたことがあった。俺は何の為に、生きているのだろうかと。
――――どうして、生きているのか、と。
何時ものように、この時代でも俺は戦うために生きていた。それだけの為に、生かされていた。
「来須銀河君だね。私は善行忠孝、この部隊の指令だ」
そう言った眼鏡の男に俺は頭だけを下げた。必要以上の言葉をしゃべるのは苦手だった。いや正確には、会話を交わすことで生まれる連帯感を、交友を避けていたのかもしれない。
―――必要以上に関わると、辛い想いをする事は分かっていたから。
「よろしく」
そう言って差し出された手を握り返し、俺はその場を立ち去った。必要以上に探られるのも、言葉を積み重ねるのも、俺は。俺には必要のない事だから。
誰かに必要以上に関わることは、俺にとってはただの自殺行為でしかないのだから。
でも、と。でもと、時々思うことがある。
もしも、想いが。想いが心の戒律を越えたならばと。
どんなに堪えても、堪えきれないほどの想いがもしも。
もしも俺の中に芽生えたらと。
そうしたら俺は、どう言う選択肢を、選ぶのだろうか?
運命と宿命と、そして生きている理由と。
その全てすら届かない場所で。それすらも意味をなさない所で。
見つめあった瞳が導き出した答えが、きっと。
きっとふたりを絡め取り、そして傷つけるのだろう。
それでも、出逢い。それでも、言葉を交わし。
それでも戻ることが出来ないのならば。
―――結ばれた糸が、血で紅く染まるのを止める事が出来ないのならば……
風が、ひとつ、吹いた。
ふわりと風が吹いて、来須の帽子を飛ばす。それを手で押さえる前に、風がそれを。それをそっと運んで行ってしまった。
――――何かを捜していた。足りない何かを、ずっと捜していた。
その帽子を追い掛け来須は歩き出す。急ぐわけでもなく、普段通りに。そして落ちた帽子を発見すると拾おうと屈んだ瞬間に、帽子はふわりと宙に浮いた。
――――胸に宿る空洞は、それは本当は心の痛みだった。
顔を、上げた。白い手が、その帽子を掴んでいたから。だから拾われた帽子の行方を追って、顔を上げた。
こころの、痛み。そしてこころの、悲鳴。
何時も気付かない振りをして、閉じ込めていたもの。
胸の奥深くに、閉じ込めていたもの。
ふわりと優しい風が、ふたりを包み込んだ。
「…あ……」
屈んでいた身体を起き上がらせた男は、ひどく背の高い男だった。身長の高さなど余り興味がなかったが、それでも自分は標準よりは遥かに上だったので少しだけ驚いた。けど、それ以上に。それ、以上に。
「―――――」
男の唇が開きかけて、そして止まった。それと同時に自分の唇も。何かを言おうとしたはずなのに、何故か言葉が出なかった。そして。そして次の瞬間に零れた言葉は、自分ですらも予期せぬものだった。
「…風…みたいだ……」
その瞬間、一瞬だけ。本当に一瞬だけその瞳が見開かれた。蒼い瞳が。空よりも、海よりも蒼い瞳が。
「…って俺…何言って……」
はっと我に返って、自分の言葉に呆然とする。本当に何を俺は言っているのか。一体何を俺は、言いたかったのか。―――言い、たかったのか?
「――――お前は……」
見下ろす瞳が、全てを見透かすような瞳が。真っ直ぐに自分を捕らえて。真っ直ぐに自分を見下ろして。その、蒼い瞳が。
「あ、わりーこれ…これ君のだよな、ほら」
その瞳に耐えきれず、俺は手元に握っていた帽子を渡した。耐えられなかった、全てを見透かされているようで。全てを見抜かれているようで。心の閉じ込めている傷すら、見抜かれているようで。
「―――ああ、ありがとう」
俺の差し出した帽子をその手が受け取る。ただ一言だけを、言って。大きな手がそれを、受け取る。そうしてそのまま深く帽子を被った。そのせいで瞳が…蒼い瞳が見えなくなって。
「…あ……」
それをほっとしている自分と、そして残念がっている自分がいる。どちらも本当の気持ち、だった。見透かされなくて安心という想いと、もっと見ていたかったと言う想いと。
―――どちらも正直な、気持ちだった……
俺を見上げてくる瞳の色が、ひどく不思議な色をしていたからだろうか?それとももっと別の理由があったのだろうか?
でもその理由を考える前に俺は思考を閉じ込めた。それを辿る事は何故か、何故か防御本能が働いて。その先を考えるのを俺は無理やり止めた。
それでも、消えない。瞼の裏に残る紫色の残像が、消えなくて。俺はもう一度、その顔を見つめた。
「…あの…さ……」
柔らかい癖の在る、茶色の髪と。そして不思議な色をした紫色の瞳。それは何処にでもあるようで、けれども何処ないものだった。巡りゆく記憶の糸からも探り当てようとしても、同じものは何処にもなくて。
「…名前……」
当たり前だ、同じ人間なんとこの世に何処にもいない。例えクローンであろうとも、本当は絶対に同じものにはなれはしないのだから。意思が、心が、在る限り。
「―――聴いても、いいか?」
でもそれならば何故。何故こんなにも、ひどく懐かしい気持ちになるのだろうか?
「…俺は…瀬戸口…隆之……」
名前に、意味などない。ただ他者との区別を付ける為だけの記号だ。
「―――瀬戸口…そうか…俺は…」
でもそれならば何故、その唇から俺は。
「来須銀河」
例え誰かが適当に付けた言葉であっても、聴いてみたいと思ったのは。
――――何故俺は…名前を、聴いたのだろうか?……
「…来須、銀河…いい名前だな……」
どうして聴いてしまったのか?どうして聴こうと思ったのか?
「いい名前だな」
通りすがりの人間。もう二度と逢う事がないかもしれない人間。それでも。
「―――そうか…お前はそう、思うのか」
それでも呼んで、みたかった。この口から呼んで、みたかった。
ふわりと、ひとつ。
ひとつ、君が微笑んで。
そして、何かが。
何かが俺を、そっと。
そっと、包み込んだ。
―――暖かい何かが、苦しいくらいの何かが、俺を。
零れ落ちる砂の中に、それは確かに存在した。
手のひらから零れてゆくその砂の中に、確かにそれは。
…それは、あった筈なのに……
人の輪の中にいるのが、本当は一番嫌いだった。自分が『異質』なモノだと、イヤと言うほどに思い知らされるから。
「ねー君可愛いね。俺と遊ばない」
道化の振りをする。わざとバカになる。そうやって紛れていれば、誰も気付かないだろうから。
「えーどうしようかなぁ?」
血の匂いも、人ならぬ気配も全部。全部こうして紛れてくれれば。紛れてさえ、くれれば。
「イイじゃん。俺君みたいな可愛い娘、初めて見た」
バカみたいに愛を語って。空っぽの愛を語って。そうすれば、何時かは。
「もう、なに言ってんのよ」
何時かは空虚で満たされるかもしれない。嘘でも摩り替えられて満たされるかもしれない。異質である自分も、忘れられるかもしれない。
「でもいいかなぁ?貴方カッコイイし」
「そう、なら決まりだな」
こうしてくだらない事に毎日追われていれば、何も考えなくてすむから。
それでもふとした瞬間に。
一瞬の空白に。一瞬の隙間に。
突然俺の心に現れるもの。
―――それはあの時の、君の笑顔。
5121部隊にやって来て、三日が過ぎていた。俺は少しでも『人間らしく』振舞おうと、そしてバカだと思われようと、必死だった。女の子を手当たり次第口説いて、そして授業もロクサマ出ずに。そうする事で自分を、作っていた。そうする事で、忙しさに気を紛らわせていた。ただ何かをしていたかった。何かをしている間は、気付かずにいられるから。
―――どうして俺は、生きているのかと。考えずにいられる、から。
今は君を愛していた記憶のほうが、夢で幻で。そしてここにいる俺こそが、現実なんだと思えるから。いやそう、思いたかった。傷を広げられるくらいなら、嘘で固めたモノが真実に摩り替わるほうが、よかったから。
その方が楽になれるからと…余りにも長い時間繰り返される絶望の日々に、何時しか俺は疲れていた。
キスを、する。胸に、触れる。そしてそのまま服を脱がして、柔らかい身体を抱く。それの繰り返し。身体を重ねている時だけは、ふと全てを忘れられる。忘れて一瞬夢中になって、欲望を吐き出したら。そしたら全てが前よりも虚しくなると分かっていても、それでもこの行為を止められずにいた。
「――貴方って本当は超、女嫌いでしょう?」
欲望を吐き出してしまえば、後に残るのは気だるさと虚しさだけだった。もう何もしたくない。ただこのまま目を閉じて眠ってしまいたいと。
「どうして?俺、下手だった?」
「違うわよ、だって貴方セックスの間中全然目が合わないんだもの」
名前すら知らない女の声が頭上から降ってくる。顔すらも目を開けなければ分からない。さっきまで聴いていた甘い吐息は、今はただの雑音にしか聴こえない。
「多分、貴方は全部好きじゃないんでしょう?」
その言葉は半分当たってて、半分外れている。嫌いだ、全部嫌いだ。自分自身が一番嫌いだ。でも記憶の一番綺麗な部分にいる君だけは…君、だけは……。
――――何故か、その瞬間…あの時の彼の笑顔をふと思い出した……
「そんな事ないよ、君みたいな子は大好きだよ」
「…あんっ…またするのぉ?」
「イイじゃん、させて、ね」
「…もぉ、バカ……」
その残像を何故か消したくて。君の顔よりも先に浮かんだ顔を消したくて、もう一度目の前にあった身体を、抱いた。
何度こうして夜の海を泳いだのだろうか?
女を抱いて、男に抱かれて。どっちも俺には一緒だった。
誰でもよかった。どうでもよかった。
ただ一瞬でもセックスしている間は。その間は。
―――全ての事を、忘れられるから。
ぽつりと、頬に雫が当たった。見上げれば空から無数の細かい雨が降っている。それを見つめながら、瀬戸口は歩き始めた。傘なんて持っていなかったし、差そうとも思わなかった。
その後名前すら忘れた女の子を二回抱いた。そこで全てがどうしようもなく虚しくなって、そのまま何時ものように適当な言葉で別れを告げた。何時もの事、何時もの通り。嫌になるくらい口から言葉はすらすらと出てくる。
「…って俺…サイテイ男だよな、マジで……」
自分がどう言う男になっているのか嫌と言うほど、分かっている。そう言う風に見せたいと言う思いは、何時しか本当にそうなっている事に。でも分かっていても、もうどうにも出来ない自分がここにはいた。
「…でももう俺は……」
自らの傷を庇う為に、もっと自分が傷ついているのに、まだ瀬戸口は気付いていなかった。
生きて、いる。それでも俺は生きている。
君のいない世界で、こうして生きている
―――どうして『死』と言う選択肢を選ばなかったのだろうか?
細かい雨はひんやりと身体を濡らしてゆく。身体の芯から、そっと。そっと冷たく凍えさせてゆく。それが今の自分にはひどく相応しい気がした。
血で汚れた身体。セックスで汚れた身体。何もかもが汚くて、何もかもが穢れていって。そして一番綺麗な唯一の場所ですら、ゆっくりと闇が染み込んでくる。
…光はもう、きっと。きっと自分の前に降り注ぐことは二度と…ないのだろう……。
「…なーんで俺…生きてんだろうな……」
呟いた言葉が、不意に途切れた。耳に微かに聴こえる鳴き声が、瀬戸口の脚の動きを止めた。そして。そして……。
生きたかった。生きていたかった。
生まれたからには意味があって、そして。
そして与えられた命には理由があるのだと。
きっとそれを確かめたかった。
いらない命なんて何処にもないと言う事を。
―――きっと俺は…確かめたかったんだ……
優しい言葉も、労りの言葉も。
甘い囁きも、癒しの言葉も。
何も何もいらないから。だから。
だからどうか、微笑っていてください。
降りつづける細かい雨と、小さな生き物の声と。そして。そして、その生き物をそっと抱きかかえる腕が。その腕、が。
「―――傘も差さずに…濡れるぞ」
見つめてくる蒼い瞳。無表情な顔。でも俺はその顔がどんなにやさしく微笑うかを…知っている。知っている、から。
「君だって、濡れている」
真っ白な猫をその腕に抱き。濡れないようにと抱きながら、自分は傘も差さずに雨に打たれていて。猫を庇う為に、濡れていて。
「傘を持っていなかった」
帽子の下から見える金色の髪が、ひどく綺麗だと思った。何故だろう、今ふとそんな事を思った。まるで光のように、綺麗だと。だから。
「こんなに、濡れている」
だから俺はそれに。それに触れたくて。触れたくて…一生懸命に手を伸ばした。
「お前は、こいつと同じ目をするんだな」
触れた瞬間に感じたのは、ひどく暖かくて切ないもの。これは、何?これは、なんだ?
「…来須?……」
「お前も同じ目をしている…『生きたい』という目を……」
それ以上俺は言葉が、出なかった。ただ。ただその瞳を見つめ返すだけで。髪に触れた指先すら、動かすことが出来なかった。
ひかりが、そっと。そっとこころのなかへと。
こころのなかへと、とけてゆく。
とけて、そして。そしてすこしだけ。
―――すこしだけおれが、きれいになれるきがした。けがれがきえるきがした。
窓の外ではまだ細かい雨の音が聴こえていた。それを確認しながら、俺はタオルを玄関前に立ち尽くしているお前に投げた。
「そんな所でぼーっとしてないで、入れ」
その言葉にはっとしたように紫色の瞳が俺を見る。また、だ。まただと、思った。その瞳が俺を引き止める。普段ならどんな理由であろうとも、自分の空間に人を踏み入れさせようとはしないのに。こんな風に視線を止めて、見つめようとはしないのに。
「…あ、ああ……」
受け取ったタオルを無造作に髪を拭いて、お前は俺の部屋へと入って来た。俺の『空間』へと。
何もない、部屋だ。俺に『物』はいらない。何かを持つことは、それに執着する事だ。何時消えるか分からない俺に、何かを持つと言う事は必要のないものだったから。
フローリングの床と、最低限の家具とベッドだけの部屋。ここに生活の匂いは一切ない。ただ眠れればよい場所だったから。
「何もないね、部屋」
「必要ないから」
「そうか、俺とは正反対だ」
「お前は必要なものがたくさんあるのか?」
「ううん、違う」
ぽたりと髪から雫が落ちた。お前の、髪から。雫が形を作って、床に零れてゆく。それが何故か俺にはひどく。
「モノに埋もれていれば…少しは――――かなって……」
ひどく、切なく、見えた。
『…淋しくないかなって……』
聴こえないように、言った。聴こえるように、言った。
聴いて欲しいのか、聴いて欲しくないのか、自分でも分からない。
でも。でももしも、もしも君が。
君が俺の声を、こころの声を、聴いたならば。
―――聴いた、ならば?
「やっぱさ、モノはないと不便だろ?それに俺洋服とかいっぱいあるから、それだけで凄い量だし。雑誌やら、CDやら色々ね。やっぱ女の子にモテる為には努力も必要だしね」
何時もの軽口。何時もの調子で、何時ものお決まりの言葉。これが俺。何時もの、俺だから。
「って君ももう少しモノを増やしたほうがいいよ。女の子部屋に呼ぶ時、退屈しちゃうだろ?」
これが、俺。そうこれが俺なんだ。今まで変だった。君に逢った時から、君に初めて逢った時から俺はおかしかった。何時もの『俺』じゃなくて。違う俺を、本当の俺を、見せていた。
…見せて…違う…仮面を被ることが、出来なかったんだ……
「―――淋しいからか?」
「…え?……」
「淋しさ紛らわすために、モノに埋もれるのか?」
「…どうして……」
「お前が、そう言った」
「―――俺には、聴こえた」
声にならない言葉と、声にしたい言葉と。
何時も何処かで告げたかった言葉と。
それでも告げずにいた言葉。
自分を護る為に、必死になって。必死になって。
―――閉じ込め続ける、こころの空洞。
狼狽したように俺を見上げる紫色の瞳。まただ。またこの瞳が、俺を。俺に余計な言葉を言わせようとする。告げる必要のない言葉を。自分の心に閉じ込めておけばいい言葉を。俺は。俺だけが心にとどめておくべき言葉を。
「お前は、嘘をつくのが下手だな」
初めからこの瞳を俺に向けていた。少しだけ視線を逸らして、けれども。けれども俺を見上げる瞳。そこから零れるものが何処か淋しげで、何処か足りなくて。そして。そして何よりも告げている。
――――自分に気が付いて、と…告げている。この子猫のように。
「…何言って…俺は別に……あっ」
ぱさりと落ちたタオルを拾い上げ、その髪を拭いた。他人の髪を拭いたのは、初めてだった。こんな風に人と、触れ合うのは。こんな風に、ごく自然に手が伸びたのは。
「濡れ鼠だ。もっと上手く拭け」
近づくな。近づけば、きっと。きっと俺自身が辛くなる。俺自身が辛くなる、から。でも。でも手の動きを止められない。お前の身体を拭ってやりたいと、冷たさから開放してやりたいと。そう思ったら俺の手は。俺の手は。
「君こそ、濡れている――ほら……」
触れた、指先。俺の髪に、触れる指先。それがひどく、暖かくて。指は冷たいのに、髪に感覚はないのに、何故か暖かくて。
「君の方が、風邪を引くよ」
端から見たら、変な光景かもしれない。男同士向き合って互いの髪をタオルで拭う様子など。でもそれがひどく。ひどく、心地よくて。
――――そしてひどく俺を、苦しくさせた……
「また、逢えたね。俺二度と逢えないと思っていた」
もしもまた逢えたならばと、心の何処かで思っていた自分がいた。
「何故?お前にはまた逢えると分かっていたのに」
もう二度と逢いたくないと、心の何処かで思っていた自分がいた。
「どうして?」
どちらも本当のことだった。俺にとっては本当の事だった、から。
「転入してすぐに、お前の名前を聴いた」
もう一度その笑顔を見たいと思った。そうしたら心が暖かくなれる気がしたから。
「―――って君は……」
もう二度とその笑顔を見たくないと思った。そうしなければ俺は自分を護れない気がしたから。
「5121部隊のスカウトをやっている。お前は一度も学校に来てないからな」
でも、また出逢ってしまった。また出逢ってしまったら、もう。
「…君が…スカウト……」
―――もう戻ることが、出来ないから……
言葉では説明できないもの。
理由も意味もそこには通じない。
言葉ですら無意味なもの。
俺がずっと怖くて、避けていた想い。
もう二度と感じたくない想い。
それを。それを君が。
―――君が俺のこころへと……
雨は、降り続ける。さあさあと、さあさあと。
手を、血で汚す。傷だらけの手になって。
それでも君は戦い続ける。何の為に?何の為に戦うの?
君を戦わせる想いは、一体何なのだろうか?
――――それを俺は、知りたいと想った……
「おはよう、瀬戸口君。やっと逢えたね」
転入四日目にして初めてまともな時間に学校へと来た。最初に適当に挨拶したけれど、誰がどんな名前とか言うのすら憶えていなかった。
「俺に逢えて嬉しい?可愛いバンビちゃん」
「何だよ、それ。バンビってさー、僕は速水。速水厚志」
男にしては大きな目が、真っ直ぐに俺を見つめてくる。その目は俺が一番苦手な目だった。疑うことなく真っ直ぐに向けられる目。そんな風に見透かされるのがイヤだった。
「はいはい、バンビちゃん。俺何の用かな?デートの誘いは女の子しか受け付けてないんだ」
「速水だって言ってるのにーっ!」
素直だな、と想った。その素直さが羨ましかった。きっとこいつは今まで綺麗な道だけを歩んで生きてきたのだろう。血に手を汚すことも、絶望に捕らわれる事もなく。そんな奴が戦場へ赴くような世界が今目の前にあるのが不思議だった。
―――俺が戦い続けていた時は、『人間』は高みの見物をしていたのに。
「はいはい、バンビちゃん。俺の愛が欲しいの?」
「―――わっ!!」
冗談で抱き付いてやった。これで俺の印象が『バカな奴』だと廻りに浸透しただろう。これで、いいんだ。これで。その時、だった。
「不潔ですっ!!」
背後から聴こえてくるその声。凛としたその声。―――その、声……
『私は、知っているから』
何時も優しく微笑み、そして真っ直ぐ俺を見る瞳。
『貴方が優しい人だって、私は知っているから』
蒼い瞳。世界の正しい事だけを映すその蒼い瞳が。
『…私は…知っているから……』
それだけが、俺のただひとつの綺麗な場所。
――――たったひとつの、綺麗な、場所……
漆黒の長い髪と、蒼い瞳。よき夢の一族である証の蒼いその瞳。同じ色をした、瞳。
「男同士で、そんな…」
強い意思と、凛とした声と。そして決して視線を逸らすことのない瞳。全てを見透かすような真っ直ぐな瞳。
「わー壬生屋さん。誤解ですっ!誤解ですよーっ!!」
「…壬生…屋……」
間違えようがない、その瞳は。その髪は、その唇は。その声は、その…魂は……
「そんな…気軽に呼ばないでください…不潔ですっ!!」
―――間違えなく、君、だった。
「――って君も俺に抱きしめて欲しいの?」
変わっていない、全然変わっていない。あの時のままの君がここにいる。あの時の、まま?
「近寄らないで、ケダモノっ!」
違う、君は。君はあの時のままじゃない。あの時の、ままじゃない。だって俺が。俺が分からないだろう?君には俺が、分からない。
「随分だな、イヤな女だぜ」
俺にはすぐに分かったのに。こんなにもすぐに分かったのに。それなのに君は。君は俺を。
「お互い様ですね、私もいやですわ」
―――君は全然、俺が分からない。分から、ない。
「ち、気に入らねーな。こんな奴と一緒に授業受ける気しねーな。帰る」
「帰るって瀬戸口っ?!」
――――君が、俺を、わからない。
白い手が何時も、俺を導いた。俺の生きるべき道しるべは君の手、だった。鬼である俺を受け入れたのは君。人として生きるようにと、言ったのは君。
だから俺は君を護る為に、君だけを護る為に、人になった。人になってそして。そしてかつて仲間だったモノを殺し始めた。
――――君と同じ人間に、なりたかったから……
そうしたら君を愛せると想った。そうしたら君とともに生きられると想った。君のそばにいらけると想った。綺麗な君の、そばに。
けれども殺せば殺し続ける程に俺の手は血に塗れ、そして綺麗な君から遠くなってゆく。どんどん俺は血に穢されていって、そして。そして君が遠くなってゆく。
君が俺からどんどん、遠ざかってゆく。そして。そして―――
―――君を護れなかった、俺は。
殺し続けたのは、殺人兵器になったのは、君を護る為。君のそばに行くため。
それなのに殺せば殺すほどに君から遠ざかり、そして。そして君をこの手で護れなかった。
君の命が消えるのを、ただ。ただ見つめることしか出来なかった。
何も出来ない、自分。
名誉も勲章もいらない。何も欲しくはない。
ただ君が生きて、君が微笑ってくれれば。
俺はそれだけで、よかった。それだけが望みだった。
それなのに俺は何も出来ずに、ただ。
ただこうして、生きている。そして生かされている。
『お前も同じ目をしている…『生きたい』という目を……』
こんな時に、どうして。
どうして、君の言葉が浮かぶのか。
どうして、君の声が聴こえくるのか。
…どうして君の…君の笑顔が浮かぶのか……
『―――俺には、聴こえた』
君は、何を聴いたのか?俺の何を、聴いたの?
俺すら分かっていない気持ちを、本音を。
君は、聴いたのか?声にならない、声を。
「…バカ…みてー…俺……」
教室を抜け出し、人気のない校舎裏へと逃げ出した。今はただ。ただ逃げ出したかった。突き付けられた現実に目を逸らしたかった訳じゃない。混乱している訳でもない。ただ。ただ、思った。これでなくなったんだと。
――――これで、何もかも、なくなったんだと……
「…何で…こんな……」
これで何もかもがなくなった。俺が唯一持っていた綺麗な場所も。何もかもがなくなった。後はただ残るのは抜け殻のみ。血に染まり、闇だけで出来た『自分』と言う抜け殻だけがそこにあった。
本当に何もかもが、なくなってしまった。
かろうじて自分を保っていられたのは、その想いがあったから。その気持ちがあったから、生きていられた。自分がただの殺戮者でただの殺人兵器でも。それでもこうして、生きてこられたのは。
――――君と同じに人間になりたかったという想いだけ……
でも、もうそれは。それは本当にただの夢でしかない。あれだけ俺を導いてくれた指は確かにもう一度俺の前に現れた。現れた、のに。
変わらないから、切なかった。変わらないから、苦しかった。俺を覚えていないと言うのなら全く別のものになっていて欲しかった。全く別のものに変わっていて欲しかった。そうしたら俺は、こんな。こんな想いをせずにすんだのに。君が全く別人になっていたら。
でも面影は、消えてはいない。何もかもあの時のままで。綺麗な漆黒の髪も、強い意思を持った蒼い瞳も。全て俺が知っている、あの頃の君、だったから。
「…俺を…覚えていて…欲しかったのか?……」
呟いた言葉に、俺ははっとした。憶えていない事に打ちのめされた自分。でも、本当に。本当にそれだけ、だったのか?君が俺を覚えていない事が、何よりも俺を傷つけた、のか?
「…違…う……」
違う、本当は。本当は…俺は……何も変わらず、けれども俺を覚えていない君に打ちのめされた訳ではなく…俺は……。
「…俺は……」
―――君を見ても、君と出逢っても、それでも…何処か冷静だった自分が……
あれだけ愛した人。ただひとり愛した人。
今までの自分を捨てて、その全てで愛した人。
それなのに俺は。俺は何処か。
何処か冷静に彼女を、見ていた。そして。
そして何時ものような軽口が自然と、出ていた。
――――否定するのが、怖かった……
俺から君の存在を否定すれば。少しでも否定すれば。
俺に残るのはただひとつ。ただひとつ血に飢えた生き物として。
ただの殺戮者としてしか残らない。
人間になりたいと言う詭弁の中に生まれたただの殺人兵器。それが。
それが俺。今ここに存在する、俺。
――――何の為に、生まれてきたのか?
君のためだと。君を護る為だと。そう信じて。信じ込む事で成り立っていたもの。
成り立たせていたものが、今。今音を立てて崩れてゆく。内側から崩壊してゆく。
全てが、崩れ、壊れてゆく。俺と云うもの全てが、壊れてゆく。
「…初めから…ただの…殺戮兵器だ……」
君がゆっくりと消えてゆく。俺の中から消えてゆく。
光がそっと消えてゆく。そうして残ったものは。残ったものは。
血と闇で出来た『俺』と云うただの塊だった。
――――醜く、汚い、穢れた、塊。
光が、見えない。もう何処にも見えない。
覆い被さる闇に全てが溶けて行って、そして。
そして内側から忍びこみ、ゆっくりと俺を。
俺を破壊するのを待つ以外には。ゆっくりと壊されてゆくのを。
こうしてただ。ただ待つ以外には。でも、もうすぐ。
もうすぐ近くに『狂気』は転がっている。それに呑まれれば。
それに呑みこまれてゆけば、俺は。俺はもう何も考えずに。
何もかもが消えてそして。そして楽になれる。
生きていると言う意味すらも、もう必要なくなって。
俺は楽になれるんだ。何もかも、考えずに。何も望まずに、楽に。
ほら、すぐそこに。ほら、自分の隣に。
ほら、ここに。ここに、狂気が。ここに、在るよ。
――――手を、伸ばせば、そこに。
手を、伸ばした。宙に、伸ばした。
そこには何もない。何も、ない。
それでも手を伸ばし、必死に。必死になって。
俺はなにかを掴もうとして、いた。
多分初めから、こうなる事は何処かで分かっていた。初めからきっと、分かっていた。見上げてきた瞳の先に見たものが。その紫色の瞳の先が見ていたものが。俺と、同じだったから。俺が必死で隠してきたことと、俺が必死で閉じ込めてきたことと。
―――それは同じものを、捜していたから……
伸ばされた手を、掴んだ。
何かに救いを求めるように伸ばされた手を。
その手を、俺は。俺は見捨てることが。
俺には、出来なかった。
聴こえたから。聴こえた、から。
声にならない声を。言葉に出来ない声を。
その想いを、俺は。聴いたから。
――――聴いて、しまったから……
「…瀬戸口……」
焦点の合わない目。校舎裏の芝生にまるで倒れ込むように、崩れ落ちる身体。それでも何かに縋るように必死で伸ばされた手。その手を、俺は。
「…来…須……」
手を掴んだ瞬間。手が結ばれた瞬間。その瞳が、俺を見つめる。俺を捕らえるその瞳が。俺を引き戻すその瞳が。真っ直ぐに俺だけを、見た。
闇に落ちようと思った。
このまま狂気に身を任せ狂ってしまおうと。
狂ってしまおうと思ったのに、俺は。
俺は手を伸ばしていた。必死になって、伸ばしていた。
――――生きたい…と、そう叫んで、いた……
「…どうして……」
お前が、俺を呼んだから。
「…何で…ここに……」
聴こえない声で、それでも必死に。
「…ここに…君が……」
必死に叫んでいたから――生きたい、と。
ひとは何の為に、生まれてくるのか。
ひとは何の為に、生きているのか。
そんな当たり前の事を。当たり前の事を俺達は。
――――互いに出逢うまで…知らなかった……
「分からない、俺も。でもお前の声を無視できなかった」
そのまま手を掴んで、そして。そしてその身体を引き寄せた。その途端腕の中の身体がぴくりと震え硬直する。それでも俺は。俺はその身体をそのまま抱きしめた。
微かに薫る髪の薫りを感じながら。見掛けよりもずっと華奢なその、身体を。
抱きしめたら、どうしようもなく愛しさが込み上げて来た。
END