DISTANCE・7

手のひらで転がされている、運命。

どんなに強い意思でそれを貫こうとも、絶対的な力に叶うことはない。
それでも。それでも無駄だと分かっていても、抗わずにはいられない。
逆らわずにはいられない。どんな事になろうとも、自分の想いを、自分の意思を。
それを曲げてまで、諦めてまで。いや、諦めきれる想いならば初めから。

…初めから、全てを逆らっても貫こうとは…思わなかった。



綺麗な純愛、滑稽な純愛、哀しい純愛。狂うほどに求め、壊れるほどに求め。ただひとつのものを。ただひとつの事を。
「僕も気持ちは分かるからね」
理性では分かっていても、気持ちでは理解していても、それでも止められないものが。止められないものがそこにあるのならば。後は想いのまま突き進むしかない。
「速水、お前が仕組んだことだろう?」
「違うよ、仕組んだのは岩田くんだよ。僕はただ、見ていただけ」
くすくすと楽しそうに速水は微笑った。何時もその唇には無邪気な笑みが浮かんでいる。何時でも、どんな時でも。
「でも楽しませてもらったからいいや。後はどうしようかなあ?」
「瀬戸口くんは、アレからは開放されないデショウ?」
「無理だね。士魂号を乗りこなせてしまった以上、戦うしかないんだから。それに、可愛いあの子の薬を稼がないといけなしいね。そうしないと岩田くんが困るよね」
「――――」
速水の言葉に岩田は返事をしなかった。した所でどうにもならない事も、意味のない事だとも分かっているから。ここで肯定しようが否定しようが、結果が変わるわけでもない。事実が変化する訳でもないのだから。
「来須はどうする?速水」
「どうもしないよ。だって戦いが終わったら彼はこの世界から消えるんだ。消えちゃう人間の処遇なんて…どうしようもないでしょう?」
「彼らにとっては戦いがある日々のがしあわせなんて…不幸な話デスネー」
「そうだね。戦いが終わったら、瀬戸口はどうなるのかな?」
「―――どうなるって、お前はもう決めているんだろう?どうするかを」
準竜師の言葉にやっぱり速水は微笑った。無邪気な子供のような顔。誰からも愛されるその顔は、けれどもある一定以上の人間には恐怖の対象になるのだ。その中に含まれる鋭い刺に気付いた人間は。
「どっちかしか、ないんだけどね…どっちを選ぶかは…ふたり次第なんだけれどね」
―――そのぞくりとする程綺麗な天使の笑顔が、どれだけ怖いかを……



ただ、逢いたくて。逢いたくて、逢いたくて。
そして声が、聴きたくて。ただひとり君の声だけが。
どうしてこんなにも。こんなにもと、思った。
今までずっと、知らなかったのに。出逢う前は知らなかったのに。
君を知らない時間と、君を知ってからの時間はこんなにも違うのに。
こんなわずかな時間が、俺の全ての時を支配してしまうほど。
俺の今までの全てを消し去ってしまうほど。
こんなにも、君を。君だけを求めている。

――――顔が、見たい。声が、聴きたい。君に、逢いたい……


森を抜けた所で士魂号から降りた。ここまでこれば後はあいつ等がこれを片付けてくれるだろう。今はもう、この狂気の入れ物からは一刻も早く離れたかった。
「…頭…おかしくなりそうだ……」
降りた途端眩暈と吐き気が身体中を襲う。意識がばらばらに成り掛けて、それでもぎりぎりの所で耐えた代償だった。たまらず瀬戸口はその場にうずくまり、吐いた。けれども出てくるのは胃液だけだったが。
吐き出しても胸の気持ち悪さは消えず、立ち上がっても脚はふらふらだった。予想以上にアレに乗る事は、身体にダメージを与えた。
「…でもこれで…少しは…薬…作れる…かな?…」
小さなあの子を思い出した。大きな目の小さなあの子。こんな風に誰かの為に自分が動く事になるとは、今までは考えもしなかった。考えることすらなかったから。
―――でも君に出逢って、君を好きになって、俺は。俺は少しづつ『他人』を思えるようになったから……。
誰かが言っていた。自分に余裕があれば、廻りが見えてくると。自分が愛されている事に気付けば、廻りも自然に愛せるようになると。今きっと自分はそんな状態なんだろう。
君が俺を必要としてくれたから、君が俺を…好きだと言ってくれたから…だから俺は。俺はこうして他人の為に、何かをしようと思えるようになったから。
「…気持ち…悪……」
喉からまた気持ち悪さが込み上げて来て、瀬戸口はまた吐いた。吐き出すものは何もないけれども、それでも吐かずにはいられなかった。
「…ヤバ…俺…ダメかも……」
意識がぐらりと、揺れた。視界が次第にぼやけてくる。そして。そして耐えきれずに瀬戸口の身体は、そのままがくりと崩れ落ちた。



血が流れ出るのも構わずに、来須は走り続けた。途中で瀬戸口が狩り損ねた幻獣が襲ってきたが、どれもザコばかりで来須の相手にすらならないモノだったが。
「―――瀬戸口?」
森の入り口で来須は士魂号を発見した。けれども無人の士魂号は、ただの入れ物でしかなかった。そこに捜している人物の気配はない。
「―――!」
地面が、濡れているのに気付いた。それが何であるかは、すぐに来須には分かった。大量の胃液。吐き出すものがなくなって、それでも吐き出されるもの。戦場で何度も何度も見てきたもの。
「…瀬戸口…何処だ?……」
その液体が所々に散らばっているのを頼りに、来須はその後を追った。森の中へと続いているソレに。そして。
「瀬戸口っ!」
そして途中で崩れ落ちている、その身体を。ぐったりと横たわるその身体を。気を失い意識のない、ただひとりの想いの人を。ただひとり、捜した相手を。ただひとりのひとを。
「――――瀬戸口……」
駆け寄って、その身体を抱きしめた。自分を抑えきれずに、きつく。ただひたすら強く抱きしめた。思いの丈を込めて、強く。強くその身体を。


どうしてこんなにも。こんなにもお前を。
お前を求めてしまうのか?どうしてこんなにも。
こんなにもお前だけを、俺は。
俺はこんなにも、欲しいのか?
何時も他人には一定以上関わらないようにしていた。
必要以上には受け入れないようにしていた。
何時も心の壁を作り、それ以上は踏み込ませないようにと。
それ以上は入って来れないようにと。それなのに。
それなのにお前は、俺の中へは入って来た。
遠慮なんかしないで、土足で俺の心に入り込み。
そして俺の一番深い場所に。誰も触れさせてはいない場所に。
―――お前だけが、触れた。


意識のない身体。白い肌がより一層青白く見える。血の気の全くない唇と、口許から零れている唾液の痕。それをそっと、来須は指で拭った。
「…お前が……」
―――どうしようもないほどに、愛しい……
言葉にしようとして寸での所で止めた。言葉にしたらそれこそ、堪えているもの全てが溢れてきてしまいそうで。必死になって、心で堪えているものが。
「…しあわせに…してやりたいと思った……」
髪をそっと撫でる。柔らかい茶色の髪を。夜と昼の匂いが交じり合う、不思議な薫りのする髪を。
「お前が孤独だったから…俺は…俺が、しあわせにしてやりたいと…思った…けれども…」
しあわせにしてやりたいと想いながらも、本当は自分の方が。自分の方が、お前の存在によってしあわせになっていたんだと。お前が俺をしあわせにしてくれていたんだと。
「―――お前が笑うたびに…俺が…本当は俺の方が……」
意識のない唇にそっと、口付けた。冷たい唇はまるで死人のようで。それが嫌だったら、何度も何度も、口付けた。
「…俺の方が…ずっと…救われていたんだ……」
お前の時折見せる子供のような我侭も。俺が触れるたびに無意識に嬉しそうに微笑う仕草も。全てが俺にとっては。俺にとっては。
―――ひととして、欠けていた何かを…お前が俺に与えていてくれたから……
「…瀬戸口…目、開けろ…お前の目が見たい……」
冷たい頬。生きているのが不思議なくらい冷たい体温。青白い顔。血の色のしない顔。それが嫌だから。嫌だったからもう一度きつく抱きしめた。



ふわりと、頭上から降り注ぐ。
あたたかいものが、そっと。
そっと降り注ぎ、俺を包み込む。
これは、何?これは何だろう?
あたたかくてやさしくて、そして。
そして少しだけせつないもの。
―――これは、何?

くるしいくらい、やさしくて。
せつないくらい、あたたかいもの。

俺の中に、染み込んでくる。
そっと染み込んでくる、光。
内側から犯された闇が消えてゆく。
ゆっくりと、消えてゆく。


――――ゆっくりと…消えて…ゆく……



「…あ……」
夢かな、って思った。夢なのかなって思った。
「…俺…まだ……」
君がいたから。瞼を開けた先に君がいたから。
「…夢…見てんのかな?……」
だから、まだ優しい夢を見ているのかと思った。


「―――夢じゃない」


その言葉の意味を確認する前に。その言葉の意味を意識する前に。唇が、塞がれる。そっと、塞がれる。その暖かさが。そのぬくもりが、これを。これを夢じゃないって伝えていて。これが、夢じゃないと。
「…来…須?……」
唇が離れて、重なり合う視線に。見つめる蒼い瞳に。綺麗なその顔に。暖かいぬくもりに。抱きしめられる腕の強さに。その、全てに。その全て、が。
「―――よかった…瀬戸口……」
初めて、見た。君のこんな顔を俺は初めて見た。苦しげでそれでも優しくて、そしてどうしようもない程切なげな顔を。こんな君の表情を俺は初めて。初めて、見たから。
「…よかった……」
きつく、抱きしめられて。その表情を俺は見ることは叶わなくなってしまったけれど。それでもずっと。ずっと俺はその顔を忘れない。君が俺に見せてくれた…俺だけに見せてくれたその顔を。絶対に俺は、忘れないから。
「…来須……」
名前を呟くだけで、零れそうになった。気持ちが溢れそうになった。堪えるのが必死で。必死だったから、名前が。名前が呼ぶ事が出来なくなって。だから俺は。
―――俺は必死になって、その背中にきつく抱きついた……


ああ、好き。君が大好き。
ただそれだけが、全て。
今の俺の全て。こんなにも。
こんなにも君が好き。
こんなにも君を愛している。
もう他に何も。何も思い浮かばない。
ただこうしているだけで。
こうしているだけで、泣きたくなるくらいにしあわせ。


「…夢でも…いいや…君がいるなら……」
「…瀬戸口……」
「…何でもいい…夢でも本当でも…嘘でも幻でも…」

「…君がいてくれれば…俺は何も要らない……」

本当にもうなにもいらない。何も欲しくない。
だからそばにいて。俺のそばにいて。
君がいてくれれば。君さえいてくれれば。
本当に俺は何も。何もいらないから。


「―――瀬戸口……」
手を伸ばして、頬に触れた。暖かい頬。指先から伝わるぬくもり。生きている、ぬくもり。君がこうして生きてそして。そして俺を見つめていてくれる。
「…君の…顔の形…指で記憶してあるのと一緒……」
あ、微笑った。その顔が、大好き。優しくそっと微笑う君の顔が一番好き。だから、ね。もっと微笑っていて。
「当たり前だ。偽者だと、思ったのか?」
微笑っていて、ね。それだけで俺はいいから。それだけで、しあわせだから。だから、ずっと。ずっと微笑っていてください。
「…偽者だったらこんなにも……」
ずっと、ほほえんでいて、ください。


「…こんなにも優しく…笑わない……」


そっと降りてくる、唇。優しく触れる唇。睫毛の先が震えて、指先が震えて。まるで初めてキスをしている瞬間のように、俺は震えて。
「…俺…汚いのに……」
「瀬戸口?」
「胃液と体液で…ぐちゃぐちゃなのに……」
「そんなの構わん」
そう言ってより一層きつく抱きしめてくれる腕が。抱きしめてくれる、腕が。好きで好きで、堪らない。君が汚れるから…と思ってもこの腕を離すことが出来ない。
「君まで汚れるよ」
「構わないって言っている」
もう一度口付けをされた。唾液に塗れている今の俺のキスなんて、美味しくないだろうけど。それでも君は、キスしてくれるから。
「…来須……」
だから、どうしようもなく。どうしようもなく切なくて、そしてどうしようもなく嬉しい。
「何だ?」
「…君の声が聴こえたんだ…だから俺…」
「―――呼んでいた、お前を。俺は呼んだ」
「…うん…そうだね…呼んでいてくれた…だから俺ここに戻って来れた。獲り込まれても、狂気に獲り込まれても、こうやって戻ってこれた」
「…お前に聴きたい事も、告げたい事もたくさんあったのに今は……」
「……来須………」
「この言葉しか、思い浮かばない」


「愛している、瀬戸口」


聴きたかった事も。告げたかった事も。
今はもう、その全てが。その全てがどうでもよくなって。
ただひとつ。ただひとつ今、この自分の想いを。
このただひとつの想いを、それだけを。


「…うん、来須。俺も……」
「…お前だけを…愛している……」
「…俺も…君だけ…君だけだよ……」
「何もいらない。何も望まない。俺は」
「…来須……」
「…お前がこの地上に生きてくれれば……」


「…生きてお前が…微笑っていてくれれば……」


指を、絡めた。繋がった指先から互いのぬくもりが伝わってくる。
そのあたたかさがもしも。もしも世界の全てだったならば。
俺達はもうこんなにも傷つけ合うことも、傷つくこともなかったのだろう。
そのあたたかさだけが、この世界の全てだったならば。


「…だったら…ずっと……」
本当は気付いていた。最初から何処かで分かっていた。
「…ずっと…俺のそばにいてくれ……」
この指を離す日が、来ると言う事を。こうして繋がっている指先が何時か。
「…ずっと…俺の…そばに……」
――――何時しか離れてゆく事を。



多分俺は何処かで分かっていた。
君の何もない部屋と、君の存在意義を考えた時に。
そこから導き出される答えがひとつしかないと言う事を。
本当はずっと何処かで分かっていた。
それでも。それでも俺は。


君の言葉を、信じて。君の言葉だけを、信じて。



…この指先の、ぬくもりだけを、信じて……







―――しあわせに、なりたかった……


絡めた指先が、ずっと。ずっと結ばれていたならば。
ずっとこの指先が繋がっていたならば。この指先、が。
このぬくもりが、この想いがずっと。

…ずっと結ばれていた…ならば……



「―――瀬戸口……」
本当は気付いて、いた。本当は、分かっていた。まだ君が俺に全てを告げていないことも。全てを見せていないことを。
「…そばにいてくれ……」
それでもよかった。別に構わなかったんだ。君の言葉に嘘はなかったし、そばにいると言った想いも間違えなく君の本当の心だったから。君の本当の気持ちだったから。
「…ずっと……」
君の思いに嘘はない。君の言葉に偽りはない。けれども、想いだけではどうにもならない事があるのも、俺は知っている。そう、気持ちだけではどうにも出来ない事も。
「瀬戸口、俺はお前に言わなければならない事がある」
そして今君が。君が初めて俺に告げようとする真実は。多分俺達が無意識に閉じ込めて隠していたもの、だから。
「…来須…その前に、聴かないの?」
繋いだ手。繋がった指先。暖かいぬくもり。君に言ったら怒るかもしれないけど、このまま死にたいって思った。君に指を絡めながら、このまま。このまま一番しあわせなままで。
「…俺が何故…アレに乗ったか…」
「―――聴けばお前は言いたくない事を言わなければならない」
「…来須?……」
「…あの…お守りには……」
そこまで言って、一端君は言葉を止めた。そうして繋いでいる手に力を込めて、そのまま俺の身体をきつく抱きしめて。そして。
「盗聴器が、仕掛けられていた」
「……あ、そう…なんだ…じゃあ……」
出てきた言葉が不自然だった。さらりと言うつもりだったのに。それなのに自分でも情けないくらいに動揺しているのが分かる。自分でも、驚くくらいに。
「…じゃあ…聴いてたん…だよな…アレ…あ、俺さ…何か…俺……」
「言うな、瀬戸口。言わなくていい、お前が望んでした事じゃないって分かっているから」
「…でも…俺…あの時…もう何も考えられなくて…やっぱ今まで遊びまくってた報いだよな…好きでもない男と平気で寝ていたからさ……」
「言うなっ!」
びくんっと身体が、震えた。こんな。こんな君が感情を表に見せて。見せて俺に、こうやって怒鳴った事が。君が感情を剥き出しにさせた事が。俺は…。
「もう自分自身を傷つけるな。俺は分かっているから」
「…でも…来須、俺は……」
「お前のそんな顔は、俺は見たくない」
そう言って、そっと。そっと頬に触れる手。大きな手。全てを包み込む優しい手。この手だけを、ずっと。ずっと俺は求めていた気がする。ずっと、ずっと。
「…じゃあ…これだけ、聴いて…」
君だけを、求めていた。君の綺麗な光と、君の優しい風と。その全てが、俺はずっと欲しかった。ずっと、それだけを。
「…ののみは…あの子は薬がないと生きられない…身体が持たないんだ……」
君に近付いて、君とひとつになって。そして君と繋がったと思ったけれど。君の中へと入ってゆけたと思ったけれど。それでも何処か。何処か少しだけ、足りなかったのは。
「…薬は…幻獣の心臓で出来ている…だから俺…戦わない訳には行かない…あの子を護らない訳には…いかないんだ……」
足りなかったのは、俺達。俺達まだ全部、全部話していなかったよね。必要ないと思って、今二人でこうしている事が大切だと思って。だから、もっと。もっと話さなければいけなかった事も、こうやって。こうやって置き去りにして。
―――本当はもっと、傷ついて。本当はもっと傷つけあって。
けれどもやっと。やっと俺達は癒されたから。やっと欲しかったものを互いが手に入れたから。その心地よさに溺れて、その優しい空間に溺れて。一番大切なことから少しだけ目を逸らしていた。
それに伴う痛みが、それに伴う傷が、やっぱり怖かったから。
「…だから俺は…アレに乗り続けるしかないんだ……」
現実を見つめて。逃れられない事実を見つめて。それでも。それでも手放せないほどの想いが、その傷すらも受け入れても離せないと言う想いがある限り。
「…そしてそれ以上に…聴いてくれ、来須…これが真実だ……」
本当の事。逃れられない事実。どうにもならない事。それでも告げるから。だから君もちゃんと俺に話してくれ。ちゃんと、告げてくれ。どんな結果になろうとも、どんな言葉であろうとも、嘘で優しく包まれた愛よりも。俺は剥き出しの痛みを伴う真実の方が、欲しいから。
――――誰よりも君に、近付きたいから……


「…俺は戦い続けなければ…鬼になる……」


「俺の血は、消える事はない。戦わなければ、身体に眠る闇が抑えきれなくなる。戦う事で、俺はその闇を開放しているんだ。そうしなければ、俺は。俺は獲り込まれてゆくしかない」
魔になりたくなければ、そうするしかない。この心の巣食らう闇を、消すことは出来ない。獲り込まれたくなければ、戦い続けるしかない。
「―――殺してくれ、って思った。君に殺されたいと思った」
獲り込まれる前に、戦う前に。君に。君に殺されたいと、思った。けれどもそれ以上に。
「…でもそれ以上に…生きたいと、思った…どんなになっても君のそばにいたいと……」
それでも浅ましいほどに俺の心は。俺の心は君と言う存在を求め続ける。君だけを、求め続ける。ただひとりの、君だけを。
「…俺は…やっぱり魔物なんだよ…あれだけ戦いたくないと思いつつ、いざ戦えば殺戮に溺れてゆく。血に、塗れてゆく。ぼろぼろになると分かっていても、戦わずにはいられないんだ」
「でも、哀しんでいる」
「…来須……」
「戦いながらお前は泣いていた。お前の士魂号は…泣いていた」
頬に指がそっと、触れた。その指が零れ落ちる雫を掬い上げる。何時しか俺の瞳から零れていた涙を。そして。そして…


「―――お前は…本当は、誰よりも優しい」


微笑う、君。そっと微笑う、君。優しく微笑む君の笑顔。その笑顔を見ていられたら。ずっと、ずっと見て、いられたならば。
「…お前に、戦わせたくはなかった…」
笑っていてほしいのに。ずっと微笑っていて欲しいのに、俺は。俺は君にこんな顔をさせてしまう。こんな、顔を。でも。
「…来須……」
でも俺は、心の何処かで喜んでいる。君にそんな顔をさせる事が出来るのが俺だけならばと。こんな顔を見る事が出来るのが俺だけならばと。そんな風に、心の何処かで喜んでいる。
「戦う事で傷つくお前の優しさを、俺は」
「―――好きだって、言ってくれるのか?」
「ああ、好きだ」
零れ落ちる涙を辿る舌。涙以外にも吐いた胃液と唾液で俺の顔は汚れているのに。それなのに君は。君はそんな事を気にもせず、俺にキスの雨を降らしてくれるから。
「好きだ、瀬戸口。幾らでも言ってやる」
「…どうしたの?…君が饒舌なのは…何か不思議だよ」
「言えなくて後悔するなら、言って戻れなくなるほうがいいと思ったからだ」
「嬉しいよ、来須。本当に、嬉しいよ」
背中に廻した手を、きつく。きつく抱きしめた。君の背中。広い、大きな背中。大好きな、背中。優しくて広くてけれども厳しい、その背中が大好きだから。
「本当にお前には戦わせたくはなかった。俺が、お前を護りたかった。けれども、それも…俺は出来なかった……」
「今回の事を責めているのなら…それは間違えだよ。だって、ちゃんと君は俺を護ってくれていた」
「お前にあんな目に合わせた」
「―――あんな目にあっても…俺…平気だったよ」
「…瀬戸口?…」
「だって君はそんな俺でも好きだって言ってくれるって…信じていたから……」

「…だから、俺は平気、だった……」


岩田に犯された時も。士魂号に乗った時も。
闇に獲り込まれそうになった時も。君が、いたから。
君の声が、聴こえていたから。だから、俺は。
俺はこうして。こうして今、ここにいる。
ここに、君の前に、いるんだから。


「…聴こえていたから…君の声が……」
「…俺もずっとお前の声を聴いていた…」
「…ずっと、呼んでいた……」
「ああ、ずっと。ずっとお前は俺を呼んでいた」

「―――出逢う前から、ずっと……」


「聴こえていた、俺にはお前の声が」
―――来須?…今、なんて言った?……
「時間軸を渡りながら…渡り続けながらそんな俺に常に付き纏っていた声」
―――時間軸?付き纏う?
「俺はずっとお前の声を聴いていた。お前の声だけを」
「…来須…何…どう言う……」
「本当はお前には出逢いたくはなかった…出逢ったら、惹かれずにはいられなかったから」
「…来須…君は……」
「こうして抱きしめて、愛さずには…いられなかったから…」



―――今、最期のふたりを隔てていた壁が…崩れた……



「言わないつもりだった永遠に…でももうそれも出来ない」
「…来須?……」
「お前が全てを見せるなら…俺も全てを見せる。お前が…それを望んでいるのが分かるから」
「…うん…知りたいよ…君の全部を知りたい…全部…教えて……」


「…傷ついても…いいから……」


抱きしめる腕が強くなって。俺を抱きしめる腕が、強く。そしてそのまま髪に、額に、頬に口付けられて。そのまま、溶けてしまいそうになるほど、優しいキス。優しいキスと、力強い腕が。全部、切ないほどに俺に与えられて。与えられたから…嬉しかった。
「俺は、一定の場所に留まることは…許されない……」
ぽつりと零した君の言葉。静かに告げられる真実。何処かで分かっていた、真実。
「戦うために俺は存在している。俺には過去がない。ただ命令された場所で戦う事だけが全てだ。様々な時間軸を越えて、ただ戦い続ける事だけが」
「……じゃあ…戦いが…終わったら?……」
「―――その時は、俺は消えるだけだ。俺には過去は、ない」
「…消える…って?……」
言葉が自然に、震える。何でもないように言おうとしたのに、震えるのが抑えきれない。抑えることが、出来ない。その先は。その先君が言うであろう言葉が……。


「消える。全ての人間の記憶から。俺に関わったもの、全てから」


これが、真実。これが、最期の真実。
君が最期まで告げようとしなかった事。
君が最期まで俺に隠し続けたこと。
ただひとつどうしても、破れなかった壁。


「…来…須……」
「消える、お前の中の俺はいなくなる。でも、俺は消えない」
「…くる…す……」
「俺の記憶から、お前が消えることはない。お前が全てを忘れても、俺は」
「…それ…が…そばにいるって…事なのか?…」
「―――瀬戸口……」
「…俺が…君を忘れても…君は俺を忘れないから…だから…ずっとそばにいるっていうのは…君の中に俺が…いるって事?…ずっと…」
「ああ。お前が全てを忘れても、俺が憶えている。ずっと俺の心にお前は、在る」
「…そんなの……」
「瀬戸口?」
「…そんなの俺は……」


「俺はそんなの望まないっ!!」


「俺が君を忘れるのに、君が覚えているなんて…そんなの俺は…」
どうして?どうして、そんな事を言うのか?それが君の出した答えなら。君が出した答えならば。
「そんなの俺が許さない。君だけが覚えていて、俺が忘れるのか?君を…こんなにも君を好きな俺を…今の俺を…君を好きな俺を…全て…なくすと……」
俺は今、生きている。君に逢ってやっと。やっと生きている事を実感している。君を愛して、君だけを想って。やっと。やっと俺は見つけたんだ。やっと俺は見つけ出したんだ。
―――自分が生きていると言う事実を。自分が生きたいと想う気持ちを。
「…俺には…何も…残らない…俺は…ただの…ひとの形をした、魔物だ……」
「―――瀬戸口……」
「君に出逢って、俺は。俺はやっと生きている意味を見つけた。君と出逢って俺はやっと生きているんだって思えた。君と出逢う前の自分ですら思い出せないのに…それなのに、君を全て忘れたら…君の事を全て忘れてしまったら……」
俺に何が、残る?俺に一体何が残ると言うの?なくなってしまったら。君という存在がなかったら…俺はただの抜け殻だ。
「…どうして…だったら…最初から……」


「―――逢わなければ、よかった、か?」


頭上から聴こえてくる声に、はっとなって顔を上げたら。その表情を。その瞳を。君のその顔を、見たら俺は。
「初めから出逢わなければ、よかったか?」
ぽたり、と。俺の頬に熱いものが当たる。それは。それは……
「…俺も…そう思っていた…でも…戻れなかった…こんなにもお前に惹かれるとは…自分自身でも思わなかった……」
「…来…須……」
「…お前が俺を忘れても…全てを忘れても俺は…それでもお前を…愛している…愛しているんだ…お前を……」
手を、伸ばした。震える指先を、伸ばした。そこに触れたものは、熱い雫。熱い、涙。君の想いが込められた、熱いもの。君の全ての想いが込められた……。
「…ずっと…聴いていた…お前の声だけを…過去も未来もない俺に…それでもずっと叫び続けていた声を…お前の声だけがずっと聴こえていたんだ……」
「…くる…す……」
「…無視する事が出来なかった…どんな時でも他人を踏みこませず、自分の心に入れなかった俺が…お前だけは…どうしても、出来なかった……」
「…泣く…なよ…泣かないで…くれ…俺は……」
「…お前の方が…泣いている……」
君の手が伸びて、俺の零れた涙を拭う。優しい手。優しすぎる手、そして。そして哀しすぎる、手。
「…ごめん…来須…君のが…辛いのに……」
「…瀬戸口……」
「…俺は君を忘れたら…この痛みすら…記憶になくなるのに…君は…君はずっと…ずっとこの痛みを…持ち続けるんだよね……」
俺が君を忘れても、君は俺を忘れない。君の中でずっと。ずっと俺は生き続けている。時のない君に。時間を持たない君に、俺は。俺は唯一の、君の中の『過去』に、なる。
「…どうして…それならば…君も…君も俺を忘れられたら…いいのに……」
―――ただひとつの君の『過去』に、なる。
「…忘れられるわけがない…忘れはしない…お前だけはどんなになっても俺は……」
「…そんなの…君が辛いだけだ……」
「―――どうして?」


「…俺はこんなにも…満たされているのに……」



お前を愛したことが。お前を、愛したことが。
俺の中に永遠に残る限り。永遠に刻まれる限り。
これから先、また。また時間のない日々に戻っても。
戻ったとしても、永遠に。永遠にお前は俺の中に在る。
どうしてそれが、辛いのか?お前はもう既に。
既に俺の中に、俺自身の一部として息づいているのに。


「俺は今まで何も持ってはいなかった。何一つ持ってはいなかった」
でも、今俺は。俺はこんなにもたくさんのものを。たくさんのものをお前が。お前が俺に与えてくれた。抱えきれないほどの、たくさんのものを。
「でもお前が、いる。今はお前がいる」
それだけで充分だ。もう、それだけで充分なんだ。だから後は。後はお前がしあわせになってくれれば。
「―――だから俺は」
俺はそれだけで、しあわせなんだ。



「…お前に出逢えて…よかった………」







心に、刻まれるもの。ただひとつ、刻まれたもの。
過去も未来も、何もない俺に。今しかない俺に。
お前だけが、そっと。そっと俺の中に息づいて。

―――俺の中に、生きている……


傷が、開かれても。こころが抉られても。それでも。それでもただひとつの真実を求めた。ただひとつの事を、求めた。それを誰が責められるのだろうか?
「…来須…傷が……」
端から見たら俺達はどう映るだろうか?胃液と唾液でぐちょぐちょの俺と。傷だらけで血を流している君。奇怪に俺達は、映るだろうか?
「―――ガラス、打ち破ったからな」
指でそっと触れれば、血がこびり付いた。半渇きの血が指にどろりと、付く。それが俺には苦しかった。きっと痛いのに、君が何も言わないから。
「何で、そんな事をしたの?」
「お前に逢いたかったから」
再び抱き寄せられて、そして抱きしめられる。俺の身体にもきっと。きっと君の血がこびり付いている。君の身体が傷つくのは嫌だけど、君の血を浴びるのは…嫌じゃなかった。
「岩田と準竜師が、モニターを見ていた。お前が戦っている所を…だから、飛び込んでやった」
そう言って、口許だけで微笑う。そんな顔もずっと。ずっと見ていたい。どんな顔でも、どんな表情でも。
記憶が全てを俺から奪い去っても、君を忘れることが出来なくなるくらいに、刻み込みたいから。
「…痛くない?…ここ…特に血が……」
ガラスを打ち破った利き腕からどろりと零れる血。俺はそっと。そっとその血を舐め取った。そうする事でどうにかなる訳ではなかったけれど、それでも。それでも少しでも君の傷を、君の痛みを共有したかったから。
「―――平気だ、いいんだ…お前が無事ならば……」
微笑う、君が。そっと微笑う、君が。俺はその顔をずっと。ずっと、俺は。
「俺達、ぼろぼろだね。君も俺も傷だらけだ…きっと俺達なんて物凄くちっぽけなんだろうね」
「そうだな」
「…でも…生きているよ…俺達…」
「ああ、生きている」
「…ちっぽけでもさ…生きているから…だから、来須…」
「――――」
「…しあわせに…なろう……」
それは大きな流れの中では無駄な足掻きかもしれない。ちっぽけな俺達の存在なんて、世界の中では本当に無に等しいものなのかもしれない。それでも。それでも俺達はこうして、生きている。生きている限り。
「ああ、そうだな。しあわせに」
生きている。今を、生きている。こうして君と出逢い、そして君を好きになったことは。どんなに全てを消されたとしても、確かにここにあるんだ。今、ここに在るのだから。
「一緒にいよう、いっぱい…一緒にいよう」
俺のこの気持ちは確かに、ここにあって。そして俺の想いは確かに今心の中にあって。君を好きだという想いは、ここに。ここにこんなにも強く存在している。こんなにも激しく主張している。
「…飽きれるくらい一緒にいたら、それだけで埋められるよな…」
「こころを、か?」
こんなにも。こんなにも君を想っている。こんなにも君だけを想っている。俺の全てで、想っている。そんな気持ちを、気持ちを本当に奪えると言うのならば。
「君と、俺のこころ…いっぱい、ふたりで埋めよう…」
奪ってみるがいい。奪ってみろよ。奪えるものならば、俺から全てを。こんなにも君を愛しているのに、こんなにも君だけを愛しているのに。その想いを奪えると言うのならば。
「全部、埋めよう…隙間がなくなるまで…ううん、溢れるまで……」
―――運命と言う名のものが、それを俺から奪うと言うのならば……
「―――ああ、そうだな……」


「…もう…何も考えられなくなるくらいに……」


しあわせって、なんだろう。いきていることって、なんだろう。
生まれてくる命に、差なんてないのに。
どうして、選ばれる人間とそうでない人間がいるのか?
しあわせを得られる人間と、そうでない奴がいるのか?
命に違いなんてないのに。命の重さに違いなんてないのに。
どうして、なんだろうな。どうして、なんだろう。


―――きっと、俺達には永遠に分からないんだろうね。


でもいいや、難しい事なんて分からなくても。世界の理屈なんて分からなくても。
運命なんて分からなくてもいい。世の中の事なんてもう分からなくてもいい。

だって俺達は『真実』を見つけたんだから。

こうして今。今こうして過ごしている時が、真実。ふたりで一緒にいるこの時間が、真実。運命が世界がそれを奪っていっても、奪っていったとしても。今ここに在るもの。今ここに、存在するものが。


―――俺達だけの、真実なんだから……


「…帰ろう…来須……」
未来なんて、知らない。過去なんてどうでもいい。俺達にはこの今が。この生きている今が、大事。
「ああ、そうだな。帰ろう」
今こうして触れ合っているぬくもりと、見つめあっている瞳が。それが、全て。それが全て、だから。
「―――俺達の、場所へ……」
指を、絡めて。ずっと、絡めて。もう離れたくないから。もう一瞬でも離れたくないから。だから、ずっと。ずっと、指を絡めて。
――――ふたりでこの森を、抜ける……



「愛の逃避行って奴かな?」
置き去りにされた士魂号を見上げながら、速水はくすくすと微笑った。ふたりは手のひらの中にいる。この自分の手のひらの中に。そこから逃れることも、逃げ出すことも出来はしない。かりそめの、逃避行。それでも。
「イイのですかー?このまま逃がしてシマッテモー?」
「いいんだよ。だってそれでも瀬戸口は戦わないといけないし、来須は消えなければならない。それは変わらない事実なんだから」
それでもふたりにとっては、それが何よりもの。何よりも大事なことなのだろう。どうにもならない事でも、どうにも出来ない事でも。それでも互いの手を取り、そして指先を絡め合う事だけが真実なのだから。
「だったら今だけでも…夢を見させて、あげようよ……」
それが例え、一瞬の時間でしかなくても。彼らにとっては永遠なのかもしれないのだから。



泥と体液と血でぐしょぐしょになった身体を、シャワーで流した。着ていた服は使い物にならなくなって、そのままゴミ箱へと捨てた。
熱いシャワーが傷に染みないか、それだけが今の瀬戸口の一番の心配事だった。
「そんな顔、するな」
それに気付いて来須は濡れた瀬戸口の前髪をそっと掻き上げた。形良い額が現れて、そっとそこに口付ける。
「―――平気だ…俺は傷には慣れている……」
何時も戦場で、一番前線で戦い続ける男。時代を駆け巡り戦い続ける。ずっとそうして生きてきた。ずっとそれだけで、生きてきた。
「…君の痛み…俺も感じられたらいいのに……」
ふたりで入るには少し狭いバスルームに、ふたりで向き合いながらシャワーを浴びる。その間中、ずっと。ずっと瀬戸口は来須の腕の中にいた。素肌が触れ合って、そして。そして気持ちが高ぶって。けれどもそれ以上の事をふたりはしなかった。今はそれよりも身体を綺麗にして、そして互いの傷を手当てしなければならなかったから。でも。
「…君と俺の境界線…なくなったら、いいのにな……」
でも、それでも触れていたいから。何処でもいいから、触れていたいから。
「―――瀬戸口……」
降りてくる唇をそのまま受け止めた。熱いシャワーを浴びながら、その口付けを。この熱さが全部。全部、ふたりを溶かして混じり合わせてくれたらなと…思った。

このまま、境界線が、なくなったらと。


傷口に薬を塗りながら、酷い所は包帯を巻いた。普段こうした事をしないせいでひどく不器用だったけれど。けれども懸命に瀬戸口は、それを巻いた。
「―――俺さ、傷は何時も自己修復……」
少し自虐的に瀬戸口は微笑った。そんな顔は見たくないと、来須は言おうとして…止めた。どんな感情であろうとも、どんなものであろうとも。この瞳で、この記憶で、全てを見ておこうと思ったから。
「どんなに深い傷を負ってもさ、死なねーの…笑っちまうよな…こんな時、自分が人間じゃない、魔物だって…確認するの」
どれだけの長い間、どれだけの時間、彼は『独り』でいたのだろうか?自分が潜り抜ける時間軸の数だけ…独りでいたのだろうか?
「あ、でも血は紅いんだぜっ!君と一緒だよ…同じ色、だよ…」
ムキになって言うから、口許に優しい笑みを零さずにはいられなかった。こんな風に。こんな風に、時折見せる子供染みた所が。
「どっちでもいい。お前なら、魔物でも人でも、どっちでもいい」
「―――君ならそう言ってくれると思った…俺は卑怯かな?」
包帯を巻き終えて、瀬戸口はそのままこつんと来須の肩に頭を乗せた。柔らかい髪と、そこから薫る微かな匂いが来須を満たしてゆく。そっと、満たしてゆく。
「君が優しいから際限がなくなって…どんどん我侭になって…優しい言葉を欲しがる」
髪を撫でてやれば無意識に、口許が微笑った。それは瀬戸口すら気付いていない、来須しか知らない彼の仕草だった。こうして触れてやると、無意識に嬉しそうな顔をするのは。
「構わんと言った」
髪を撫でていた手が、そっと頬に滑り。瀬戸口の滑らかな頬を包み込む。大きくて、そして。そしてひどく優しい手が。
「幾らでも甘えろ、と」
「…うん……」
ゆっくりと閉じられる睫毛。綺麗な顔、だった。本当に綺麗だと、来須は思った。哀しいくらいに、綺麗だと。
「…優しさに…やっぱり飢えていたのかな?…」
「飢えているな」
「…うん…俺…飢えているね……」
くすくすと微笑う、唇。閉じられていた瞼が開かれて、紫色の瞳が来須を見上げる。何処にもない、その瞳が。
「でも俺、君以外の優しさは…欲しいとは思わないんだ……」
腕が伸びて、そして首筋に絡まって。そして。そしてキスを、した。


舌が、絡み合う。唇が痺れるまで繰り返されるキス。
何度も何度も、唇が触れては離れ、そしてまた触れて。
それでも絡み合う、舌。求め合い解れ合う、舌。
何処でもいいから。何処でも、いいから。触れていたい。

―――君に、触れていたい……


「…瀬戸口……」
瀬戸口の体重が来須に掛かり、そのままその場にもつれ合いながら崩れる。来須の厚い胸板に身体を預けながら、瀬戸口は覆い被さるようにキスを繰り返す。
「…君を…上から見下ろすのって…なんか変……」
来須の上に跨りながら、瀬戸口はそのさらさらの髪を撫でた。撫でながら髪にキスをして、額にキスをして。頬に鼻に唇に、キスをして。
「…でも…この角度から見る君も…大事」
瀬戸口の手が来須の裸の胸に触れた。そこに手を重ねたまま、自分は舌を来須の身体に這わした。紅い舌が扇情的に来須の身体を辿る。その仕草はゾクリとする程に淫らに見えた。
「―――瀬戸口……」
「…んんっ…ん………」
そのまま下半身に辿りつくと、瀬戸口は微妙に形を変化させた来須自身に舌を這わした。ちろちろと紅い舌が、先端を丁寧に舐める。
「…ふぅっ…んんっ…んんん……」
尖らせた舌で先端を突つきながら、ソレを口に含んだ。生暖かい粘膜んが来須の分身を包み込む。淫らでそして熱い口中が。
「…ん…ふぅんっ…はふっ……」
ぴちゃぴちゃと濡れた音が室内を埋める。それが、その音が瀬戸口の身体をじわりと煽っていった。
「…んん…んっ!」
次第に大きくなるソレに瀬戸口は咽かえりそうになりながら、それでも奉仕を続けた。苦しげに顔が歪む。その顔すら来須には甘い快楽を誘うものでしかなかった。苦しげに眉を眺めながら、それでも必死に自分を含む唇。苦しげな表情で、それでも懸命に奉仕を続けるその顔が。その、全てが。
「…はぁっ…あ……」
ぴちゃりと音と共に唇が、離れた。先走りの雫と瀬戸口の唾液が一本の糸となって、ソレと唇を結ぶ。それをそのまま瀬戸口は自らの指で辿った。ぴちゃぴちゃと、音を立てながら指を舐める。それはどんなに淫らでそして綺麗なのだろうか。
「…くぅ…んっ!……」
瀬戸口は膝を立て腰を上げると、自らの指を最奥へと忍ばせた。そしてそのまま中をくちゅくちゅと掻き乱す。内側の粘膜と、濡れた指が擦れ合う音。そして瀬戸口の口から零れる苦痛とも快楽とも付かない声だけが、室内を埋めた。
「…くふぅっ…はっ…はぁっ……」
「瀬戸口」
来須の逞しい腕が瀬戸口の腰を支えるように抱いた。自らの指で感じる個所を攻め続けていた彼の膝はがくがくと揺れて、一人で支えるにはもう限界に来ていた。そして。
「…この格好でするのって…何か…やらしいよな……」
指が引き抜かれ、瀬戸口の手が来須自身を掴んで。そのまま入り口に、ソレを当てて。
「―――お前から求めているみたいだ」
「…求めてるよ…最初から…初めてセックスした時も…堪らなく君が欲しかった……」
「俺も堪らなくお前が欲しかった」
「…気が…合うね……」
「ああ、そうだな」
来須の笑みを見つめて。その雄の笑みを見つめて、瀬戸口は満足げに笑って。そしてそのまま腰を、落とした。
「――――ああああんっ!!」
ずぶずぶと瀬戸口の中に楔が入ってくる。腰を落とすたびに、引き裂かれてゆく身体。それが。それが堪らなく良かった。眩暈がするほど、気持ちがイイ。
「…あああっ…あああ……」
ぐちゃんと濡れた音と共に、瀬戸口の中に来須自身が全て埋め込まれる。その感触にぞくりと、身体が震える。震えて、そして。そして喉を仰け反らせて喘いだ。
「…瀬戸口……」
「…来須…いい…手は、いいから…俺が全部…するから……」
腰を支えようとする手を、瀬戸口は拒否をした。こんな時にまで、傷を怪我を労わっている。セックスを、来須を求める事は止められないからこそ。それだからこそ、身体を労わる事を止められなかった。
「…いいから…俺が…欲しいんだ…君を……」
そう言って瀬戸口は自ら腰を揺さぶった。がくがくと揺すって来須を求めた。抜き差しを繰り返すたびに自分の中の彼の存在が大きくなってくる。それが。それが何よりも自分を悦ばせた。
「…ああっ…ああっ…ああんっ……」
何度も腰を上下させながら、瀬戸口は自らの手で胸を弄った。痛い程に張り詰めた胸の果実を、乱暴に摘みながら、激しく腰を振る。その姿が。その姿が何よりも来須を……。
「…来須…来須…あぁぁ…あっ…ああっ……」
「――瀬戸口……」
手を、伸ばした。そしてその顔に触れる。快楽に喘ぎ、それでも必死に。必死に自分を求め、名を呼ぶお前に。お前の顔に、触れた。
ぽたりと零れ落ちる涙。目尻からぽろぽろと零れてくる快楽の涙。綺麗だった。どうしようもなく綺麗だった。哀しいほど綺麗なお前を、ずっと。
――――ずっと…見ていたい……
「…来須…くる…す…はあああっ!!」
がくんっと身体が揺れて、瀬戸口は来須の腹の上に白い液体を吐き出した。それと同時にその身体の中にも、白い欲望が…注がれる……。



「…腕…痛くない?……」
荒い息のまま、涙いっぱいの瞳のまま。お前はそれだけを。
「…痛くなかったか?……」
それだけを、必死に俺に告げる。それだけ、を。


「―――平気だ……」


繋がったまま、抱き寄せて。そしてキスをした。
上も下も、繋がって。繋がってひとつになって。


「…もっと…もっと……」
抱き合って、重なり合って、繋がり合って。
「…隙間なくなるくらいに……」
全部、繋がって。ぜんぶひとつになって。
「…もっと…いっぱい……」


どうして、別れて生まれて来たんだろう?
どうして別々に生まれて来たんだろう?
最初からひとつに生まれてきたら、こんなにも。
こんなにも淋しくなかったのに。

でも、肉体がひとつだったら、抱き合えない。
こうして互いの熱を、熱さを、確かめることが出来ない。


――――別れて生まれてきたから…分かる事が、見える事が、あるのだから……



「…君と…繋がって…いたい……」


END

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