―――全部、溶け合えてしまえたら…と。
混じり合ってぐちゃぐちゃになって。溶け合って、そして。
そして境目が全部なくなったならば。そうしたら。
…そうしたら、離れなくても…いい?……
ふと思った考えに、苦笑しそうになった。
やっぱり何処かで怯えているのだろう。その日が。
―――その日が、来る、ことに。
見下ろした顔は、ひどく綺麗で。見つめる瞳の蒼があまりにも深かったから、少し切なくなった。
「―――何時も俺を……」
指を伸ばして、頬に触れる。額に触れる、唇に触れる。指先で感じたかった、君の温度を。君の形を、感じたかったから。
「そんな風に見ていてくれたんだね」
見下ろして初めて気が付いた、事。深い、蒼。全てを包み込み、そして全てを見逃さないその瞳。些細な事ですら、君の蒼は俺を刻む。それが苦しいくらいに俺を、満たして。
「ずっと、見ていた」
「…うん……」
「お前に出逢った時から、ずっと見ていた。逃したくなくて」
少し包帯が取れ掛けていて、そこをもう一度結んだ。白い包帯に滲む血が痛くて。痛いと、思った。まるで自分が傷を受けているように。
「どんな一瞬も、逃したくなかった」
痛みを感じられることが嬉しいんだと言ったら…バカにされるだろうか?でも本当に『痛い』と思ったんだ。
「刻み付けて置きたかった、ここに」
そう言って胸を指で指して、微笑った。俺はどんな君も好きだけど、一番好きなのはと聴かれたら。聴かれたら迷わずその笑顔と言うだろう。この優しく、全てを包み込む笑顔だと。
この笑顔を、どれだけの人間が見ているのだろうか?普段は帽子に表情を隠している君の、この本当の笑顔を。
―――俺だけだったら…いいのにな…と、ふと思った……
「作り物じゃないお前を、本当の顔を」
「君の前では最初から…ずっと本当の顔だよ…作り笑いすら、出来なかった…」
「その顔が俺だけのものであればと思うと同時に、誰にでも出来ればよいと思った」
「矛盾、しているね。俺は君の笑顔は俺だけのものにしたいって思っているのに」
「―――ああ、そうだな。でも俺は…」
俺がいなくても、お前がしあわせであればと。
言葉にはしなかった。言葉にした瞬間、お前は。
お前はきっと泣くだろう。お前自身、気付いていない。
今お前が必死になって堪えているものを。
だから俺は、言わない。
―――言わない代わりに、こうして。こうしてお前を抱きしめることしか出来なくても。
しあわせになろうと、お前は言った。
ずっと一緒にいようと、お前は言った。
全ての記憶が互いの存在で埋められれば。
それ以外のものがなくなるほどに、思い出を。
思い出を積み重ねれば。淋しくないと。
「君と出逢えた事がしあわせだって…素直に言えるようになりたい」
「――今は言えないか?」
「…まだ…もうちょっと…でも…きっと言える……」
「だからそれまでは…そばにいてくれよ……」
泣かせたくないと思いながらも、泣いてもいいと思ったのは矛盾しているだろうか?どんな理由でもお前を哀しませたくはない。でも俺は。俺はそれ以上に、お前が必死で堪えているのを、見ているのが辛いから。
「―――君が好き、いっぱい言っているけど…言い足りない」
何度も俺に触れる指は、その指先に消えない記憶として刻み込んでいるから。どんなになっても消えない記憶として、指先にぬくもりを。指先に感触を。
「足りないから、言わせて。好きだよ」
「ああ」
髪を撫でてやった。それだけで口許がそっと綻ぶ。お前がこんなに子供のような仕草を知っているのは俺だけだ。俺だけがそれを知っている。俺しか、知らない。
それはどんなにしあわせで、どんなに切ないことだろうか?
「好きだよ、好き。だから―――」
言葉にする前に顔を引き寄せて、そのままキスをした。欲しがるだけキスを与える。何処か触れていなければ、何処か重なっていなければ、まだお前は不安になるから。
「ヤバ…また…」
「うん?」
「君とセックスしたくなった」
「ケモノだな、お前は」
「だって君のキス…気持ち良すぎる……」
見下ろしてくる紫の瞳が、ねだるように潤んだ。子供のような表情を見せたかと思えば、こんな淫らな顔も見せてくる。だから目が、離せない。離せる訳が、ない。
「――するか?」
耳元にそっと息を吹き掛けながら尋ねれば、ぴくりと睫毛が震えた。その仕草ですら、綺麗で淫らで。
「…うん…しよう……」
そのまま覆い被さるような口付けに、俺は全て答えてやった。
重なり合う身体。触れ合う肌。
零れる汗も、全部。全部掬い上げて。
身体から零れる体液を、全部。
全部拾い上げて。
絡まり合う、吐息、舌。
―――全てが一瞬の、永遠。
「…辿りつく場所が…何処になるかは分からないけど…でも今…君と繋がっているこの瞬間があるから、きっと…何処へ辿り着いても…後悔だけは、しない……」
未来も過去も、夢も希望も。
その全てが届かない場所で。
繋いだ指先を、触れ合っている指先を。
―――永遠に、閉じ込められたならば……
…なあ、来須…君が今まで見てきたものの中で…俺が一番になっている?
―――今更、聴くまでもない。
…そんならいい…ずっと一番でなんて言わない…今確かに君の言葉が本当なら…
―――お前にだけは嘘は付かない。
…うん、それが君が俺に一番初めに、くれたものだね……
―――…ああ…そうだな……
…一番…大事なものだよね……
眠るのが惜しくて、ずっと。ずっと言葉を繋いでいた。無口な君はほとんど俺の言葉を聴いているだけだったけれど。それでも俺は声が枯れるくらいに喋り続けた。そんな俺に呆れる事なく、君は言葉を聴いてくれる。俺の言葉を、聴いてくれる。
もっと、話そう。色んな事を話そう。
無駄な時間なんて一瞬もない。大切な時間だから。
どんな俺も全部、君に見せるから。
だから、見ていて。君が淋しくないように、俺は。
俺は全てを君だけに、見せるから。
――――だから…心の片隅でいい…ずっと俺を…置いていて……
何時の間にか聴こえてくる寝息に、来須は静かに微笑った。こんな優しい顔を見られるのは彼だけだと言う事を、何時か瀬戸口は気付くのだろうか?
「―――お前の髪の匂い……」
そっと髪に口付け、微かに薫る匂いにふとこみ上げる切なさが。そしてそれ以上の愛しさが。ただ全てをそっと。そっと静かに胸に宿って。
「肌の色、顔の形、髪の柔らかさ…全部…」
目を閉じても、触れていなくても、分かるほどに。感触が蘇るほどに、ぬくもりが灯るほどに。
「…俺は忘れない……」
辛さも苦しさも、今はもう何処にもない。ただひたすらに満たされた想いだけが、ゆっくりと来須の中に浸透する。後はただ願いは、祈りは、ひとつだけ。
――――お前がずっと…微笑っていられる事……
お前の笑顔が消えないように。ずっと微笑っていられるように。仮面など被らないように。もう二度と、泣きながら微笑わないように。誰にでも、その笑顔が出来るように。
「もう充分だ…俺にこんなにお前は全てを与えてくれた…だから…もう、いいんだ…」
俺以外の人間にも、誰にでもその表情を。お前が持っている本当の素顔を。
「…お前が…本当にしあわせになってくれれば……」
願い、祈り。ただひとつの想い。それだけを。それだけをただ。ただ、想っている。
来須はそっと瀬戸口に口付ける。これが、最期の口付けなのかもしれないとそう何処かで…思いながら……。
―――お前のしあわせだけを、願っている……
「―――良く辿り着いたね、ここまで」
微笑う、声。楽しそうに、そして無邪気に笑う、声。でも今は。今はそれが、何よりも。
「君はバカじゃないって事、か」
何よりも今はひどく威圧的に聴こえる。その場にいるだけで飲まれそうな圧倒的な存在感。これに気付けるだけでも、自分はまだマシだと言う事だろうか?普段は『凡庸』の中にわざと埋もれさせ、刺のない人物を演じていたのも、全て。
「―――速水……」
俺の言葉に天使の顔をした悪魔はふわりと、微笑った。ひどく、無邪気な笑顔で。
誰もいない司令室。そこに、お前は座っていた。
まるで俺を待っていたかのように。俺が来るのを分かっていたかのように。
そして。そして全てを見透かし、見下ろす瞳で、俺を見つめる。
「上手くやったつもりなのになぁ…なーんでバレたの?」
「―――お守りをお前はわざと壊した。そして盗聴器の存在を俺に分かるように仕向けた」
「むぅ、迫真の演技だと思ったのに…バレバレなんて、僕修行足りないのかな?」
「後は岩田と…善行…そして、ののみ…微妙に重なり合って、そしてずれている…」
「そうだよ。九割の真実と一割の嘘。それを適当に組み合わせて、皆に埋め込む…そうする事で100%の真実は誰にも分からないんだ。僕以外はね」
「お前は『真実』と言う事か?」
「違うよ、僕は『HERO』。作られし、救世主。運命という安っぽいシナリオライターが書いた、登場人物なんだよ」
「ただそれだけだよ」
「善行は、知らないと言った。壬生屋の記憶を封じ込めた本当の理由を。確かにそうだ。もしも瀬戸口を鬼にさせたくなければ彼女の記憶を戻させる事が一番手っ取り早い。瀬戸口が鬼からヒトになる為に青の一族の力が必要ならば…そうすればいいだけの事だ。なのにお前はそれをせずに、善行に封印をさせた」
「そうだよ。よく気付いたね、来須くん。流石に時間軸を越え続けるだけの事はあるね」
「―――岩田も、ののみを使ってまで瀬戸口に罠を仕掛けなくても良かったんだ。そんな事をしなくても事実を伝えれば瀬戸口は戦いざる負えない…それを岩田は知らなかったからこそ、ののみを使わざるおえなかった」
「いい読みだね。半分は正解。でも岩田くんの場合はちょっと違うよ。君にだから教えてあげるよ。彼は護っているんだよ。ただ独りののみと言う存在を。護っているからこそ、わざと危険な目に彼女をあわせるんだ…真実を悟られないために」
「―――真実?…準竜師にか?」
「ピンポーン。流石、話が分かっていいね。そうだよ、ののみを護る為に僕に仕えているなんてバレたらののみは間違えなく廃棄処分だよ。彼は残忍な道化にならなければいけない。それが彼が生き残る為にしなければならない事だ」
「…ののみを護る為に、か?…」
「そうだよ、全てはその為だけに。僕は、純愛は大好きだからね。だから黙ってあげてたの。ののみの価値は岩田くんが付けたモノだからね…あの価値は本当はやろうと思えば他の人間にも付けられるんだよ。でもそれを気付かれないためには、岩田くんにとってののみは特別な存在だと思われてはいけない…健気だよね彼も」
「―――そして俺は……」
「残念、それは違うよ。君と瀬戸口くんは僕の唯一の誤算。君達が惹かれあうなんて、計算に入れてなかった…違うな」
「―――君が瀬戸口くんを愛するとは思わなかったんだよ」
「君は人を愛せない。そう言う風に出来ている筈だ。遺伝子レベルから『愛』と言う感情を排除している筈だからね…でも君は瀬戸口くんを愛してしまった。やっぱり感情を完全に排除する事は不可能だって証明は出来たけれどね」
「…俺は実験体か?……」
「そうだよ、君も瀬戸口くんも、ののみも…僕も…結局全ての人類は運命の実験体でしかないんだよ。笑っちゃうよね、みーんなシナリオ通りだよ。だからちょっと嬉しかったんだ、君が瀬戸口くんを愛したことは…シナリオにない設定だったからね」
「それが『世界の選択』か。そんなものの為に俺達は振り回されるのか?」
「―――そうだよ…それが世界の選択…なんだよ…」
「君も僕もそれからは決して逃れられない」
決められていた事。初めからシナリオ通りに決められていた事。
それでも。それでもどうにもならないことが、どうにも出来ないことが。
「それでも君は瀬戸口くんを愛したんだ…それは本当の事、なんだよ…君の唯一の『真実』なんだよ…」
手のひらで踊らされる、運命。
初めから、決まっていたもの。
初めから決められていた、もの。
―――それでも抗わずには、いられないもの……
細かい雨が、降っている。遠くから近くから、聴こえてくる雨の音。さあさあと。さあさあと。
「雨、やまないね」
小さな窓から外を覗く、小さな身体。大きな目は真っ直ぐに外に零れる雫を見つめている。大きな瞳だから、きっと。きっと私が見えないものも、見つめることが出来るのでしょうね。
「止まないですね…晴れていたら貴方もこんな所に閉じこもっていないで、外に遊びに行けるのに」
「ひろちゃんがいるから、いいよ。何処でもいいのよ。ひろちゃんがいてくれればそれでいいの」
小さな手が伸びてきて私の頬に触れる。伝わるぬくもりが、ずっと。ずっと繋がっていればいい。過去も今も未来も、全部。全部このぬくもりだけが。
「いいの、なにもいらないの」
「私もいりませんよ。貴方がいてくれればそれでいい」
伝わっている、触れ合っている、確かに今ここにそれは在る。ここに、今この場所にあるものは本当だから。本物、だから。
「それだけでいいのです」
例え何があろうとも、今この場所で感じている事が、本当の事だから。
決められた運命。作らされた運命。
それでもこころで感じたことは。こうして感じたことは。
やっぱり、自分にとって本当の事で。
例え全てが作り物だとしても、こころは。
こころは、ただひとつの本当のものだから。
―――誰にもそれを、操ることなんて出来はしないのだから……
「君はどうしたいの?瀬戸口くんを戦わせたくはないの?それとも一緒にずっといたいの?」
細かい雨の音が耳に届いた。何時の間に雨が降り出していたのだろうか?それすらも気付かずに、目の前の綺麗で残酷な生き物を見ていた。優しく囁くその声を。恐怖とは紙一重のその声を、聴いていた。
「―――俺は……」
何の為にここに来たのか?何の為に真実を探り当てたのか?何をしたかったのか?何をして欲しいのか?そう考えても辿り着く答えはやはりただひとつしかない。ただ、ひとつだけ。それが叶えられれば後はどうなってもいい。どう、なろうとも。
「あいつが、しあわせならそれでいい」
永すぎる時の中で、永遠とも思える時の中で。ただひとつの思いだけを諦めきれずに、生き長らえてきたお前の。そんなお前のただひとつの願い。
―――しあわせになりたい。
俺がお前に与えてやれたもの。俺がお前から与えられたもの。それは全部確かにここにあって。このこころに、お前のこころにあって。どんなになろうとも、どんな事になろうとも、今ここに存在している事は事実なのだから。
「君がどうなっても…瀬戸口くんがしあわせなら、いいの?」
「構わない」
躊躇いなく言葉する事が出来た。躊躇いなど、戸惑いなどない。お前がしあわせであってくれれば、それだけでいい。俺はただ…お前が笑っていてくれればそれでいい。それだけで、いい。
「じゃあ死んで。君が死んだら、壬生屋さんの記憶を戻してあげる。そして瀬戸口くんを解放してあげるよ。戦わなくても鬼にならなくても、いい。しあわせにしてあげる」
「―――ああ」
その言葉に迷いなく俺は頷いた。そして懐に忍ばせていた銃をこめかみに当てる。それを引き抜けば終わりだ。
「…ってダメだよ、それを引き抜いちゃ。まだ続きがある」
「―――?」
「ただし君が今死ねば、瀬戸口くんの心の中に君の存在が残るよ。どうしてか、分かる?分かるよね、戦いが終わっていないからだよ。終わらずに君がその時代で死ねば、人々から記憶は消えないんだよ」
「…速水…お前は……」
―――そこまで分かっていて…この選択肢を俺に突き出すのか?
「死ねないよね…死ねるわけがない。今の瀬戸口くんが君を失ってそれでもしあわせになるのは不可能なんだよ…分かる?それがどう言う事か?」
「―――お前の言いたい事は、こうか?」
微笑い、そして全てを見透かす瞳。世界の全てを見透かしている瞳。この世界を決めるのはこの華奢とも思える身体を持つただひとりの少年。―――ただ一人の、魔王。
「幾ら瀬戸口の記憶から俺が消えたとしても…記憶がなくても、しあわせになんてなれはしない」
「うん、そうだよ。だって君はずっと瀬戸口くんの心から消えないんだから」
「記憶なんてなくても、存在すら憶えていなくても。それでも瀬戸口くんの心から、君という絶対的な想いが抜けることなんてない。抜けたら、空っぽだよ。それじゃあ君が瀬戸口くんに与えたものの意味なんて、何もないじゃないか」
「…違う……」
「それとも君はこう思っているの?例え記憶がなくなっても、瀬戸口くんの君が与えたものは消えない…だから今度は違う誰かとしあわせになれって…そう、思っているんでしょう?」
「―――」
「綺麗な自己犠牲だね。愛するものがしあわせならそれでいい。本当にそれでいいの?瀬戸口くんが君の知らない誰かとしあわせなっても、それでいいの?君が彼を変えたのに。君だけが彼を、本当に変えたのに」
「ああ、それでいい」
「イヤだね、僕だったら奪ってゆくのに。奪ってゆくよ、一緒に連れてゆく。それが本当の事じゃないか?そこまで愛したら…愛したら最期まで責任を取るのが、本当の事じゃないの?」
「―――それは、駄目だ」
「どうして?」
「連れて行っても、戦いが待っているだけだ。俺にはそれしかない。そうすればあいつを巻き込むだけだ」
「…それを瀬戸口くんが望んでも?」
「全てをあいつに捨てさせることは出来ない。未来も過去も全て…俺といると言う事はそう言う事だ」
「そんなの君の、自己満足だ」
「結局君は、瀬戸口くんの全てを受け止めていないんだ」
「本当に愛していたら、離れるなんて出来はしない。どんなものを捨て去っても、僕ならばそれ以上のものを相手に与える。なくしたものは全部。全部僕が相手に与える。全ての想いも人生も全部、全部僕が与える」
――――離れられはしない。どんなになろうとも、俺は……
「しあわせは、僕が与える」
――――どんなになろうとも、俺は……
「自己満足と言われてもいい。あいつに俺のような想いをさせたくはない。あいつにはもっと…もっと色んなものを、見てそして感じて欲しい」
「それが君の愛し方なの?」
「そうだ」
「―――本当にそれでいいの?瀬戸口くんは君よりもずっと…ずっと長い間生きてきたんだよ。君よりもずっと、色んなものを見てきているんだよ」
考えた事は、なかった。お前を連れてゆくと言う選択肢を。そんな事を、考えた事はなかった。いや、違う…考えるのを拒否していたんだ。
「見てきて絶望し、それでも諦めきれずに…やっと君を見つけたのに」
戦う以外何もない日々。感情をセーブしなければ自分を護れない。それが何時しか自らの感情を殺していった。必要以上に心を、動かさないようにと。そんな想いを、お前に強いる気はなかったから。でも。
「それでも連れてゆけないと、言うの?」
でもそれは。それはもしかしたら俺のエゴでしかないのかもしれない。
「………」
「いいよ、これが最期だ。最期だから、君に選ばせてあげる。どちらにしろ…君達の選択肢はこれしかないんだ」
「―――瀬戸口を連れて行くか、置いて行くかと言う事か?」
「うん、連れて行くなら瀬戸口くんは戦い続けるしかない…君と一緒に。ずっと未来も過去もなくして、それでも戦い続けるんだ。君と一緒にいる事と引き換えに」
「連れて行かなければ?」
「壬生屋さんの記憶を戻すよ。彼女に彼を本物の『ヒト』にして凡人になるんだ。戦う事も、止めさせる。これが一番の君の望みだろう?」
望み、ただひとつの願い。お前がしあわせであるようにと。それだけが、願いだった。それだけが望みだった。お前がしあわせであれば、と。
―――それが俺以外の誰の、手でも……
「ひとつだけ教えろ。何故初めから壬生屋の記憶を消した?初めから記憶を戻していれば、瀬戸口はここまで…追い詰められなかった」
「…竜にするつもりだったんだ…初めは……」
「―――」
「HEROを作り出すための絶対的な敵…竜をね。でも瀬戸口くんは竜にはなれなかった。君に出逢ったから。本当は全てその為だった。戦い続けなければ鬼になる…実に曖昧で危険な存在。だから消そうとした。シナリオでは消すつもりだった。鬼になるにも竜になるにも同じだろう?ヒトではないものなんだから」
「所詮HEROの為の、捨て駒と言う事か」
「でも君と出逢ってしまった…君を思う気持ちが、全てに絶望すると言う気持ちが消えてしまった。そうなったら竜にはなれない…全てを闇に染まらなければ完璧な竜にはなれない。だから誤算」
「シナリオ通りにはいかない」
「そうだよ。全部作り直さないといけない…大変だったよ。大変だったから最期くらいは、いい結末を書かせてね。だから」
「―――だから君は、どっちを選ぶの?」
聴こえてくるのは、細かい雨の音。細く零れる雨の、音。あの時の雨と一緒だなと思った。君が子猫を抱えて、そして俺が君を再び見つけ出した日。
「…目…醒めてたって気付いていないんだろうなぁ……」
起き上がった途端節々に身体の痛みが襲ってきた。あれだけ酷使したらこうなるのは仕方ないと思いながらも、瀬戸口は軽くため息を付いた。
そのまま来須のクローゼットから服を拝借する。自分が着るには袖も丈も余ってしまったが、そんな事も言ってられなかった。
「―――ってどうして君は……」
一人で背負おうとするのだろうか?一人で解決しようとするのだろうか?君はきっと全ての解決の為に、最期の相手に会おうとしている。
―――最期の、相手。君が出した相手と俺が導き出した相手が同じならば、答えは…。
「…分かってるよ…俺…護ってくれてんだよな……」
これ以上俺を傷つけたくないと思っているんだろう。これ以上俺に何かを背負わせたくないと思っているんだろう。これ以上俺を…壊したくないと思っているんだろう…。
「…でもさ、来須…俺も……」
君に対して同じ事を思っている。君を傷つけたくない、君に背負わせたくない。君を…壊したくはない…。って君は俺ほどヤワじゃないから壊れたりはしないだろうけれども。でも。
―――でも俺だって、君が思っている事を同じように…君に思ってるんだ……
「…俺も…君、護りたいんだよ……」
君が俺を護ってくれると同じだけ、俺も君を護りたいんだ。君の受ける傷を俺だって、分け合いたい。君が独りで戦おうとするのは分かる。俺だって君に何かが降りかかるならば、絶対にそうしただろう。でも。でも、今は。
「…同じだよ…分かれよ…そんくらい……」
今はそれすらも分け合いたい。君が思う事を、君が背負う事を。君が…受ける傷も…。全部全部分け合えたら、苦しみは哀しみは半分になるだろう?
君は、強い。俺なんか比べものにならないくらいに、強い。俺の傷を全て受け止めて、そして癒してくれた。ぼろぼろに壊れた俺を、その強さと優しさが癒してくれた。
――だったら。だったら君の傷を、俺が癒したいと思うのも…分かってくれるよな。
君はずっと俺に見せてくれたものは『強さ』だった。俺がぼろぼろになれば君が助けてくれた。君の手が、助けてくれた。そんな君が初めて俺に見せてくれた弱さ。それが。それが君のただ一度だけの、涙。
俺と出逢ってよかったと。俺と出逢えてしあわせだったと。そう言ってくれた、そう伝えたくれた想い。俺と出逢えて…よかった、と。
「…君が決着を着けようとするなら…俺だって着けたい…だってさ…俺……」
―――君がどうしようもないくらい、好きなんだ……
君が持っている本の少しの弱さを。決して見せることない心の痛みを。
全部全部、俺に見せてくれ。まだ見ていないものがあるなら、俺に見せて。
俺欲張りだから。俺、滅茶苦茶欲張りなんだ。
だから君の全てを見ないと、君の全部を見せてもらわないと俺は。
俺は満足できないんだ。満足できないのに、君とさよならなんて。
―――さよならなんて、出来るわけないだろう?
「来須、銀河」
初めてその名前を口にした時。
「くるす、ぎんが」
そっとこころが震えて。そして。
そしてこころがゆっくりと、満たされて。
「―――銀河とか名前で呼んだら…君…どんな顔するかな?」
呼びたいと思ったから。だからまだ。
まださよならなんて出来ない。ううん。
出来る筈なんて、ないのだから。
――――こんなにも。こんなにも君を…求め続ける限り……
ずっと回り道をしていた気がする。
本当は手を伸ばせばそこに。そこにあったのに。
一番欲しかったものはそこに、あったのに。
たくさん、たくさん、遠回りして。
そして辿り着いた場所。辿り着いた想い。
ああ、こんなにもそばにあったのに。
誰かを愛すれば気付く事。誰かを愛して初めて気付く事。
好きになって、愛して。好かれて、愛されて。そして。
そして辿り着いた答え。それは最もシンプルな答え。
―――好きだと言う、気持ち。
簡単だな。簡単だよ。それが何よりものことなんだ。
この気持ちが何よりもの、こと。
飾り立てた言葉も、綺麗な想いもいらない。
ただ好きだと言う気持ちが。それだけが。
それだけが、大切だから。
愛されたかった、愛したかった。それだけの、事。
会話は、聴こえていた。多分、聴かせるために、わざと。わざとこの場所を選んだんだろう。君の言葉を、俺に聴かせる為に。
―――どっちを、選ぶ?
飛び込もうとして、寸での所で俺は止めた。君の出す結論を、俺は。俺は聴きたかったから。速水は気付いているだろう、俺がここに辿り着いてふたりの会話を聴いていた事を。そして。
……そして君は…君は俺に…気付いて…いる?……
「来須君、次第だよ」
―――途中で…気が付いた。扉の後ろからの気配に。
「どうするの?」
―――お前がそこで聴いていた事を……
「…俺は……」
…気付いていた。だから、俺は。俺は……
「『お前』を、置いてゆく」
…しあわせに、なってくれ……
ただ一度だけの、永遠。ただ一度だけの、邂逅。
長さでもなく、時間でもなく。もっと違うものが。
もしもただ一度だけだとしても。もう二度となくても。
それでも消えないもの。それでも消せないものが。
―――永遠に胸の中に、宿っている。
「足手まといだ」
ずっと捜し続けていた運命の女。巡り合い恋するべき運命の相手。それをHEROと言う偶像を作り上げる為だけに、捻じ曲げられた。本来なら再会し、そしてもう一度出逢うべき相手と。
「戦う以上『お前』がいたら…俺は満足に戦えない」
出逢い、恋をし。そして鬼と言う魔物と言う呪縛から逃れ、人として。人間として生きること。当たり前のしあわせを手に入れること。
「だから、さよならだ」
愛する女と結ばれ、永遠とも思える時を捜し続けた女と結ばれること。しあわせになる、こと。それが今お前の目の前にあるのならば。
「さよならだ、瀬戸口」
振り返りは、しなかった。扉が開いてお前が俺の背中を凝視しているのが分かった。でも、振り返りはしなかった。お前のその紫色の瞳が、僅かでも俺の動揺を見破ったらそれで、終わりだ。それで、終わりだから。
「―――来須くん…君ってとことん…自己犠牲なんだね……」
その言葉に君は答えなかった。ただ無言で速水を見ていた。君が今どんな表情をしているのかは俺からは見ることが出来ない。出来なかったけれど。でも。
…でも…分かるような気が、した……
カツッと、音がした。時間が一瞬止まって、そして。そして君の足音で再び時間が動き出す。ゆっくりと君が振り返り、一瞬。一瞬だけ、目があった。それだけだった。
君は俺に掛けるべき言葉を持っていなかったし、俺も君に伝える言葉はなかった。今は何を言ったとしても、意味はないだろう。今この瞬間に互いに告げる言葉、は。
―――その瞳が全てを語っていたから……
君が俺の横を通り抜け、風のように去ってゆく。本当に言葉通り、君は『風』だった。一瞬現れて、そして世界を掻き乱す風。けれども何よりもやさしく包み込む風。君は本当に風、なんだね。
追い駆けはしなかった。俺はその場で、ずっと。ずっと、微笑って、いた。君が一番好きだと言ってくれた、俺の笑顔のまま。
「…こんな時に君はずっと、微笑っているんだね…瀬戸口くん…」
君の気配が遠ざかり、そして消えても。消えても俺は、微笑っていた。意識している訳でもなく、ごく自然に。自然に口許から零れた笑み。本当に、自然に。
「こんな時に、再確認させてくれたから」
ああ、馬鹿だな…俺。俺言いそびれちまった。一度くらい君を『銀河』って名前で呼んで見たかったけれど、言いそびれちまったな。
「こんなに俺は、あいつに想われてたんだって」
「そうだね、君はずっと微笑っていたんだ。来須くんが足手まといだと言っても、連れて行かないって言っても…君には彼がどんな表情でその言葉を言ったか…分かったんだね」
言いそびれちまったから。だから、もう一度。もう一度俺は、君に出逢わなければいけない。もう、一度。
「無表情だったろ?どんな時でもそうなんだ…でも瞳見れば、分かるから」
「僕には生憎帽子に隠れて来須くんの目は見られなかったんだ。だから知っているのは君だけだよ。彼が、どんな瞳でその言葉を告げたのか」
「ん、分かる…分かった…やっと俺…辿り着いた……」
もう一度君に、出逢わなければ。この辿り着いた場所が、無駄になってしまわないように。
「やっと、分かった。あいつを全部」
「―――『さよなら』でも?」
「でも、辿り着いた。一番行きたかった場所に、辿り着いた」
君のこころと、君の魂と。君の一番深い場所と。今間違えなくそこにいるのは、俺で。俺だけが、お前のそこにいるから。
「…俺…人間になれるのか?…『彼女』の記憶を戻すのか?」
「うん、来須くんが選んだ選択だ。君はそれを否定するの?彼が君の為に選んだ選択肢を」
「…いや…それは出来ない…」
「…あいつが俺に…与えてくれたものだから…でも……」
でもただひとつだけ。ただひとつ、だけ。
君は俺を誤解していた。ただひとつだけ気付かなかった。
俺にとって一番大切なのは君だと言う事を。
『彼女』の存在よりも、俺は。俺は君が大切だと言う事を。
―――君だけを…愛していると言う事を……
最期まで、気付かなかったね。
君と引き換えに俺が彼女を選ぶことはありえないんだよ。
こんなにも俺は君で満たされているのに。
溢れるくらい君の存在で埋められているのに。
もう他に誰も俺の中には入れないんだよ。君が。
君だけが、俺の中を全て埋めているから。
「ひとつだけ、俺の我侭を聴いてくれ…来須の記憶を消さないでくれ」
ずっと、好きだよ。ずっとずっと、君が好き。
君だけが、好き。何度もそう言っていたよな、俺。
ずっとずっとそれだけを言っていたのに。
君がそれを分かってくれないなら、俺は。
俺は分かってくれるまで。君が気付いてくれるまで。
―――待つしか、ねーから……
「彼を追い駆けずに、記憶を消さないの?…瀬戸口くんも酔狂だね」
「今の俺はあいつがいたから存在する。他のものでは俺は埋められない」
「かつて死ぬほど愛した女性でも?」
「彼女と来須は別人だ。同じにも代わりにもならない」
「誰一人『同じ』ものなんて、何処にもないんだ」
「―――もしも僕の考えが正しかったら君は……」
シナリオ。完璧なシナリオ。運命が書いた『HERO』のシナリオ。そこから零れ落ちた屑が。目にも止まらないような小さなかけらが。
「…君は…ヒトにはならないね……」
そのかけらが、輝く。小さなそれでも強い光で。自らを主張し、そして。そして叫んでいる。ただひとつの想いを込めて。ただひとつの、愛を込めて。
「それはある意味来須くんへの想いを裏切ることにならないのか?」
ただひとつの想いの為に、何もかもを捨てて。何もかもを。
「あいつの願いは、俺のしあわせだから。だから、俺はしあわせになる」
「…分かったよ…瀬戸口くん…君のしあわせがそこにあるならば…残しておいてあげるよ…君の記憶を…」
「…今更…シナリオから零れた屑を…どうしようとも誰も咎めはしないよ……」
しあわせに、なりたい。しあわせに、なりたい。
君と、しあわせになりたいんだ。他の誰でもなく。
君としあわせに、なりたい。それだけが。
―――それだけが、本当の事…だから……
そして君は、消えた。誰の記憶も残らずに、誰の心にも残らずに。この時代の誰も君を知らずに、そして。そして何処にも君の跡は残っていなかった。
―――俺のこころ、以外…何処にも……
「…瀬戸口…様……」
愛していた女。ずっと追い続けていた面影。けれども今はもう、それも。
「…貴方は…まさか……」
それも、優しい幻。そっと、静かに優しい思い出。
「――壬生屋…君は壬生屋未央だ。そして俺は瀬戸口隆之だ。それ以外のものにはなれない。そうだろう?」
「でも貴方は…その瞳は……」
愛しくないと言えば嘘になる。抱きしめたいと言う想いはまだ何処かに残っている。でもそれはずっと。ずっと捕らわれてきた幻影。俺が描き続けていた幻。本当に俺が手にしたものは、本当に手に入れたぬくもりは。
――――君だけ、だから…来須…君だけ、だから……
「いいんだ、俺は。俺はこの瞳が好きだから」
君が好きだと言ってくれた瞳。世界に何処にもないと言ってくれた瞳だから。だから、俺は。
「私なら貴方をヒトに戻せます。それすらも、拒むのですか?」
「駄目なんだ俺は。俺がヒトになったら意味がないんだ。これでいいんだ。だから君も、過去に縛られないでくれ」
「…貴方の言いたいことは…分かる気がします……私の心の何処かで、言っている声があるのです―――未来を見ろ、と」
「俺はずっと過去だけを見ていた。そうする事で逃げていた。だからもう…それを終わらせないければいけない。そうしなければ俺は未来永劫このままだ。だからここで。ここで君が俺を拒絶してくれ。でなれば俺は甘えてしまう」
「…貴方には…誰か…こころにいるのですか?…」
「―――ああ…だから…もう……」
「過去よりも、人になることよりも…もっと大事なものがあるのですね……」
このまま愛し合うことも出来るだろう。少なくとも情はある。想いはある。でも。でもそれではどうにもならないって事も分かったから。そう繰り返すだけでは意味が無いと言う事も。
「…分かる気が、します…私も…今好きな人がいます…だから、分かります」
幾ら記憶を戻しても。戻して、も。でもそれまで形成されていた『自我』があり、そして運命とは違う場所でまた。また誰かを愛するたびに。
「―――それは…善行か?…」
俺の言葉に彼女は否定も肯定もしなかった。けれども。けれども瞳が語っている、それが真実だと。あの時、分かった。あの時、気が付いた。君と速水との会話を聴いて全てのつじつまがあった。
―――壬生屋の記憶を封じたのが、善行だと言う事実が。
「だとしたら、余計俺に構うな。そうしなければあいつは…君を受け入れはしない…絶対に受け入れないぞ」
「…貴方はそれで…いいのですか?……」
愛していたよ、それは本当の事。君だけをずっと愛していたよ。でもそれよりも今、どうしようもなく愛している人が俺にはいるから。だから。
「いいんだよ、俺は。俺は君のしあわせを願っている。そして俺のしあわせは別の場所にある…それで、いいんだよ」
善行にももしかしたら辛い想いをさせていたのかもしれない。俺と彼女との板ばさみで、ずっと。ずっと悩んでいたのかもしれない。それでも、俺の理解者であろうとしてくれた。
「俺、善行にもいっぱい迷惑…掛けたから……」
他人のしあわせを想えるようになったのは、君を愛したから。君に愛されたから。だから、俺は。今こんなにも。
「だから、しあわせに。さよなら」
今こんなにも、満たされている。君が俺に与えてくれたものはこうやって俺の中で息づいている、から。
「…瀬戸口様…さようなら…私も貴方を愛していました……」
「愛なんて言葉、本命以外には使わない方がいいぜ」
「……はい…ありがとう…ございます……」
泣きながら、微笑う彼女の顔は。俺が記憶している中で、一番綺麗な笑顔だった。
しあわせに。すべてのひとが、しあわせに。
ただひとつの想いを必死に護って。そして。
そしてその想いが、護られますようにと。
―――今はただ。ただそれだけを…願っているから……
「たかちゃん、きえちゃったね」
もう彼は戻っては来ないだろう。私達の元へは、もう二度と。消された記憶。全てを消した世界。彼を消した世界。この腕の中の小さな命ですら『彼』を憶えてはいなのだから。
「さびしいね、ひろちゃん」
「そうですね」
抱きしめる小さな身体。貴方は永遠に子供のままだけど。けれどもずっと。ずっと私が果てるまで貴方を護り続けるから。どんなになろうとも、どんな事になろうとも。それが。それが、私がすべきこと。私がしたい事。
「でもひろちゃんが…ののみにはいるよね」
この腕の小さな命を、護ること。貴方の笑顔を、護ること。
「いますよ、ずっと。ずっと貴方のそばに。私はその為だけに生きている」
―――貴方を…ずっと…ずっと護る事……
しあわせになりたい。しあわせに、なりたい。
君としあわせになりたい。他の誰でもない、君と。
君と、しあわせに、なりたいから。
―――ただ独り、君だけと……
「―――さようなら、皆……」
―――彼の存在記録は。彼のデータは。シナリオから、そこで消えた。
EPROUGUE
あれからどれだけの時間軸を越えただろうか?どれだけ戦い続けただろうか?あまりにも時間を潜り抜けたせいで、感覚が麻痺している。それでも。それでも、消えないものがある。どんなになろうとも、決して色褪せる事のないもの。
「…瀬戸口……」
零れた名前の存在の近さに、苦笑せずにはいられなかった。どれだけの時間を超えて、お前のいた場所からは遥か遠くにいると言うのに。こうして零れてくる声はあまりにも近くに、ある。消えることなど決してないただひとつの名前。ただひとつの、想い。
あれからどれだけの時が経ったのだろうか?そう考えるのも、もう無駄でしかなかったが。そのくらい時間は流れている筈だ。現実の時間は。今ごろお前はもうこの世にはいないのかもしれない。ヒトとなりまっとうな人生を歩み、当たり前のように死んでいったのだろう。
―――でもお前は生きている。俺のこころに、生きている。
何時ものようにウォードレスを着込み、戦闘へと向かう。今日の場所は、森だった。深い、深い、森。深い…森?…
生い茂る木々と、視界すら奪う緑の葉。ただひたすらに深い森。この景色は、この森は。
「今日の仕事はこの森に棲む鬼を退治する事だってさ、童話みてーだな」
―――鬼?……
「新入り、聴いたか?鬼だってよ。んなモンこんな時代にいるってのがすげーよな」
「時代って…今は何年だ」
「ってオイオイ新入り何ボケてんだよ。今は西暦3000年だぜ」
―――あれから千年経っている…千年?……
「まあ気楽にやろうぜ…っておいっ!!待てよっ!!」
俺は駆け出した。まさかと言う思いと、そして。そして何故か確信めいた思いが、交差して。
何から、話せばいいのかな?あれからどうなったって事?どうしたって事?でもきっと。きっと君の顔を見たら全部。全部そんな事吹っ飛んじゃうんだろうね。きっと、君の顔を見たら。
―――やっと君に、逢えるね……
また千年だった。俺因縁めいているのかな?この数字には。でも違ったよ。全然違った。前の千年とは全然違っていたんだ。
だってさ、今度は。今度は本当にしあわせになる為に、待っていた時間だから。
待っていた。もう一度俺と君の時間軸が重なり合う瞬間まで。俺ずっと、待っていた。ヒトにならずに、鬼のままで。ってほとんど鬼に戻っちゃっているんだけどな。でもまだ完全になりきってないよ。君が。君がこの瞳を好きだって言ってくれたから。だから瞳、紫のままだよ。そのままなんだ。
あ、でも角生えちゃったな…みっともないから折ろうとしたけど、駄目だった。折ると死んじまうから、駄目だった。君に逢うまでは折れないよ。ごめんな、ちょっとやっぱりあの時の俺とは変わっちまった。
でも許してくれよ。この姿のまま生きるには鬼に戻る以外に方法はなかったんだ。だって別人の身体貰って俺だって君が分からなかったら、イヤだから。あ、でも爪も伸びきって、牙も生えて来ている。
九百年くらいはそれでも人間だったんだぜ。形はヒトのまま。殺戮の衝動も破壊の衝動もどっちも。どっちも、笑っちゃうくらい収まっていた。本当にこのままでずっといられるのかと思った。
でも九百年と半分が過ぎたくらいかな…やっぱり出てきちまった。俺の本性。俺の鬼としての血が反応しちまった。それからはひたすら苦痛の日々、かな?
―――殺さないように、破壊しないように耐えてきた…から……
殺人兵器にも、殺戮者にも…幻獣にもならなかった。自らの腕に食らいついて、絶えてたから。だから片っ方の手、もう使えなくなっちゃったけど。動かなくなったけど。でも、君は。君は俺を、抱きしめてくれるよね。牙があってもキス、してくれるよね。
牙も角も隠せなくなってから、ずっとここに引き篭もっていた。時々姿を現しては、わざと軍を煽った。殺しはしなかったけれど、そうすれば。そうすれば軍人を派遣してくれると思ったから。そうしたら君に…逢えると想ったから……。
君に、逢いたい。君の声が、聴きたい。
ただそれだけ。それだけがずっと。
ずっと俺を支えて、そして。俺を微笑わせる。
―――それだけが、俺を……
「…来須…今度こそは…君を……」
名前で呼びたいって言ったら、女の子みたいだって微笑うかな?
「―――瀬戸口っ!!」
どうして俺は、あの時お前を連れ去ってゆかなかったのだろうか?
微笑う、お前が。お前がそっと微笑う。それは一寸の狂いもなく。狂いもなく俺の瞼に焼き付いている残像と同じで。同じ、で。
「バーカ、遅いよ。俺こんなんなっちったよ」
片手が伸びた。もう一方の手はぷらりと下がったままで。動かない、のか?動かすことが、出来ないのか?
長い爪。口許からは牙が見えて、そして。そして明らかに異形の物だと分かる白い、角。それでも。それでもお前は。お前はただ独りの。俺にとって、ただ独りの。
「もうちょっと早く、見つけろよ」
微笑う。ずっと微笑っている。綺麗に、お前が微笑う。紫色の瞳。世界にただひとつしかない紫色の瞳。ずっと。ずっとずっと俺を捉え続けたその瞳。
「…瀬戸口……」
情けないほどに声が掠れた。それでも。それでも伸ばされた手を俺は必死に。必死に掴んで、そのまま。そのまま身体を、引き寄せた。
「…やっと、君に逢えた……」
ぎゅっと君に抱きついた。片手しか使えなかったけれど。でもこれでも君には伝わるよね。だって。だって抱きしめてくれる腕の力強さが全部。全部、物語っているから。
「…どうして…どうして…お前が……」
信じられないって顔してる。それでも俺に逢えて嬉しいって顔してる。やっとここまで君の事が分かるようになったんだよ、俺。やっと、ここまで辿り着いたんだよ。
「君が連れてってくれなかったから、だからまた逢えるまで待ってた」
「…待ってたって…ずっとか…お前記憶は…壬生屋は…どうして……」
「まだ分からないのかよ。俺は」
「―――俺は君が一番好きなんだよ」
「彼女よりも、大事なのは君。欲しいのは君。だから俺は他の誰かとしあわせにはなれないの。俺から君を取ったら空っぽなの。だから、こうして待っていた」
髪に触れる手が、微かに震えている。こんな事でしあわせを感じられるんだから。こんな些細な事ですら、俺は。俺は、君に対して。君にだけだよ、分かってくれるよね。
「…ずっと…待っていたのか…俺を……」
ゆっくりと腕の力が緩められて、そして。そして俺を見下ろす蒼い瞳。綺麗な、その瞳。大好きな瞳。駄目だな、俺。俺ずっと微笑っているつもりだけど…君の瞳を見たら、それも出来なくなってきている。
―――嬉しくて…君に逢えて…君の瞳に俺が映っているのが…嬉しくて……
「…待っていたよ…ずっと…だからキスして…ご褒美に……」
そっと手が頬に掛かり、俺の零れ落ちる涙を拭う。そして。そしてそのまま、キスしてくれた。牙のある俺の唇に。
―――愛している…こんなにも俺はお前を……
しあわせになってほしかった。
運命の相手と結ばれて、そして。
そしてしあわせになってくれればと。
そうすれば俺も報われると、それだけを。
それだけを思っていたのに。お前は。
お前はこんなになってまで。こんなになって、まで。
―――俺を…求めていて…くれた……
「…瀬戸口…瀬戸口……」
「…来須…苦しいよ……」
「…お前が…お前が…ずっと…夢にまで見ていた……」
「…苦しいよ、来須……」
「…お前だけを、ずっと……」
「…うん…俺も……」
「…俺もずっと、君だけを……」
これで信じてくれるよな。信じてくれるよな。
俺の想いが何処にあるか。俺のしあわせが何処にあるか。
俺が一番しあわせでいられる場所が何処なのか。
君が望む俺のしあわせは、ここに。ここにあるって事を。
「…キス…もっと…して……」
「…幾らでも…お前が望むだけ……」
「…いっぱい、いっぱい…して………」
「…もう…君と…離れていたくないよ……」
しあわせに。しあわせに。
ただ願った事はそれだけ。
互いのしあわせ。互いのしあわせ。
それだけを祈り、そして願う。
「…銀河……」
そっと呼んだら、君の瞳が驚愕に見開かれる。それだけで言ったかいがあったと思った。君のそんな顔を見られるなら言ってよかったな、って。
「一度名前で呼んでみたかったってびっくりした?」
子供のような無邪気な顔。俺しか知らなかったお前の顔。
「―――ああ……」
今も、俺だけが。俺だけが知っている、その顔。その、笑顔。
「俺も君のそんな顔見れて、うれしいよ」
子供のように微笑って。子供のような我侭を言って。
「嬉しいか?」
そしてお前が。お前が、嬉しそうに。
「嬉しい。凄く、嬉しい」
…嬉しそうに…笑って……
「―――嬉し…い………」
一面の銃声の音。無数の発砲される音。それが俺を、お前を貫き。そして。
そしてその笑顔と共に、血の花びらが一面に散らばった。
「見つけたぞっ!鬼だ」
「こっちだ、おい皆こっちだぜっ!!」
「っておい…ヤベーよ……」
「どうした?」
「ヤベーよ…ほら…一緒に……」
「…一緒に…あの新人も撃っちまった……」
しあわせになりたい。しあわせになりたい。
君と、ふたりで。ふたりで、しあわせになりたい。
「わあああああっ!!逃げろっヤベーってっ!!!!」
悲鳴のような叫びとともに遠ざかる足音。ああでも。でももうそんなものはどうでもいい。どうでもいいんだ、もう。もう。
「…血だらけ…君の綺麗な髪真っ赤だよ……」
もういいんだ。世界も現実ももういいんだ。だってやっと。やっと逢えたんだ。やっとふたりになれたんだ。やっと、君のそばに。君としあわせに。
「…お前も…真っ赤だ……」
誰にも邪魔なんてさせない。もう誰にも、邪魔させはしない。誰も俺達を引き裂かせはしない。
「…一緒、だね…俺達……」
「…ああ…やっと…一緒だな……」
―――『死』すらも、俺達を引き裂かせはしない……
「…銀…河……」
「―――ああ……」
抱きしめて、キスをして。息を全て奪うキスをして。
世界からも、全てからも奪うキスをして。何もかもを奪うキスをして。
愛する人の腕に抱かれ、世界から隔離されて。
そしてふたりだけで。ふたり、だけで。
「…今…俺…きっと世界で一番…しあわせだよ……」
――――しあわせ…だよ………
END