貴方が、しあわせでありますように。貴方がずっと、微笑っていられますように。
生まれてきて良かった、と。貴方に出逢えて良かった、と。
迷わず言えるから。迷わずその瞳を見つめて、告げられるから。
だからもう。もう平気。平気、です。
―――俺は何よりもしあわせ、です。
「今日だけで、いいのか?」
髪を撫でる指先。そっと触れる指先。憶えていよう、ずっと忘れないように。忘れないように、俺の全てで。
「いいんです。貴方が誰を想っているか…想い続けているか…分かるから」
消えてなくなっても。全てがなくってしまっても。今ここに、この瞬間に触れたぬくもりを。この包まれた時間を、ずっと。ずっと憶えていよう。
「だから今日だけでいいんです…『俺』を、見てください」
オリジナルではない『俺』を。俺の気持ちを、俺の形を、貴方だけに見てもらいたい。そして。そして貴方だけに…憶えていてほしいから……。
「オリジナルじゃない『俺』を…見てください……」
貴方だけが俺を、俺を憶えてくれればそれでいい。それだけで、いい。
夢は夢のままで。優しい夢のままで。
そっと。そっとそれだけで包まれたなら。
現実が例えどんなになろうとも、俺は。
俺はその優しい夢の中で永遠に。
…永遠に眠ることが…出来るから……
貴方が、好きです。ずっと、ずっと…貴方だけが…好き……
ふたりで街に出ました。まだ雪が積もったままの街に。真っ白い世界がふたりを包み込みました。零れる息は白くて、そして。そして世界も真っ白で。
雪の上にふたりの足跡だけが散らばってゆくのが、ひどく嬉しくて。嬉しかったんです。
どんな些細なことでも貴方とふたりで作れたことが、それが嬉しかったんです。
「…あ……」
雪まみれの道を歩きながら、すぐに気付きました。上手く歩けない俺に合わせて、歩調を落としてくれているという事に。俺の為に少しゆっくりと歩いてくれていると言う事に。
「―――どうした?」
見上げれば蒼い瞳が俺を見つめてくれます。曇りのない澄んだ瞳。雪が汚れを溶かしていった空よりももっと。もっと綺麗な瞳が、俺を見下ろして。
「一緒に歩いてくれてるんだなって…歩調俺に合わせてくれているから」
「…半分は俺のせいだ」
言われた言葉の意味が分かって俺は不覚にも耳まで真っ赤になりました。確かに…昨日の情事の名残が俺の歩みを遅らせているのは否定できないけれど。
「…あ、その…えっと……」
「そんな所は―――」
…同じだな…と、唇の動きがそう言いました。決して声には出さなかったけれど。決して言葉にはしなかったけれど。それでも俺には伝わって。伝わった、から。
「…手……」
「?」
「…繋いでも…いいですか?……」
何も答えずに、けれどもそっと。そっと優しく微笑んだ瞳に。その瞳を見つめながら俺は、貴方の動かない左手に指を絡めました。繋がっても、指先が絡まっても、感覚のないその手に。
「こっちでいいのか?」
動かない手は握り返すことが出来なくて。俺が勝手に指を絡めているだけでした。けれども今のふたりには…俺達にはそれが一番しっくり来るような気がたから。
「いいんです。冷たい手でも…体温の通わない手でも…繋がっていればきっと」
「…きっと…暖かくなる…から……」
繋がった指先。一方的に絡めた指先。
触れた指の冷たさが少しでも。少し、でも。
こうしてそっとぬくもりが伝わって。
伝わって、繋がったならば。
ねえ、今貴方は何を考えていますか?
こんな風に手を繋ぎながらふたりで街を歩いて。
歩いてそして。そして、まるで恋人同士のように。
買い物をして食事をして、そして。
そして目を合わせて、他愛のない会話をして。
そんなささやかな、けれども積み重なってゆく小さな。
小さな大切な時間を。俺にとって大切な時間を。
―――少しでも…貴方も…楽しんで…くれていますか?……
「―――どうした?」
見つめていれば、見つめ返してくれる瞳。
「貴方の顔、ちゃんと見たくて」
俺の歩調合わせて、歩いてくれる足。
「ちゃんと全部、瞳に焼き付けたくて」
ぬくもりを分け合えなくても、暖かい指先。
ちゃんと俺全部。全部、貴方を。
目を閉じても、耳を塞いでも。
全部分かるように。ちゃんと分かるように。
あ、微笑った。今の顔、一番好き。
一番、大好き。口許がそっと。
そっと柔らかく微笑みの形を作って。
そして瞳が何よりも優しくなる瞬間が。
今の貴方の顔が、ね。一番大好き。
――――大好き、ずっとね…ずっと…大好き……
手を伸ばせば星に届きそうだった。俺の動かない腕ではそれは叶わないけれど。お前が手を伸ばしたら本当に。本当に星に手が届くような気が、した。
「静かですね」
誰もいない夜の公園。静まり返ったその場所に、お前は子供のようにはしゃいでいた。本当に子供のような無邪気な笑顔。多分この顔を知っているのは…お前のその笑顔を知っているのは、俺だけだ。
「ここのベンチ」
お前の手がそっと俺を引いて、まだ雪の残るベンチに座らせた。この場所は…この場所はお前にとって傷しか残らない場所なのに。男達に襲われたこの場所に、俺を座らせて。そして微笑う。楽しそうに、微笑った。
「貴方部屋の窓が見えるんです」
隣に座ると、繋いでいない方の手でマンションの窓を指差した。確かに俺の部屋の窓が、ここからは見える。遠くだがちゃんと見えている。
「―――お前は……」
俺の窓を見ていたのか?その為にここにいたのか?その為だけに…あんな目に合いながらもお前は…。
「見ている時は、嬉しかったんです。あ、灯りが付いているなとか…部屋の中だから寒くはないよな、とか…今何をしているのかな?とか…色々考えて…貴方のこと考えている時は、嬉しいんです」
月明かりに照らされる横顔は、ひどく透けて見えた。元々色素の薄い陶器のような肌だったが、今は。今はまるで消えてしまいそうなほどに儚い。
「貴方の事を考えている時は…本当にそれだけで嬉しいんです」
どうしてこんなにもお前は。お前は無垢な笑顔を俺に向けるのだろうか?ただ純粋に、ただひとつの想いが痛い程に伝わってくる。伝わって、くる。
―――俺のそばにいられることが…嬉しいのだと……
「…あの、触れてもいいですか?……」
戸惑いながら伸ばされる手に、俺は無言で頷いた。その言葉を合図にお前の手が俺の胸にそっと触れる。細い指先だった。綺麗な指先だった。
「心臓の音が、します。貴方の命の音が…この音が…貴方をこうして……」
ゆっくりと胸に顔を埋めてくる。耳に心臓の音を感じようとして。俺はそんなお前の髪を。髪をそっと撫でてやった。
「…貴方をこの世に存在させる音…大事な音……」
ゆっくりと閉じられる睫毛がひどく儚い。蒼い月に淡く照らされるその顔が、ひどく切ない。―――お前は…せつない……
命の、音。貴方の、音。
貴方だけの、音。この音が。
この音が貴方をこの世に存在させる。
この音だけが、貴方をこの地上に。
大切な、音。命の、音。大切な大切な貴方の音。
護りたい。貴方を護りたい。
どんなになっても俺は。俺はずっと。
ずっと貴方を、護りたい。
『―――俺は…ずっと…お前のそばに…そして…お前を…護る……』
最期の言葉。最期の、言葉。
「…ずっと……」
オリジナルの遺言。貴方に告げたただひとつの。
「…ずっと…そばに…そして…」
ただひとつの、願い。ただひとつの、想い。
「…そして…『お前』を…護る……」
身体がなくなっても、魂だけになっても。
俺という物体が全てこの世から消えても。
俺はずっと。ずっとお前のそばを漂い、そして。
そしてお前を、護るから。
目には見えなくても。声は聴こえなくても。
「―――瀬戸口?……」
星が、綺麗だな。すげー綺麗。
「…お前を…俺が…今度は…ずっと……」
お前の瞳に映っている星が、すげー。
「…ずっと…お前が俺を…護ってくれたみたいに…」
すげー、綺麗。お前の瞳に映ってる星が。
「…今度は俺がそばにいて…ずっと……」
…綺麗だから、泣きたくなった…泣きたくなりました……
「…遺言、です……」
儚い笑みが。頬から零れ落ちる雫が。
「…瀬戸…口?……」
月に照らされ、そして零れ落ちる雫が。
「…これがオリジナルの…遺言です…俺の記憶から…オリジナルの記憶から……」
綺麗で、そして。そして何よりも切ない。
「…どんなになっても…俺はお前のそばにいる……」
そんな顔、しないでください。そんな顔を…しないでください。
お願いです、微笑ってください。微笑っていてください。
貴方の笑顔が、俺は。俺は見たいんです。ずっと。ずっと、貴方が。
貴方が微笑っていられるように。貴方がずっとしあわせでいられるように。
…願うから、祈るから、俺の全てで…だからお願い微笑ってください……
何もいりません。何も欲しくありません。
何も何も、いりません。だから。だからお願いです。
お願いです、このひとを。このひとをこれ以上。
これ以上傷つけないでください。これ以上このひとを。
俺はなにもいらない。俺はもう充分だ。
だからこいつを。こいつをしあわせに。
今までいっぱい苦しめてきたから。だから。
だから俺の全てをやるから…こいつを。
……微笑ませて…くれ………
記憶が、意識が、入り組んでくる。
俺の記憶とオリジナルの記憶がごちゃ混ぜになって。
そして。そして頭の中を交互に意識が。
『―――クローンはね…目的が達成されたら…後はその存在を消すだけだよ……』
目的…目的は貴方を微笑わせる事ではないの?
本当の目的は…ああ…そうか…そうだったんだ…
…俺の本当の目的は…作られた目的は…最期の言葉を…伝えること……
じゃあ俺は、消えるんだね。この世界から消えるんだね。
俺という存在は全部。全部、真っ白に。真っ白に、なるんだ。
「―――瀬戸口っ?!」
俺を呼ぶ声。どっちの俺を呼んでいるのかな?
どっちの『俺』を呼んでいるの?
…どっちでも…いい…どっちでもいい…貴方が俺を呼んでくれるのならば……
「…俺を……」
でも今は。今は『俺』なんです。オリジナルじゃない。俺の、こころなんです。クローンでもちゃんと。ちゃんとこころはあるんです。ちゃんとこころはあって、痛みも切なさも、喜びも哀しみも。全部、全部、感じるんです。
「…瀬戸口?……」
貴方が好き。貴方だけが好き。どんなになっても、どんなになろうとも。それだけが本当の事。それだけが、真実。今ここにあるもの。確かに今ここに、あるものはそれだけで。
―――それだけ…だから……
全てがオリジナルの為の身代わりでしかなくても。
幾らでも変わりの利く身体であっても。同じものを幾らでも。
幾らでも、作る事が出来ても。でも今。今ここに。
ここに貴方の目の前にいる俺は、他の誰でもない俺だけのものだから。
貴方を好きだという気持ちを持つのは、今ここにいる俺だけのもの。
―――この気持ちは…この想いは…俺だけの想い…なんです……
「…貴方を好きな俺を…少しでいい…憶えていてください…これから先また…またきっと同じようにクローンが作られてゆく…オリジナルと全く同じくローンが作られるでしょう…でも…でも今ここにいる俺は…俺のこころは……」
オリジナルでもない。クローンの埋めこまれた記憶でもない。
「…俺のこころは…今…ここにあるのは…誰のものでもないんです…他の誰のものでもないんです…クローンだって…クローンだって恋はするんです……」
「…瀬戸口…俺は……」
「…好きです…貴方が好き……」
「…俺…は……」
「…貴方だけが…好き…それだけが……」
「…それだけが…俺が…今持っているもの…全てです……」
何もないんです。クローンだから、からっぽなんです。
本当はそうでなければならないんです。でも、今。
今俺はこんなにも溢れている。貴方の想いで。貴方への想いで。
―――俺はこんなにも…満たされている……
「…少しでいい…俺を…貴方のこころに…置いていてください……」
何もいらない。何も望まない。何も欲しくない。
だからこのひとを。このひとをどうか…どうか…
…しあわせに…して…ください……
「―――瀬戸口っ?!!!」
遠くに声が、聴こえた。けれどももう。
もう俺は目を開けることも…言葉を紡ぐことも出来なくて…
…出来ないから…微笑った…貴方に微笑って欲しかった…から……
END