…降り積もる雪が、全てを埋めてくれたなら…よかった。
歩くたびに真っ白な雪の上に足跡が出来る。それがこの地上を穢しているような気が、した。もうここに止まる理由は何もないと言うのに、ここに居続ける自分のように思えて。
もう不必要な存在でありながらも、ここに留まり続けている自分のように思えて。
常に冷静であれと。常に状況を、戦況を、見つめ続けろと。スカウトのプロである以上、戦いのプロである以上、そこに妥協も感情も入ってはいけないと分かっている。
常に今までそうしてきたし、これからもそうであり続けなければならないと、思っていた。ずっとそうやって生きてきたのに。ずっとそうあり続けていたのに、今。今目の前に突き出された現実にいとも簡単に自分が崩される。剥き出しにされたこころに、崩される。
「――――」
左腕がずきんと一瞬痛んだ。もう動かなくなった腕。神経の麻痺した腕。辛うじて繋がってはいるが、神経が切断されていて動かすことは二度と叶わなかった。
スカウトとしてこれがどんなに致命的な事かは分かっている。二度と戦場の上に立てないであろう事も。
最新鋭の医学の技術と膨大な金を掛ければ修復は可能かもしれないが…がしかし一度でもミスを犯したスカウト如きに軍がそれだけの金をつぎ込むとは、流石の自分でも思わなかった。
それに。もう二度と戻れなくても良いと、思った。時間軸を渡り続け戦い続けてゆくよりも、この地で…彼が眠るこの地で、自分の命が尽き果てるのも……。
時間軸を渡らない自分に。
戦う事が出来なくなった自分に。
もう用はないのだろう。
それならば後はただ。
ただこの命が尽きるまで息をしていればいい。
―――それだけで、いい……
降り積もる雪は、ただひたすらに甘い痛みを伴ってお前の記憶を蘇らせるだけだった。
『…バカ……』
そう言いながらも俺の腕にすっぽりと収まり、背中に手を廻すお前が。子供のように胸に頬を摺り寄せてくる、お前が。
『お前は…体温が高いな』
『〜〜お前の腕の中にいるからだよっ!』
髪を、撫でてやった。頭上から降り注ぐ雪がその髪に溶ける前に、そっと。そっと指先で柔らかい髪を、撫でてやる。そうすればお前は猫のように俺に擦り寄ってくるから。
『あーでもやっぱここがいい。お前の腕の中が一番好き』
抱き付く腕の力が強くなって、その仕草に俺は口許が無意識に綻ぶのを抑えきれなかった。こんな子供のようなお前を知っているのは…俺だけだ。
『絶対にここは…誰にもやらない』
『―――ああ』
しっかりと抱きついてくるお前を受け止めながら、俺はその髪にそっと口付けた。ここはお前だけの場所だ、と…告げる変わりに……。
願いも、祈りも、ただ。
ただひたすらに。
―――ゆっくりと雪に埋もれて死んでゆくだけだ。
何故か雪を見ていると暖かい気持ちになりました。どうしてだか分からないけれど、俺は。俺は雪が嫌いではありませんでした。
―――さようなら…瀬戸口くん……
別れ際の速水の言葉を思い出して、ふと。ふと胸に何かが降りてきました。それが何なのかは、今の俺には分からなかったけれども。でも少しだけ、切なくなったのは事実です。
俺は速水に対して『感情』を持つことが出来ませんでした。元々クローンですからそんなものは必要のないものなのですが、それでも俺は何も持てませんでした。
俺を作り、俺を犯し、そして俺を解放した人間。俺が生まれてきてから唯一関わって来た人間。それなのに、何故か。何故か俺は、自分の感情に何も彼には見出せなかったのです。
ただ命じられた通りに身体を開き、欲望を受け入れさせられるだけ。あそこに居た日々はそれだけでした。それ以外の事はほとんど何も俺には与えられなかったのです。
―――ただ。ただ『あのひと』に対する事、以外には。
俺のオリジナルは他人に心を開かない人間だったようです。誰にでも笑顔を振り撒きながら、それでいて誰一人本当に心を許した人間はいなかったのだと。そんな人間だったそうです。
―――いいえ人間ですらなかったそうです。元は幻獣で、今も人になりきれていない中途半端な存在。それでも人側に身分を置いて、オペレーターとして戦場にいたそうです。
そんなオリジナルが唯一心を開いたのが『あのひと』だと、速水は言いました。あのひとだけに心を開いて、いたのだと。
…君が死んだのも…あのひとのせいだよ、とも。
どうして俺が死んだかは、結局最期まで教えられませんでした。ただオリジナルが残した最期の言葉だけは俺に…俺に速水は教えてくれました。その言葉だけが、俺をこの地上に存在させ、そして俺をこうして命あるものへと変えさせて。
ならば俺はその言葉通りにする以外に生きる意味はありません。存在意義がありません。俺の命はただ。ただひたすらに、その為だけに作られたものだから。
俺のオリジナルがただひとり心を開いた人。ただひとり、愛した人。ふとした時に俺は何時しか。何時しかそのひとの事を考えていました。まだ逢った事のない、存在すら知らないそのひとの事を。俺は気付けば…考えていました……。
もう一度空を見上げれば、細かい雪が俺に降ってきて。
そしてゆっくりと肩に降り積もって、そして。
そして、そっと。そっと俺へと降って来て。
―――このまま雪に埋もれてもいいな…と、思った……
自然と脚が動いているのが、分かって。自分が意識していないのに何故か。何故か脚が自然に動いていて。それが俺にとっ不思議な感覚で、けれども何処か。何処かひどく胸が切なくなって。
ふと、俺は思いました。この感覚が『オリジナル』の感情なのかと。俺に埋め込まれている感情なのかと。だとしたら俺自身の感情は…一体何処にあるのでしょうか?
…そう思ったら俺は…ふと、苦しくなりました……
降り積もる雪。瞬きするほどの時間の中で。
それでも手のひらにそっと残る想い出。
決して消えることのない大切なお前との。
お前との、時間。僅かな時の中で、それだけが。
それだけが、俺にとっての永遠になる。
――――お前だけが、俺の『永遠』に、なる。
細かい雪が降り積もり、視界を白くさせた。マンションまでの距離はもう僅かでしかなかったが、それでも普段より狭い視界のせいで遠くに感じられた。真っ白な雪が、廻りの景色を覆い隠してゆく。
動かない腕がまたちくりと、痛んだ。本当は神経が麻痺しているから、痛みなど感じないはずなのに。それなのに、痛いという感覚だけが何故か俺に伝わった。
『…君は必ずあのひとに恋をするよ…』
それが、オリジナルの感情だったのか。
それが、俺自身の感情だったのか。
今となっては分かりません。分かりません。
でも、それでも俺は。俺は確かに。
――――確かにその瞬間…貴方に恋をしました……
雪の中にひとつ、人影が浮かぶ。それを俺は。
俺は信じられない想いで…いや…信じる信じないではなく俺は…俺は…
…俺は…その人物をよく…知って、いる……。
「…瀬戸口……」
声に出してそんな筈はないと否定した。そんな事はありえない。だってお前は死んだ。お前は永遠に俺の手の届かない場所へと飛び去った。永遠に俺がいけない場所へと。綺麗な場所、へと。
でも。でも今俺の目の前に立っているのは…紛れもなくお前で…お前、で……。
「…どうしてお前が……」
近付いて、お前の目の前に立った。雪が全てを覆い尽くしてゆく。俺の視界も霞めてゆく。けれども。けれども目の前に映るお前だけは、俺にとって何よりも。
「…どうしてお前が…ここに?……」
その言葉にお前は。お前はそっと。そっと、微笑った。何よりも綺麗な顔で、微笑った。
「俺は…貴方に逢う為に…生まれてきました……」
大きな手が、そっと。そっと俺の髪に、掛かりました。
その手があまりにも優しくて、そして苦しかったから。
どうしようもない程の切なさが、込み上げて来て。込み上げて。
「―――瀬戸口…俺は……」
気付けば俺は、泣いていました。子供みたいにぽろぽろと涙を零して。俺はクローンなのに。何時でもどんな時でも『自分』よりも『相手』を優先させなければいけないのに。
それなのに、今。今俺は自分のこの想いでいっぱいで…涙を止める事が出来なくて……。
「…俺は……」
髪に触れていた手が、そっと。そっと俺の頬に掛かり、そして涙を拭ってくれました。それだけで。それだけで、俺は。俺はもう何も。何…も……。
「…これが…夢でもいい…お前が…夢でもいい…だから…瀬戸口……」
抱きしめ、られて。その腕に抱きしめられて、その瞬間に。その瞬間、俺は気が付きました。貴方のその腕が、片一方しか動いていない事に。
「…腕が…左腕が……」
「お前と一緒に、腕はなくした。でもいい…今はお前がいればそれで……」
耳に響く声。低く静かで、でも熱い思いが込められている声。その声に俺は。俺は瞼を震わすのを抑えきれなくて、そして。
「…それだけで、いい……」
その広い背中に腕を廻して、俺は我を忘れて貴方に抱き付きました。自分の使命とか、自分の存在異議とか、そんな事を忘れて。何もかもを忘れて、ただ。
―――ただ俺は貴方に抱きつきたかったから。貴方の広さをぬくもりを感じたかったから…
多分この瞬間に、俺は気が付いたのだと想います。
俺がこのひとを好きだと。どうしようもないくらいに好きだと気付いた瞬間に。
俺にとってこのひとは永遠に手に入れることが出来ないひとだと。
永遠に俺には手の届かないひとだと。俺にとって永遠に…近くて遠いひとだと。
それでも。それでも俺は。俺はただ。
―――ただ、貴方のそばにいたかったんです。
貴方を、見たかった。
貴方を見つめていたかった。
貴方が微笑うのを、見たかった。
貴方の笑顔が、見たかった。
見たかった、から。だから、俺は。
…オリジナルの代わりでも…良かったんです……
『来須、もしも俺が死んだら』
『――――』
『死んだら、さ。どうする?』
『そんな馬鹿な事を言うな』
『…ってバカな事じゃないだろ?戦争なんだ…俺が死ぬかもしれないし…お前が死ぬかも…しれないだろう?…』
『俺は死なない。お前を残しては絶対に』
『…すげー口説き文句…でも嬉しい…お前の言葉だから信じられるよ』
『ならば、聴くな。そんな事』
『でも聴きたかったんだよ、お前の口から…聴きたいんだ。なぁ言えよ』
『…お前の言いたい事は分かっている。俺に言わせたい事も分かっている』
『それでも、聴きたい。お前の口から』
『―――俺はお前が死んでも…死にはしない』
『そう言って欲しいんだろう?お前は』
『だったら約束な』
『…お前は……』
『約束だ。お前はずっと生きているんだ。俺だけを想って』
『我侭な奴だ』
『いいの。だって俺は生きている限りずっとお前だけを想い続けるから。お前以外俺…』
『…俺…愛せない…から……』
そんな約束を、そんな言葉を、言わなければ良かったと想う時がある。
それでもその言葉だけが、俺を。俺をこうして地上に止めるのならば。
お前の言葉だけが、この大地に俺を止めるのならば。
冷たくなったお前の身体を抱きしめながら…約束なんてしなければ、と。
END