…貴方が微笑ってくれれば…それだけで…よかった……
教えてください、どうしたら。どうしたら俺は貴方の笑顔を取り戻すことが出来るのですか?俺は何をしたら貴方に微笑って貰えるのですか?
俺のためじゃなくていいんです。俺に向けられる笑顔じゃなくていいんです。ただ。ただ貴方がしあわせそうに微笑ってくれたならば。どんなものに向けられるものでも構わないのです。だから、どうか。どうか微笑ってください。
―――俺は、貴方の笑顔が、見たいのです……
雪は降り続け、二人の身体をそっと隠してゆく。髪に肩に、頬に…降り積もる雪がふたりを世界から隔離してゆく。このまま。このままふたりで全てから隔離されたら、しあわせなのか?
「…瀬戸口……」
抱きついてくる身体を片手で抱きとめながら、その名を呼んだ。腕の中の身体は暖かくて、そして。そして感じるのは、ぬくもりだけで。お前のぬくもりだけで。
「…は…い……」
呼ばれて顔を上げたお前の瞳はまだ濡れていた。俺はその濡れたお前の瞳を、よく知っている。知って、いる。俺以外お前はその瞳を見せた事はなかった。どんなになろうとも、人前では口許だけで微笑い続けたお前。ずっとそうやって仮面を被って、自分の孤独と弱さを隠し続けたお前。俺の前だけで、やっと。やっとお前は自らの素顔を曝した。自分の弱さと孤独を…俺の前だけで。
「…お前は……」
身体を抱いていた手を離して、そのまま頬に触れた。零れる涙を拭いながら、一途に見上げるその紫色の瞳を見下ろした。お前の、瞳。今でも目を閉じれば一寸の狂いもなく浮かんでくる、その瞳。どんなになろうとも忘れる事のない…俺のただひとつの瞳。
「…『瀬戸口』じゃない……」
忘れる筈がない。見間違う筈がない。どんなになろうとも、俺は。俺はお前の瞳だけは忘れはしない。お前だけは、どんなになろうとも。だから分かる。今目の前にあるその紫色の瞳は。その、色彩は……
――――俺の知っている『瀬戸口』のものじゃない……
神様、俺を。俺をオリジナルにしてください。
「何が、目的だ?」
オリジナルと同じにしてください。全く同じに。
「何故俺の前に…現れた?…」
そうしたら。そうしたら貴方は、きっと。
「…俺は…貴方を……」
きっと、微笑ってくれるから。
「…貴方を…貴方の笑顔が…見たいから……」
違う、これは俺の希望…貴方への望み。違う、俺は。俺は貴方の笑顔を作る為にここへやって来たのであって…俺が…俺が貴方の笑顔が見たいからじゃなくて…貴方の…微笑って顔が…俺は…俺は……
…俺は…貴方の笑顔が…みたい……
「―――お前は、クローンか?」
ぬくもりも、頬に触れる感触も、何もかもがお前のまま。表情も仕草も、何もかもが同じで。全てがあの頃のお前のままで。ただ違うのが、その瞳の色合いだけ。そのお前の、紫色の瞳の色彩だけで。
「…そうです…俺はクローンです……」
それ以外何一つ変わってはいない。何も変わってはいない。けれども目の前のお前は…『お前』じゃ、ない。
「誰に作られた?…速水か?」
「はい。速水に言われてここまで来ました。貴方に逢いに」
同じ顔で、同じ声で。けれども『お前』じゃない。俺のただ独り本気で愛した…『お前』では、ない。どんなに同じ顔をしててもどんなに同じぬくもりでも…それでも目の前のお前は別のものだ。別の、ものだ。
「悪趣味だな…速水も…そんなにも俺が憎いのか?」
どんなに似せようともお前はこの世の何処にもいない。どんなに同じものを作っても、もうお前は何処にもいない。こうして偽者を作って俺に差し出して、そして。そして心の傷を抉るのが。抉るのが目的とでもいうのか?
「違いますっ!速水は…マスターはそんなつもりじゃ……」
それとも本当に、俺を慰めるために作ったのか?だとしたらそれはあまりにも残酷だ。お前の思いを抱えて、お前と同じ顔の別のお前に愛を語れとでも言うのか?
俺が愛したのはお前だけだ。目の前にいる…クーロンではない…生きて動いていたただ独りの、お前だ……。
お前が子供のように微笑うのを。
ガキのような我侭を言うのも。
少しだけ戸惑いながらも、それでも。
それでも、キスをねだるのも。
――――知っているのは…俺だけだ…『お前』の本当を知っているのは……
この世の何処にももうお前がいないのならば。俺のこころにしか、残る事がないのならば。俺のこころの中にしか『本当』のお前がいないのならば。
「クローンは人間には絶対服従だったな。ならば」
その想い出を、俺の中にいるお前をどんなになろうとも、俺は。俺はずっと。ずっと護り続けるから。お前の永遠の墓守に俺はなるから。
「ならば二度と、俺の前に現れるな」
本物のお前を俺が。俺がずっと。ずっとこころに抱いていなければ。お前はこの世の何処にも…本当に何処にもいなくなってしまう。
――――俺のこころで、生き続けない限り……
俺は出来損ないです。出来損ないのクローンです。
クローンは人間には絶対服従です。どんな事があっても逆らいません。
逆らうことが、出来ません。そう言う風に作られているからです。
だから俺は貴方の命令に逆らうことは出来ないのです。
それがクローンだから。クローンは人間には絶対服従だから。
…けれども、俺は…俺は……
貴方を、ずっと見ていたい。貴方を、見つめていたい。
貴方がどんな顔で微笑うのか。貴方がどんな風にひとを愛するのか。
貴方が普段どんな事を考えているのか。貴方がどんな風に生きているのか。
俺は見ていたい。ずっと貴方を、見ていたい。
例えどんなになろうとも。
例えどんなになっても。
…だって俺はまだ…まだ…貴方の名前すら…知らないんです……
「…お前に…罪はないのは…分かっている…それでも……」
お前と同じ顔で、お前と同じ表情で。
「…それでも…お前がそばにいたら…俺は……」
そんな哀しそうな顔を、しないでくれ。そんな顔を、しないでくれ。
「…俺は…俺のこころにいる『瀬戸口』が……」
お前だと錯覚して…抱きしめてしまうから。
「…俺では…オリジナルの代わりには…なれませんか?……」
身代わりにして、そして。そして抱けとでも言うのか?
そうしたら俺のこころが満たされると思ったのか?
そのために、お前が作られたのか?その為に速水はこれを作ったのか?
―――だとしたら、止めてくれ…俺が惨めになるだけだ……
「俺にとって『瀬戸口』はただ独りだ。誰も代わりにもなれない」
分かっていたことでした。貴方がそう言うであろう事は。
きっと何処かで分かっていました。貴方がそう言うひとであろう事も。
そしてその言葉に喜んでいる自分がいる事が。
これがきっと。きっとオリジナルのこころなのでしょう。
自分だけを永遠に思ってくれる貴方への…オリジナルの想い。
けれどもその反対の場所で、こころが引き裂かれるように…痛いんです……。
「お前は何も悪くはない…けれどもこれは俺自身の問題だ…すまない」
「………」
「俺にはあいつだけなんだ…分かってくれ」
「…それでも俺は……」
「…俺は…貴方が好きです……」
「錯覚しているだけだ。いや違う、そう仕込まれているだけだ。早く速水にその『想い』を消してもらえ」
「違います、これは…この想いは俺のものです」
「そんな事を言うな。そうでなければ俺は…お前すらも傷つけてしまう…身代わりにしてしまう…」
「構いません。それで…それで貴方が微笑ってくれるなら、俺…俺はそれで構いません」
「―――駄目だ…お前が『瀬戸口』である以上…俺はお前にそんな真似は出来ない」
「だからもう二度と、現れないでくれ」
それだけを残して雪の中に消えてゆく貴方を俺はずっと。ずっと見ていました。消えて見えなくなるまで。見えなくなっても、ずっと。ずっとその後姿を追いかけていました。
「…名前…聴けなかった……」
完全に貴方の姿が見えなくなって、初めて呟いた言葉から白い息が零れました。けれども俺は寒いとは、思いませんでした。雪は降り続け止むことはなく、地上は真っ白に染まりゆく中で。俺は。
「…貴方の名前…呼びたい……」
俺はゆっくりと歩き始めました。貴方の足跡を追って。雪に埋もれる前に残っている貴方の足跡を追って、そして。そして貴方のマンションの前に、立って。
そのまま貴方の部屋の窓を見上げました。それは地図など見ずにも、無意識にした俺の行為。オリジナルの記憶…なのでしょう。
クローンはひとには逆らえません。人間の命令は絶対です。
まして、貴方は。貴方は俺が生まれてきた理由。
そんな貴方の。貴方の言葉ですら、俺は逆らって。逆らってまでも。
―――俺は貴方のそばに…いたいんです……
「…ごめんなさい……」
貴方の窓が見える公園のベンチに座って、そのまま見上げました。部屋の明かりが漏れているのが分かって、少しほっとしました。
少なくとも貴方はこんな寒い想いを…していないという事に。
「…命令を破って…ごめんなさい……」
二度と現れるなと、言いました。貴方に拒絶されました。でも俺は。俺は…貴方に受け入れてもらえなくても。貴方にとって…ただの迷惑な存在でしかなくても。でも。
「…でも…俺は……」
でも俺は。俺は貴方のそばに、いたいんです。
それがどんなに自分勝手な我侭であっても。
貴方の傷をもっと抉ることにしかならなくても。
それでも今の貴方は、あまりにも。
あまりにも切なくて、そして苦しいから。
だからどんな事でもいい。
身代わりでも構わない。
何をされてもいい。何をされても、いい。
―――貴方に俺は微笑って欲しいんです。
降り積もる雪の寒さに耐えるように、俺は自らの身体を丸めて。そしてずっと。ずっと消えない灯りを見つめました。貴方の部屋の窓を、ずっと見つめていました。
『―――瀬戸口っ!』
抱きしめればその身体は冷え切っている。それでもお前は俺の腕の中で微笑った。子供のように、微笑った。
『…馬鹿…何時から…こんなに身体、冷え切って…お前は…』
『それはお前が悪い。もっと早く帰ってこないから』
そう言って微笑って、俺に。俺にキスをねだる。唇を寄せてくるお前に、俺は全てを答えてやった。冷たい唇が切なくて、何度も何度もキスをしてぬくもりを与えてやる。
『…遅くなる…と、言っただろう…部屋で待っていればいいものを…』
『―――独りであの部屋にいるのは…イヤなんだ……』
『…瀬戸口……』
『お前のいないあの部屋は…人の住む空間じゃない…だからイヤだ…お前のいない部屋は…いやだ……』
強く抱きついてくる身体を力の限り抱きしめた。お前の不安は分かっている。そしてその不安を俺が完全に取り除くことが出来ないことも。それでも。それでも、俺は。
『…何処にも行かない…お前を置いて…何処にも…』
それでも言葉を告げる。それが本当の事ではないと俺もお前も分かっている。分かっていても、告げずにはいられない言葉。俺の本心。
『…絶対だな…絶対…何処にも…行くなよ…お前のいない世界なんて…俺はいらない…』
『ああ、いかない。だから安心しろ』
『…ずっとお前のそばにいるから……』
どんなになろうとも、ずっと。ずっとお前のそばにいる。
俺のこころに永遠に。永遠に、お前を。ずっと、俺のこころに。
――――どんなになろうとも…俺の中にお前が…いるから………
END