ふたりにしか聴こえない、甘いメロディー。
誰にも気付かないけれど、俺達だけには分かる。
―――俺達だけが、聴いている、蕩けるほどの甘い音。
穏やかな日差しがカーテンの隙間から差し込んで来きて、瀬戸口は閉じていた瞼をそっと開けた。瞼の上を通り過ぎる光に、そっと。
「…ん……」
まだ眠たい目を擦りながら、それでも瀬戸口は一生懸命に起き上がる。ふと、隣のベッドに視線を移すと予想通りその主はいなかった。
「―――相変わらず、朝早いな…俺のがジジイなのに…君のが爺むさい……」
もぞっとベッドから抜け出て瀬戸口は、もう一方のベッドの上にぺたんと頬を重ねた。そこからはまだ少し温もりが残っていて、それがひどく瀬戸口には嬉しかった。
「…君のぬくもり…なんて、な……」
こんな瞬間に、感じることの出来るしあわせが瀬戸口には嬉しい。平凡なことを、ごく当たり前の幸せを諦めていた自分にとって。そんな自分にとって与えられたもの。
ごく普通の、しあわせ。ごく当たり前の、しあわせ。好きな人と一緒にいること。好きな人といられる事。死がふたりを別つまで、ずっと。ずっと一緒にいられる事。
それがやっと。やっと自分の元に手に入れられた。こうして長い時を得て、やっと。やっと瀬戸口の手に入ってきた。
「…へへ、俺って…しあわせだな……」
だからこんな風に一人でバカみたいに呟いても、許して欲しい。
全てが終わって、戦いが終わって平和がやってきた。人類が勝って、何もかもが終わったのだ。その瞬間永遠の別れを覚悟したのに、終わりを覚悟したのに…それはふたりには訪れなかった。戦いの功労に願いを叶えてやると言われ、そして。そしてふたりが願ったこと。
―――― 一緒にいたい、と。
叶わないと諦めていたものが。願っても手の届かないと思っていたものが。今こうしてふたりの元へと与えられた。バカみたいに欲しかったもの。本当に欲しかったもの。それは。それはふたりとも同じものだったから。そう『平凡なしあわせ』それだけが、欲しかった。
「何をしている?」
背後から掛かる声に、瀬戸口は首だけで振り返った。そこには自分の一番大好きな顔が、ある。金色のさらさらの髪と、蒼い瞳と。そして無表情なその顔、が。
「しあわせ噛み締めてるの」
ジョギングを終えて戻ってきたのだろう。うっすらと身体が汗ばんでいる。戦いは終わったのに、自由を許されたのに、未だに来須は身体を鍛えることを止めない。ここまで来るとそれが趣味のような気もしてくる。でもそんな所も全部、瀬戸口は好きだったから。
「だからもっと、確かめる」
ベッドから上半身を起こすと瀬戸口は来須の前に手を差し出した。その手にひとつ微笑いながらため息を付くと、来須はひょいっとその身体を引き上げた。見かけよりもずっと細い肢体が、来須の腕の中へとすっぽりと納まる。
「…汗の匂い、する…君の匂いだ…」
微かに薫るその匂いが何よりも瀬戸口は好きだった。こんな至近距離でなければ分からないもの。それが何よりも好きだった。自分しか分からないこの薫りが。自分だけが独りいじめしているこの薫りが。
「へへ、これ全部俺のモン」
嬉しそうに擦り寄ってくる瀬戸口の髪を、来須はそっと撫でてやった。そうすれば益々喜んで頬を胸に押し付けてくる。まるで猫のようだと来須は思った。本当に猫のようだと。
「―――暑くないか?」
「君は暑いの?」
「…いや…シャワーも浴びてなかったから……」
「そんなんいいんだよ。俺がいいんだからいいの」
訳の分からないことを言って瀬戸口は益々自分にぎゅっと抱きついた。本当にこんな所がどうしようもないほどに、愛しいんだと…来須は思わずにはいられなかった。
街の郊外にふたりはマンションを借りた。交通には少々不便な所だったが、空気も景色もよく、何よりも雑音がないのがいい。静かで穏やかな場所だった。
元々来須はどこかへ頻繁に出かけるという事はなかったし、瀬戸口もそれを望みはしなかった。来須と出逢う前はそれこそ繁華街の常連だった瀬戸口だが、彼といるようになってからぴたりとそれは止まった。
本音を言うなら何処にも行きたくないのだ。別に何処かへ出かけなくても、そこに来須がいることが何よりも大切になっていたから。だからもうそんなことは必要なくなっていたのだ。刹那の快楽を求めることも、偽りの快楽に身を浸すことも。もう何も必要ないのだ。
こうして隣に彼がいてくれることが。こうして一緒にいられる事が。それが何よりもの望みで、何よりもの願いだったから。だからもう、何も必要ないのだから。
それに瀬戸口にしてみれば、この何よりもカッコイイ男を、出来るだけ誰の目にも触れさせずに自分だけのものにしたいと言うささやかな願いも含まれていた。
「はい、来須」
朝食を済ませた後、瀬戸口は来須に車のキーを差し出した。交通の便の悪いこの場所では車は必須だった。ふたりとも免許は持っているが、瀬戸口が車を運転することは滅多にない。来須が十八歳になった時点で、自ら運転するのを放棄した。そして何時も彼の運転する助手席に座って、その運転する横顔に見惚れるという事が瀬戸口の密かな楽しみになっていた。
「たまにはお前が運転しないのか?」
答えは分かっているけれど、来須は聴いてみた。別に瀬戸口に運転を望んで聴いた訳ではない。来須にしてみれば自分が運転している方が安全だという事はイヤと言うほどに分かっている。この目の前の恋人は車を運転すると、とにかくスピードを出すのだ。いわゆるスピード狂という奴で…来須は何時もそれに悩まされていたのだから。
「運転して欲しいの?でも俺は隣で君の顔見ている方が…道路見ているよりも好きなんだけど」
キーを来須に渡すと、瀬戸口はまた抱きついてきた。下手すると一日中引っ付いてくるのだ、この男は。今までずっと独りだったせいか、それを埋めるかのようにこうやって。こうやって何度も肌のぬくもりを求めてくる。
「いや、いい。ただ聴いてみただけだ」
そんな彼の我が侭を来須は決して拒みはしない。他人と触れ合うことをあえて避けてきた自分でも。それでも今。今こうして自分に寄り添う細い身体を、愛しく思わずにはいられなかったから。そう、愛しかった。何よりも、愛しかった。
そんな瀬戸口の髪をひとつ撫でてやって、そして。そして来須は想いに答える変わりにひとつ唇にキスを、した。それだけで、瀬戸口の顔が綻ぶのは…分かっていたから。
来須が車を運転している最中、ずっと瀬戸口はその横顔を見つめていた。飽きないか?と一度だけ聴いてきた来須に、全然と首を振って否定すると、またその横顔を見つめた。そ手に大きな白いくまのぬいぐるみを、抱かえながら。
前にふたりでデパートに行った時に、何故か瀬戸口がひとめぼれしたぬいぐるみだった。
木の椅子にちょこんと座って売られていたこのぬいぐるみを、妙に瀬戸口は欲しがった。理由は分からないがとにかく欲しがったのだ。
そんな瀬戸口の態度に来須は苦笑を浮かべながら、そのぬいぐるみを買ってやった。瀬戸口の身長の半分くらいはある大きなぬいぐるみを。大の男がそれを欲しがるのはどうかと思うのだが、それ以上に喜ぶ瀬戸口の顔を見ているのは来須は嬉しかったので、迷わずに購入してやった。それ以来ぬいぐるみはこの車の中の住人と化している。瀬戸口は何時もそれを自分たちが乗らない時は助手席に座らせていた。
「本当にそれを気に入っているのだな」
そしてこうして自分たちが車に乗っている時は、必ず瀬戸口はそれを腕に抱いている。まるで抱き枕を抱くような感覚なのだろうか?
「可愛いだろ?こいつ。それに」
「それに?」
「俺の場所を護ってる大事な相棒だからな」
「―――場所?」
「そう、君の助手席」
「…なんだ、それは……」
ため息混じりに言って来る来須に瀬戸口は何処までも嬉しそうに答える。大事な相棒にひとつキスをしながら。
「だって俺専用だから。ここは…絶対に他の奴には乗せない」
相変わらずの我が侭を来須に告げる。何よりも来須を喜ばせる子供染みた、我が侭を。
信号が赤になって、車が一時停止するたびに。
そのたびに瀬戸口は来須を振り向かせ、キスをねだる。
誰かに見られたらどうするんだと言う問い掛けも。
瀬戸口は全部その唇で閉じ込めた。本当は分かっている。
来須にとっても他人の視線などどうでもいいのだ。ただ。
ただ建前的に聴いただけで、他人など来須には意識外のものだったから。
だからその唇に、全て答えた。掠めるような甘いキスを、全部。
流石にこんな人のいっぱいいる所で手を繋ぐ事は拒否したが、それでも瀬戸口は来須の隣に寄り添うように立っている。その姿は街の人々の目を惹いた。
ただでさえイイ男が二人並んでいれば当然なのだけど、それ以上に二人の作り出す独特の雰囲気が人の目を惹くのだ。
言葉で説明するのはひどく難しいけれど、それでも目を奪われずにはいられないもの。見ているだけでその近くにいるだけで何だかひどく心が暖かくなれるもの。多分それは。それはふたりから滲み出ている『しあわせ』と言う思いなのだろう。ただ見ているだけでふわりと心が暖かくなれるような、そんな感覚。
「今日は何食べたい?」
買い物カゴを持つのは当然来須の役目だった。そのカゴの中に瀬戸口は適当に食品を入れてゆく。無造作とも思える動作だったが、頭ではちゃんとメニューを考えているらしい。
そうは見えずに、いい加減に見えてしまうのが瀬戸口たる所以なのだが。
「何でもいい。お前が作るものなら」
瀬戸口の質問に何時も来須は同じ返答をする。分かっていても聴いた。聴きたかった、分かっていても。そんな些細なやり取りの積み重ねが、今まで二人が持っていなかったもので…そして一番必要なものだったから。
日常の何気ない会話。意味もなく零れてゆく会話こそが、今の二人には一番意味あることだったから。
「じゃあ、今日は……」
ぶつぶつ言いながらも考え込む瀬戸口の横顔を見ながら来須は微笑った。朝ご飯は起きられないと言う理由で自分が作っているが、それ以外は全て瀬戸口が作っている。食べる事に余り関心のなかった彼だが、こうして二人で暮らして一緒に食べるという事を覚えてからは、ひどく食に関心を持つようになった。もっぱら作るほうに、たが。
それからというもの瀬戸口は妙に料理に懲り出した。色んな本を買ってきては新たなメニューにチャレンジする。そんな瀬戸口の実験台に来須は顔色ひとつ変えずに受け入れていた。来須には…分かっていたから。
瀬戸口がここまで料理に拘るのは食べてくれる人がいるからだ。自分が作った料理を食べてそして『美味しい』と言ってくれる人間がいるからだ。だから瀬戸口はそのためだけに料理を作り続ける。自分の作ったものに評価と反応がもらえるのが…彼にとって経験のないもので、そしてそれが自分にとってどんなに嬉しいことか気付いたから。
「ん?何?」
余りにも瀬戸口の横顔に視線を送っていたせいか、品物を物色していた彼が振り返る。自分を見上げてくる紫色の瞳は無防備で、そこには何の警戒心もない。今こうしてふたりになってやっと。やっと瀬戸口はこの瞳を普段からするようになった。やっとこの瞳を、自然に出来るようになった。
「―――いや…お前に……」
見惚れていたと、口に出そうとして止めた。けれども瀬戸口には伝わっただろう。今、来須が言いたかった事は。
街をぶらぶらしても良かったのだが、それよりもとっとと帰って家で落ち着くほうが今の二人には必要だったので、買い物を済ませて家へと戻ってきた。両手に荷物を抱えた来須の変わりに瀬戸口は鍵を開けると、そのまま室内へと入ってゆく。
出かけていたのせいで締め切った窓を開けて、外の涼やかな風を室内に入れた。冬に差しかかった空気はつんっと冷たかったけれど、それでも新鮮な匂いは肌に心地よかった。
その間にも来須は黙々と買ってきた物を冷蔵庫にしまっている。瀬戸口は作ることは好きだったが、片付けとか洗い物とかは嫌いだった。分かりやすく言えば作った時点で全てが完了して、その後のことが興味なくなってしまうタイプなのだ。だから何時も片付けや洗い物は全て来須がしていた。現時点でも帰ってきた途端脱ぎ捨てたコートが床に散らばっている。こう言った細かいことに関心がないのだ、瀬戸口は。
「…全くお前は……」
収納を終えてキッチンから戻ってきた来須は脱ぎ散らかした衣服を見ながらため息を付く。分かってはいたことだが、相変わらず予想通りでがっかりせずにはいられなかった。
「いいじゃん、後で片付けるから」
そう言って瀬戸口が片付けた事など皆無だった。流石に一緒にいて来須はいやというほどにそれを分かっているから、もう小言を言うのは止めた。自分が片付ければすむことなのだから。
「…本当だぞ…ちゃんと片付けるつもりだった…」
ぷいっと口元をとがらせながら瀬戸口は拗ねる。それだけで来須は…完敗だった。不貞腐れたように言ってくる瀬戸口はひどく子供染みていて、それで何よりも可愛いのだ。惚れた弱みと言う言葉をこの瞬間ほど来須は自覚することはなかった。
「分かった」
軽いため息とともに来須の長い指が延びてきて、瀬戸口の顎を捕らえる。そしてそのまま自分の視線と同じ高さに合わせて、その瞳に自らを重ねる。
「…来須……」
ひとつ名前を呼んで、瀬戸口はそっと瞼を閉じた。そして、その瞬間を待つ。しばらくして来須の唇が瀬戸口に降って来た。
「…んっ……」
柔らかい、口づけ。瀬戸口の全てを溶かすように甘く優しく。そう何時もこの口付けが、自分を溶かしてくれていた。凍っていたこころを、唇が触れるたびに、そっと。そっと溶かして、そして。そして暖めてくれたから。
「…来須…大好き……」
唇を離して最初に洩れた、瀬戸口の言葉だった。甘い吐息とともに零れる、想い。何時も溢れそうなほどに想っている事。大好きだって。ずっと、大好きだって。
「ああ」
その返事に満足したように瀬戸口は微笑うと、そのままゆっくりと厚い来須の胸板に顔を埋めた。広くて厚い胸。自分だけの、居場所。瀬戸口がずっと望んで、探し続けていたもの。永遠とも想える時間の中でずっと探し続けていたもの。それが今。今ここに、ある。
――――こんなにもそばに、それがある。
擦り寄ってくる瀬戸口を、来須は優しく抱き締めてやった。そしてそのまま栗色の柔らかい髪を、撫でてやる。
「俺もだ、瀬戸口」
そっと耳元で来須は囁いた。短い中にも確かな想いを込めて。大事な想いを、込めて。息が掛かるほどの距離で。
けれども瀬戸口はその触れた息がくすぐったくって、腕の中で笑い出してしまう。
「くすぐったいか?」
更に来須は耳元で囁き続ける。瀬戸口は耐えきれずに首を竦めた。そんな子供っぽい動作が、来須には愛しかった。こんな風に子供のような仕草を見せる彼が。
「くすぐったい」
甘える声で瀬戸口は言うと、来須は耳元から唇を離してその頬に滑らせる。その唇は、穂戸口の肌を楽しむかのように、頬から鼻筋そして瞼へと滑ってゆく。
「…くすぐったいよ…来須……」
そう言いながらも瀬戸口は抵抗することはなかった。来須の背中に手を廻して、その唇の感触を楽しんだ。
「―――止めて欲しいのか?」
顎に唇が触れた時、来須は一端瀬戸口から離れてそう聴いてきた。そんな来須に瀬戸口は小さな声で。―――意地悪…だ…、と言った。
飽きることなく、繰り返し。繰り返し、唇を重ね。
何度も何度も互いの舌を、口内を貪り。指を絡めあって。
唇が痺れるまでキスをする。唇が痺れても、キスをする。
聴こえてくるのは甘いメロディー。ふたりにしか聴こえない甘い、音。
「…来…須…はぁっ……」
誰にも聴こえなくていいんだ。俺達が…俺達だけが分かっていれば。
「―――瀬戸口……」
俺達だけが、分かっていればそれでいいんだ。
「…大好き…君が…誰よりも…」
「…ずっと…一緒にいよう…な……」
諦めていた事だった。願ってはいけない事だった。
でも今。今それはこうして。こうしてふたりの手の中に。
ふたりの手の中に確かに存在しているものだから。
欲しかったものは、本当にささやかなもので。
本当に平凡なものだった。本当に当たり前のものだった。
そんな当たり前のものだけがどうしても俺達は。
俺達は手に入れる事が出来なくて、それを諦めて。
諦めて心を誤魔化して生きてゆく事しか、出来なかったから。
でもそれは、今。今こうしてふたりの手の中に、ふたりの中に、ある。
「ああ、ずっと」
「ずっとだぞ、死ぬまで…ううん死んでも離れねーから」
「離れるな」
「…離れないよ…やっと…やっと手に入れたんだから…だから…」
「…しあわせになろうな…ふたりで……」
END