地上に降る雨は、ずっと紅い色だと思っていた。
降り続ける雨が。ただ降り続ける雨が。
冷たい雨がふたりを濡らす。芯まで濡らしてゆく。
煙った景色はぼんやりとして、見えなくなって。
廻りが全て、見えなくなったなら。
――――俺達の存在もこの地上全てから、隠してくれるだろうか?
幻獣の血が、人の血が、交じり合って。交じり合って、地上に注がれるんだろうと。だから真っ赤な雨が降るんだろうと、そう思っていた。そう、思っていたのに。
「雨が紅いと思ったのは、俺の瞳が血で濁ってたからだったんだな」
絡めたのは金色の髪。綺麗な金色の髪。全ての世界が紅い色に見えても、この髪の色だけは嫌になるくらいに鮮やかに俺の瞳に焼きついているんだろう。
「―――今は、何色に見える?」
そしてこうして俺を見下ろす冷たいアイスブルーの瞳も。鮮明に俺の脳裏に残されるのだろう。消える事無く、永遠に。消されることなく、ずっと。
「グレー、かな?ううん…景色が全部色が見えない」
俺にとっての色がお前だけになる瞬間。色のない景色の中で、お前だけが鮮やかに浮かび上がる瞬間。このまま。このまま、で。このままで、いたい。
「灰色の雨だ、ざあざあと降っている」
お前の髪に掛かる水滴が。お前の頬に落ちる雫が。全て灰色に見える。ぽたりと零れる透明なはずの水が、曇った色に見える。
「濡れているね、いっぱい…お前濡れている」
「お前もだ、瀬戸口」
大きな手が俺の頬を包み込む。その瞬間になって初めて気がついた。自分の頬がひどく濡れていた事に。お前がびしょ濡れだというのに、自分自身に関しては無関心だった。冷たいとか濡れているとかそういったものが全て。全て感覚として麻痺していた。いや、そういったもの全てに関心がなくなっていた。
「こうして抱いていても、冷たい」
「―――寒い?来須」
俺の問いにお前は答えなかった。ただ瞳を合わせるだけで。合わせるだけで何も言わずに。何も告げずに触れるだけのキスをくれた。冷たさも寒さも感じないのに、お前の唇の暖かさだけは感じた。嫌になるくらいに、感じた。
「でも、もう俺達行く場所ないから。ごめんな、来須」
「お前を抱いているから、寒くない」
お前の言葉に俺は心から微笑った。お前の言葉は矛盾している。けれども、それでも。それでも、俺を抱きしめ。冷たい俺を抱きしめたお前が暖かいと言うならば。
――――俺はそれだけで、嬉しかった……
溶けてゆく。雨に溶かされてゆく。
この灰色の雨は、地上にあるもの全てを。
全てを溶かしてゆく雨。最期の、雨。
下された審判が、最期の運命の選択が。
今ここにいる地上の『生』を全て。
全て抹殺し、消し去る事だったから。
さよならと、云ったのに。お前にさよならと、云ったのに。お前はここにいる。
一つの場所に留まる事を、許されないお前。
時間軸を渡り、違う場所へと旅立つお前。
最期の審判が下されたこの世界にもう。もう。
お前がいる意味は何処にもないのに。
スカウトとしてここにいる意味は、どこにもないのに。
でもお前はここにいる。この世界とともに。
俺を抱きしめるために、ここに。ここにいる。
馬鹿だな、俺は独りには慣れている。ずっと独りだったから。
繰り返し再生される魂の中で、ずっと。ずっと独りで。
そうやって生きてきたんだから。そうやって死んできたんだから。
だからこうやってこの地にとともに死ぬのは何でもない事なのに。
何でもない事、なのに。なのにお前は。お前はこうして。
――――こうして俺の、そばにいてくれる。
泣いて全てが伝わるならば幾らでも俺は泣くのに。みっともなく声を上げて、お前の為に泣くのに。今までずっと枯れていた涙全てをお前にやるのに。
「ごめんな、来須。ごめんな」
「何故、謝る?」
剥き出しになった俺のこころを。全部、お前だけにやるのに。女みたいに泣きじゃくって好きだって叫んで。気が狂うほど、叫んで。
「こんな場所で、俺はお前を死なせてしまう。俺の我が侭で」
でもこれ以上お前を苦しめたくないから。だから微笑おう。だから、微笑う。お前の最期に映る俺の顔が、微笑んでいられるように。
「――――ごめんな」
それでも口から零れる言葉は、謝罪しかなかった。愛していると告げるには、あまりにも。あまりにも今の俺では、苦し過ぎるから。
濡れた髪、指を絡める。冷たさは麻痺して伝わらないけれど。
「瀬戸口、お前が言った言葉だ」
けれども指先に馴染むこの髪の感触だけは、はっきりと。
「…え?……」
はっきりと指先に感覚を与える。指先に、与えてくれる。
「生きて離れ離れになって、ずっと思い続けるより」
それが嬉しい。それが苦しい。それが哀しい。それが切ない。
「一緒に死ぬ方が、しあわせだと」
どうして。どうして、こんなにも。こんなにも―――
しあわせなんていらなかったけれど。そんなものなんて、いらなかったけれど。
俺自身のしあわせなんてもういらなかった。どうでもよかった。
でも俺は。俺はお前のしあわせを奪いたくはなかった。もしも。
もしも俺と出逢わなければお前はもっと。もっと違う道を選び。
もっと違う場所で、他の誰かとしあわせになれたのかもしれないのに。
それでも俺を選んでくれたお前の気持ちを嬉しいと思う。嬉しいと思ってしまう浅ましい自分がいる。
どうしても、離したくないと。
「ごめんな、来須」
この手を、離したくないんだと。
「…お前を好きになって……」
お前自身を犠牲にしてまでも、俺は。
「…好きになって…ごめんな……」
お前を求めるこころを、止められない。
「何故謝る?お前を選んだのは俺だ。俺自身が決めた事だ。そして俺は…お前に出逢って生まれて初めて、自分自身の命に感謝したのに」
好き、だ。ああ、好きだ。どうしてこんなにも。こんなにも、お前を。
「お前と出逢えたから、分かった。戦う以外の生きる意味を」
好きで、好きで、好きで。どうにもならない。どうにもできない。
「だからこれでいい。戦いで死ぬよりも、お前の為に死にたい」
好きが溢れて、零れて。広がって、落ちてゆく。そして俺を満たしてゆく。
「―――来須…ありがとう……」
雨が降る。ふたりを濡らす。芯まで濡らして、そして肉体を何時しか溶かしてゆくだろう。そして俺の涙も。涙も、全て溶かしてくれるだろう。
END