睫毛の先に零れた雪を、その大きな手がそっと。そっと払い除けてくれた。大きくてそしてかさかさの手。細かな傷がたくさんあって、何処か不器用な手。でもそれが。それが俺にとって何よりも、大切なものだから。
「目、閉じてると子供みたいだな」
指先のぬくもりを感じたくて睫毛を降ろしたら、君の声が頭上から降ってきた。優しい声だと、思う。何よりも優しい声だと、思う。それはこうして目を閉じて、全てを遮断して初めて気が付いた事。君の無表情の中に零れてくる、何よりも優しい声に。
「む、何だよそれ」
少しだけ拗ねながら言ってから目を開いた。睫毛にはまだ指の感触が、ぬくもりが残っている。その心地よさに、本当はもう少し浸っていたかったけれど。けれどもそれ以上に君の顔を見たいと、思ったから。
「言葉通りだ」
見上げて、見つめて。そして改めて想う事。馬鹿みたいだけど何時も、想う事。それはただひとつ。ただ、ひとつ。
――――ああ俺は…こんなにも君のことが、好きなんだ……
細かな雪がふわりと、地上に落ちてくる。それが二人の肩に、髪に降ってくる。言葉を紡げば白い息が零れて、それが重なり合うように空気に溶けていった。
「手、寒いよな」
瞼に触れてくれた君の指先は暖かったけれど、それでも俺はあえてそう言った。そして自らがしていた手袋を片方外すと、君の手に被せる。俺の手袋は君の手には少しきつかったけれど、れでもはめることは出来たから。
「お前の手が冷える。俺は、いい」
そう言っても俺は手袋を外させなかった。付けていないほうの手を取ると、そのまま指を絡めた。互いに手袋をしていないほうの手、を。
「この方が、暖かいだろ?」
手を繋いで、そっと身体を摺り寄せた。誰かに見られたらどうようとか、誰かに見つかったらどうするんだとか。そう言うことはもう思考になくて、ただ。ただ俺は君の手に指を絡めたいという自らの欲望に、従った。今したかった事が、それ以外に思い付かなくて。
「―――ああ…そうだな……」
そんな俺に君は視線を降ろすと、そっと。そっと盗むように口付けを、くれた。雪すらも溶かしてしまうほどの甘いキスを。
雪が降る街の中を、ふたりで手を繋いで歩いた。
誰かに見られようと、誰かに見つかろうとも構わなかった。
誰に何を言われても、よかった。
俺は君のことが好き。君も俺を好きでいてくれる。
その想いがある限り、もう。もう他人の視線など。
――――ふたりにとっては、どうでもいいものだったから。
「なあ、もうちょっと暗くなってからがよかったな」
電飾で飾られた木が並ぶ道を歩きながら言えば、君はひとつ口許をそっと綻ばせた。見るからにクリスマス仕様で飾られた木々の道を、俺たちと同じようなカップルが歩いてゆく。カップルなんて互いしか見えていないのだから他人に視線が行く訳はないのに、それでも俺達は見られてた。別に、気にすることではないのだけど。
ヤロー同士が手を繋いで歩いているのが興味あるのか、それとも俺達自身が目を惹いているのか…それはもうどっちでもよくて。どうでも、よかったから。
「こんな作り物のモノでも…綺麗だって思えるのも悪くないよな」
「ああ」
「なあ、来須。しあわせ、か?」
上目遣いに君を見て、そして帽子の下の瞳を見つめれば。その空よりも蒼い瞳を見つめれば。君は誰よりも綺麗に、そして優しく微笑う。この笑顔を独りいじめ出来ることが。この笑顔が自分だけのものだと言うことが、俺にとっての何よりものしあわせ。
あふれるほどの、しあわせ。こぼれるほどの、しあわせ。絶対に誰にも渡さない。
君がいる日常が。俺の日常に君がいることが。
それが何時しか空気のように自然になったなら。
ごく当たり前のようになったなら。そうしたら。
そうしたら、俺。俺何もいらないよ。何もいらない。
本当に俺は、君がそばにいてくれればそれだけでいいんだ。
なあ、来須…俺知らなかったんだ。
本当に馬鹿みたいだけど、知らなかったんだ。
こんな風に、ただ穏やかに流れてゆく時間を。
君に出逢うまでは、君を好きになるまでは知らなかった。
俺ずっと独りだったから。それが当たり前だと思っていたから。
護られる事が、分からなかった。護ることは知っていても。
無条件に何の取引もなしにこうやって。こうやって護られる事が。
俺は本当に、知らなかったんだよ。
君に出逢うまでは、本当に俺は知らなかったことだらけだ。
可笑しいね。俺君よりもずっと。ずっと長い時を過ごしてきたのに。
ずっと君よりも色んな事を知って、色んな事を見てきたのに。こんな。
こんな当たり前のことを、何一つ知らなかったなんて。
ごく普通のしあわせと言うものを、俺は本当に知らなかったんだ。
何もいらないよ。もう何も欲しくない。だから。
だからこうしていてくれ。ずっと、こうしていて。
ただこうしてずっと俺のそばにいてくれたら。
何も俺、いらないから。君以外、何もいらないから。
「ケーキ、買って帰る?」
繋いだ手から伝わるぬくもりが。触れ合った指先から感じる暖かさが。何よりも大切。何よりも大事。俺よりも、大事。
「お前が食べたいのなら」
「チキンも、買って帰る?後シャンパンも」
俺の言葉に君はただそっと。そっと微笑うだけ。でもそれで、俺には。俺には全部伝わるから。君の気持ちも、君の想いも、全部。全部、伝わるから。
「って当然今日は俺…泊まっていってもいいんだよな……」
最後の言葉は語尾が少しだけ小さくなった。別に今更だけど、ちょっとだけ照れがあって。
「聴くまでもない。いやむしろ」
「来須?」
繋がっていた手が不意に離される。それに不安になったのは一瞬で、次の瞬間にはその手が俺の頬を包み込んでいた。信号待ちの交差点。たくさんの人ごみ。それでも君はそんなものを気にすることなく、俺の頬に手を置いて。そして。
「…永久に…泊まってゆくか?」
そしてそっと耳元に囁かれた言葉に、俺は。俺は睫毛を震わせた。
「…ずっと俺のそばにいるか?……」
睫毛の先から零れる雪が、そっと俺から零れる雪が、きっと。きっと俺の瞳から零れ落ちたものを、隠してくれるだろう。他人の目には。けれども。けれども、君には。
「…いる…ずっと…君のそばに……」
君には隠しきれないね。だってほら。ほらその大きな手が、優しい指先がそっと。そっと俺の涙を拭ってくれた、から。
「…ずっとそばに…置いてくれ…何処にも…行かないで…くれ……」
「ああ。連れてゆく。お前を何処までも」
信号が青に変わり、人々が歩き出しても俺達はその場に立ち止まったままだった。立ち止まったまま互いを見つめて。真っ直ぐに、見つめて。そして。
そして涙でぐしゃぐゃな顔で、俺は微笑った。
「ずっと俺が」
指先が舌が、拭うのは俺の涙。熱い、涙。
「俺がお前を護る」
後ろから酔っ払いの冷やかしの声が遠くから聴こえる。でももうどうでもいい。
「…来須……」
もうどうでもいいんだ。君が。君がいるから。
「―――それが俺の、お前への想いの証、だ」
君がいるから、世界すらもどうでもいい。
俺の弱さも、俺の孤独も。俺の全部を、認めてくれた。
俺の全てを受け入れてくれた。俺の全部を君が。君だけが。
こんな俺を必要だと、君だけが言ってくれた。
「へへ、プロポーズみたいだな」
「ああ」
「…って真顔で言うなよ…恥ずかしい、だろ?…」
「そのつもりだったが」
「〜〜ってもう君はっ……」
「嫌か?」
「…そんな訳…ないだろ…俺の夢は永久就職だ。それも……」
「…それも君、専用の……」
END