声を上げて叫びたい衝動に駆られる。
そこに何も残らなくても。そこに何も無くても。
―――ただ無性に叫びたくなるんだ。
目を、抉ってくれ。最期に見たお前の笑顔だけで、埋められるように。
耳を、切り落としてくれ。最期に聴いたお前の声だけで、包まれるように。
喉を、潰してくれ。最期に呼んだお前の名前だけで、壊れられるように。
狂いたい。狂ってしまいたい、そうしたらもう何も考えなくていいから。
狂った時計が刻む音だけが、世界の全てになる。迷彩色の背景の中で、お前だけが鮮やかに瞳に焼きついた。ただ独り、お前だけが。
「―――今ここで死ねって言ったら…お前、死ぬんだろうな……」
伸ばした手にはべったりと真っ赤な血。指先からぽたりと零れる紅い血。それはひどく生臭く、ただひとつのリアルのようだった。嘘だけで埋められた世界の中で、それだけがひどく現実的だった。
「俺と一緒に死んで…って言ったら、死んでくれるんだろうな……」
ぽたり、ぽたり、と。指先から零れる血。それが真っ白な床にさぁぁっと散らばる。無菌の部屋。白い部屋。多分もう俺は。俺はこのまま壊れ溶けゆくだけなのだろう。どろりと溶けて、そして液体になって、腐敗するだけ。
それでも。それでも俺は死ねない。どんなに願おうとも、俺に『死』だけは訪れない。
「―――お前が」
身体が、溶けてゆく。でもこころは溶けない。
「…望むものは…俺は与える事が出来ない……」
お前と言う存在がある限り、俺のこころは。
「どんなにそれを、俺が与えてやりたいと願っても」
俺のこころはただ。ただ永遠にお前だけに向けられる。
いらないのに。何もいらないのに。
こころも身体も、魂も、全部。全部いらない。
お前が手に入らないのなら、何一つ。
何一ついらないのに。俺という存在なんて。
―――そんなモノ、お前の前では何もかもが無力だ。
「…好きだ…来須…お前だけ……」
もう何度告げただろう。もう何度俺はお前に告げた?
「…どうしようもない程に…焦がれている……」
足りない。何度告げても、何度繰り返しても。足りない、足りない。
「どうして…なあ…どうしてなんだよ……」
俺が口に出す想いよりももっと。もっと深い感情が俺を支配する。
「…どうして…欲しいものはひとつしかないのに……」
それに全てを絡め取られ、逃れることが出来ない。
「…欲しいのは…『お前』だけなのに……」
それだけが、どうしも。どうしても手に入らない。
どんなに願っても望んでも。それだけが。それ、だけが。
永遠の渇望になり、永遠の絶望になる。
「もうこの身体ではいられない…また俺は別の人間に生まれ変わる…そうしたらお前…もう何処にもいないんだよな……」
何時もの事。嫌になるくらい何時もの事。
繰り返し再生させられる命。死が許されない命。
永遠の螺旋の中で、ただひたすらに。ひたすらに。
生まれてそして死にゆく。身体だけが、ただひたすらに。
「この姿で、このままでいたい。お前が愛してくれた俺でいたい」
意識が朦朧としてくる。ああ、もうすぐ死がやってくる。この身体の『死』が。そしてまた俺は別の人間となって生まれ変わる。記憶を残したまま。お前を愛した記憶を残したまま。
「せめてお前が…お前がいない世界ならば……」
どうしてだ?どうしてなんだ?俺は何になりたい訳でも、何かになりたい訳でもない。ただ。ただお前が欲しかっただけだ。お前を望んだだけだ。ただ独り、お前が欲しかっただけだ。それなのにどうして。どうして、それだけが。それだけが、絶対に叶えられない?
「…忘れろ…瀬戸口…」
冷たくなってゆく身体を、お前はきつく抱きしめた。腕は暖かい。切ないくらいに暖かく、そして。そして哀しいほどに優しい。抱きしめる腕はこんなにも強いのに、それなのに腕の中はこんなにも優しい。
「…俺を、忘れろ…お前なら…お前なら…もっと違う相手がいる…だから……」
髪を撫でる指。そっと撫でる指。不器用ででも大きな手のひら。細かい傷のある、戦う者の手。俺はこの手だけがあればよかった。俺の世界にこの手だけがあれば、いい。
「―――忘れられるくらいなら…初めからお前を好きになったりしない……」
髪を撫でていた指が俺の頬に掛かるとそのままそっと包み込んだ。暖かい手、だった。暖かい手だと想った。この手が本当に俺に差し伸べられている事すら、今は。今は夢のように想えてくる。夢だったように、想えてくる。お前が俺を抱きしめてくれていることすら。
「一番叶わない相手を…求めたりはしない……」
瞳から零れてくる涙が可笑しかった。どんな瞬間でも涙を零せない自分が、こんな瞬間になって零す涙は。ただひたすらにお前への想いのみだった。
叫びたかった。ただ無償に叫びたかった。
そうしたら少しは。少しはこの胸で溢れるお前への想いが。
この想いが吐き出され、楽になれるかと。
楽になれるのかと、そう思ったから。
抱きしめる身体が冷たくなってゆくのが分かる。この腕に抱きしめている命が消えようとしているのが分かる。それでもお前は再びこの地上へとやってくる。どんなになってもお前の魂は再生される。どんなにそれを望まずとも、再び生まれ変わる命。
それを逃れることが、出来ないのなら。それを終わらせることが、出来ないのなら。
「―――今度は…俺がお前を…追う…瀬戸口……」
意識が遠ざかる前に囁かれた言葉と、降りてくる唇の熱さが。それだけが俺の意識を辛うじて留めた。そして。そして必死になって開いた瞳の先にあるのはただひとつ。ただひとつ恋し焦がれた相手の顔だけ。濡れた視界の中でただひとつ綺麗に映るお前の顔だけ。
「…お前が違う姿になっても…別の人間になっても……」
この顔を焼き付けて。目にこころに魂に焼き付けて。次に目覚めた瞬間に、真っ先に思い浮かべられるように。その顔を全てに焼き付けて。
「俺が追いかける。時間軸を辿って、お前を追いかける」
お前の全てを、俺の全てで刻んで。俺の全てで、お前を刻んで。全部、全部、離れていても鮮やかに蘇るように。
「…来…須……」
「だから俺の全ては、お前のものだ」
その言葉に俺はひとつ、微笑った。多分お前が見た顔の中で一番しあわせそうな顔、だっただろう。そして俺は。俺は『瀬戸口隆之』の身体に、永遠の別れを告げた。
「―――皮肉だな…最期の最期で…俺はお前から一番欲しかったものを…与えられた……」
お前の笑顔を。ただ純粋に、しあわせなお前の笑顔を。
最期に見せた、ただひとつ剥き出しの笑顔を。ただ、ひとつ。
それだけが望みだった。それだけが願いだった。
ただひとつ願うことは、お前の本当のしあわせな笑顔。
ずっと孤独だったお前の、口許でしか微笑えないお前の。
ただひとつの、本当の笑顔、だった。
「俺はお前に…与える事が出来た、か?」
欲しかったものを。お前が欲しかったものを。
「お前にちゃんと、与えられたか?」
ただひとつ願った俺自身を、こんな形でしか。
「―――お前に…ちゃんと……」
こんな形でしか、俺は答えることが出来ないから。
冷たくなった身体を飽きることなく抱きしめ。そして。そして消えゆくぬくもりを辿った。次に出逢うべくお前を辿るために。辿るために、必死になって探すのは運命の細い糸。
それがただひたすらに繋がるまで、絡み合うまでただひとつの魂を自分は探し続ける。
「…愛している…瀬戸口……」
今、分かった。今、気がついた。これが、俺達が唯一救われる方法なのだと。
無限とも思える、逃れられない運命から。ただひとつ、俺達の想いを繋げられる方法なのだと。
END