銀の羽

―――もしも背中の羽が、ひとつしかなくても。


出逢った瞬間に、別れが来る事に気が付いて。必ず引き裂かれる運命に気が付いて。
それでも出逢い、そして求める心を止められなくて。止めることが、出来なくて。

それを間違えと言うならば、誰が罪を罰するのだろうか?


背中に生えた銀の羽。ただ一枚の翼。
それでもしも空を飛ぶことが出来たならば。
もしかたら何かが変わるかもしれないと。
変わらないものを変える事が出来ることがしれないと。
ただひとつの奇跡を、信じられるほどに。
信じられるほどに何時しか。何時しか夢を見るようになっていた。
諦めていた夢を。求めることすらしなかった夢を。


――――そんな俺を愚かだと、多分運命は笑うんだろうな。口許だけを、歪めながら。


なあ、もしも。もしも、さ。
俺が女として生まれていたら、もっと。
もっと違う選択肢を選んでいたか?
それともやっぱり。やっぱりこれしか。
これしか、俺達は選べなかったのか?

何が正しくて、何が間違っているのか。
何が本当のことで、何が作られたものなのか。


―――もうそんな事すら、全てがどうでもよくなったから……



首を締める夢を、見る。何時も、何時も。そうして喉に指が掛かって、力を込めた瞬間に目が醒める。自分の悲鳴とともに、目が醒める。
「――――」
ぽたりと、落ちるのは汗。髪から零れる汗。それがシーツにぽたりとひとつ落ちて、透明な染みを作った。
「…また、だ……」
ぼんやりと零れ落ちる汗を見つめながら、瀬戸口はひとつ息を吐いた。その呼吸は乱れていて、零れ落ちる汗は止まらなかった。
「…また…俺は……」
汗ばむ自らの手を、見つめた。じわりと濡れて、そして残る感触。夢、なのに。夢なのに指先には首の感触が残っている。そして自らの首に手を当てれば…そこにはくっきりと残る指の跡。

―――自分で自分の首を、締めている……

そう何時も。何時もこうだった。他人の首を締める夢を見ながら、実際には自分の首を締めている。そして。そして息苦しくなって悲鳴を上げた瞬間に、目が醒めるのだ。このまま二度と醒めたくないと、願いながらも。
「―――なんで……」
このまま。このまま死んでしまいたいと、願った。このまま『この身体』から開放されたいと思った。今この時間この時代に生きていることが、こんなにも自分を蝕み苦痛に落としていると言うのに。
それなのに、何時も。何時も最期の最期で躊躇っている自分がいる。
理由は分かっている。ただひとつの拘りが自分をこの身体から解放してくれない。この場所から開放してくれない。ただひとつの事が、自分を拘束して離さない。
こんなにも胸を抉られるほどに苦しく、息も出来ないほどに切ないのに。
ただひとつの事だけが自分を縛り、この地上に留めている。ただひとつの事、だけが。



声を上げて叫べば、救いの手は差し伸べられるのか?
夢を見つづければ、何時かは本当の事になるのか?

どれもこれも、叶えられることはない。どれもこれも、幻でしかない。

では何故心は存在し、こんなにも痛みを伴うのか?
こんなにも苦しみを与えるのか?こんなにも…壊れてしまうほどに。
どうして。どうして壊してくれないのだろう。
何もかもが叶わないのならば、ただ後はひたすらに。
ひたすらに壊れて、滅びて、無になりたい。無に、なりたい。

何もかもが無くなれば、想いすらも消えてしまえるだろうから。



無になりたいと願いながら、それでも叶わずにいる。この力がこの世から自分を解放しないのならば、力なんていらないと想った。戦うことを放棄した自分に、軍は存在価値など見出さないだろう。それならいっそ、自分と云う存在全てを時から抹殺して欲しかったのに。

―――なのにこうして生かされ、そして俺は生きている。

分かっている。死にたいと願いながらも、こころの何処かで諦めきれない自分がいることを。ただひとつの事に拘り、それが全ての判断を狂わせ、そして。そして何もかもを犠牲にしても、自分すらも犠牲にしても、それを望まずにいられない事が。
「…バカだな、俺は…何時まで……」
何時まで、それに拘り続けるのか。何時までそれを想い続けるのか。もう答えは出てしまっているのに。自分から答えを出してしまっているのに。どうして、こんなにも。こんなにも…。
「…何時まで…『ここ』にいる?……」
死ねばいいのに。そうすれば取り合えず開放される。例えひとときであろうとも。例え一瞬であろうとも、開放されるのに。それすらも出来ずにこうして。こうして中途半端なまま生き続ける自分は、ただの滑稽でしかない。それでも。それでも。
「…何時まで…俺は俺であり続けるんだ?……」
それでも今の自分でなければ意味が無い。今の、自分のこの姿でなければ意味が無いことを、また。また知っている限り。
「―――分かっている…お前が……」
その先を言葉にしようとして、瀬戸口は必死に飲み込んだ。それを今口にしてしまったら。して、しまったら。最期の糸がぷつりと切れてしまうことをまた、知っていたから。



 <桜>



一面の桜の花びらが降り注ぎ、そして。
そしてその花びらが全てを、埋めた。
罪も罰も、全部。全部花びらが、さらってゆく。
ただひとつの真実すらも、その花びらが。
花びらが、全て、さらっていった。


――――知っていた。出逢った瞬間に、俺達は必ず別れが来ると云う事を。


月の明かりだけが、そっと世界を照らした。淡く細いその光だけが。その中に浮かぶ紫色の瞳が哀しいほどに綺麗だと。綺麗だと、想った。
「お前は怖くないの?」
笑みの形を作る唇が艶やかに紅い。それがこのひどくぼやけた世界の中で鮮やかに見えた。それだけが、くっきりと鮮やかに。
「何故?」
微笑う、唇。微笑う、瞳。ひどく無邪気に子供のように微笑って。微笑って、見上げてくる。紫色の瞳が、真っ直ぐに自分を。
「俺は『鬼』だぜ。お前を食らい尽くすかもしれねーぞ」
白い手が伸びてきて、そのまま背中に廻る。闇の中でも、その陶器のような白さは来須の瞳にはっきりと映った。病的なほどに白いその腕が。
「俺を食らうか?」
そのまま抱き付き自らを見上げる紫色の瞳。そして髪から薫る微かな匂い。甘く官能的な、薫り。それが『鬼』としての彼から来るものであれば、人を食らうと云うその言葉も満更嘘ではないなと思った。このひどく魅惑的な薫りに惑わされ、油断したならば。
「食らい尽くしたいな、全部。そうしたらお前…俺だけのものになるだろう?」
愛しげに来須の髪を撫でながら、瀬戸口は喘ぎのような甘い息をひとつ零した。その吐息は桜の花びらに運ばれ…そっと地上へと落ちてゆく。その瞬間花びらは生気をなくし、ただの枯れた屑と変化する。
「でもそうしたら、こうして触れることも出来なくなる」
髪を撫でていた指が、背中に廻りその広さを確かめるように弄られる。そのままもう一度瀬戸口は来須を見上げた。紫色の瞳が微かに潤み、来須を誘う。甘い薫りと、その瞳が。
「…食らい尽くすのは…俺の方だろう?……」
摺り寄せるように腕の中に収まるしなやかな肢体を、来須はそっと抱きとめた。見かけよりもずっと華奢で、そして壊れそうなその身体を。
「くく…お前言うようになったなぁ…初めて逢った時は全然そんな風な言葉を言うように思えなかったのに」
指が、伸びてくる。細い指だった。今にも折れそうなほどに細い指だった。その指が来須の髪に触れ、そこに絡みつく花びらを掬い上げる。
「お前のせいだ、瀬戸口」
掬い上げた花びらを口に含み、そしてそのまま貪るように瀬戸口は唇を奪った。薄く開いた唇に自ら積極的に舌を絡めて、そのまま。そのまま花びらを来須の口の中に移し込む。
「食べろよ、俺の変わりに」
口許に伝う唾液すらそのままで、瀬戸口はそう云った。紫色の瞳は相変わらず魔性とも云える色彩のままで。そのままでありながらも見せる感情はただひたすらに一途なもので。

―――胸を抉るような、ただ一途な想いで……

言われた通りにその花びらを来須は口に含み、食べた。味はほんのり苦く、ただ甘い薫りだけが一面に広がるそんな代物だったが。それでも言われた通りに自らの体内に取り込んだ。そんな彼を瀬戸口はただ。ただしあわせそうに、見つめていた。
「究極の愛は愛する者の屍を食べる事だって…誰かが言っていた」
背中を辿る指が、擦り寄ってくる熱い肢体が。その全てで、誘っている。自らの餌を求め『鬼』は誘っている。それは何時もの事。彼が生きる為に身につけた無意識の本能。
ただひとつだけ。ひとつだけ違うのは、目の前の餌である人物を愛していると云う事だけ。求めるのは食欲ではなく性欲と愛欲と云う事だけ。
それがどなに醜く純粋かは、来須以外知らないことだった。彼以外に知り得ないことだった。
「でもそれは嘘だよな」
痩せてゆく身体。細くなってゆく身体。何時しか鎖骨がくっきりと浮かび上がり、あばらすら見えるようになった身体。それでも彼は拒否をする。全てを拒絶する。自分が『生きる』為の行為を。
「食べたら…こうしてキスが出来ない。抱きしめてもくれない…抱いて、くれない……」
「――――抱いて欲しいか?」
尋ねた言葉にただ微笑う。花びらが綻ぶように、微笑う。それはどんなものよりも綺麗で、そしてどんなものよりも哀しい。こんなに綺麗で哀しいものを、来須は他に知らなかった。知ろうとも、想わなかった。
「…抱いてくれよ…無茶苦茶にして…お前以外、俺いらないから……」
何時もその言葉を聴きながら、彼を抱いていた。自分以外いらないと云う、その言葉が何よりも真実だという事は、自分が一番分かっていた。その言葉こそが彼にとっての唯一の真実だと云う事も。けれどもそれを叶えることもまた…また自分は決して出来ないと云う事も。
「いらないから。何もいらないから」
抱き付いてくる身体を抱きしめれば、湧き上がる想いは愛しさなのだろう。多分それ以外適切な言葉を思い付く事は出来ないから。でも本当は。本当はもっと違うものだと云う事も…心の何処かで分かっている。分かっていながら、それを伝える言葉がない。
「…いらないから…お前以外……」
伝える言葉も、手段も、こうして抱いてやることでしか…方法が思い付かなかった。


零れ落ちる花びら。夜の桜。
ひらひら、ひらひらと。舞って零れる。
淡く儚い薄桃色の花びらは、まるで。
まるで腕の中の、お前のよう、だった。


降り注ぐ花びらの下で、屍のようなお前を抱く。けれどもその皮膚から伝わるものは確かにぬくもりで。その暖かさが唯一の『生』の証だった。
「…っ…て…こんな身体じゃ…お前…満足しねーよな……」
肉のない身体、薄い胸。あばらがくっきりと浮かび上がり、きつく抱きしめれば折れてしまうほどの。まるで死人のような、身体。けれども。
「―――そんな事はない……」
けれども、それでも欲情した。『お前』だと思ったら、他でもないお前だから。どんな身体になろうとも抱けた。貫きたいと、思った。
「…どんな俺でも…いい?……」
抱いた腰は細すぎて、そのまま貫き殺してしまうのではないと思えるほどで。やつれた頬はただひたすらに哀しく、それでも綺麗だった。綺麗だと、想った。どんなになろうとも、それだけは自分の中では変わらない想いだから。
「ああ、構わない。『お前』ならば、構わない」

―――うれしい…と、唇の動きだけでお前は云った……


指を絡めて、舌を絡めて。身体を繋げて、息を奪い合って。
肌を重ねるという行為にもうどれだけの意味があるのかは分からない。
それでもこうして重ねることでしか、想いを伝える術がないのならば。

こうしてお前を抱いてやることでしか、想いを伝えられないのならば。

壊れても、抱いてやる。ずっと、抱いてやるから。
永遠が許されないのならば、時に逆らって。
ずっとが許されないのならば、運命に逆らって。


―――それしか俺がしてやれることが、ないのならば。



「…どうして…お前…俺の前に現れた?…何で……」
触れ合う身体は、ただひたすらに熱く。こころと同じ熱さなのに。
「…何で…現れた?…どうして……」
零れ落ちる涙の熱さと、地面に落ちる雫の冷たさが。
「…どうして…俺達は…出逢ってしまったんだ……」
ただひたすらに、苦しく切ない。


出逢った瞬間から、分かっていた。俺達にあるのは別離しかないと。




「どうにも出来ない想いなら…初めから…知らないほうが…よかった……」




瀬戸口が呟いた言葉に来須は何も答えなかった。この問いに答えたとしても、どうにもならないこともまた。またふたりは知っていたから。どうにもならない事を。
「答えないほうが、良かったのか?」
髪を撫でる来須の指先はただひたすらに優しい。この優しさを求めたのは自分だった。傷つき壊れた自分が縋ったのがこの指だった。ただひとつ自分を癒したこの指。それが今は、唯一自分を傷つけ壊すものになっている。癒されながら、傷を開かれている。
それでも。それでももう瀬戸口にはこの指を拒絶することは出来なかった。出来なかった。
「お前の想いを最期まで…拒絶すれば良かったのか?」
拒絶されても求めただろう。求めずにはいられなかっただろう。自分の存在よりも、自分自身よりも大切だと願った相手。全てを引き換えにしても欲しいと願った相手。
「…もうその時点じゃ遅かったよ……」
出逢った瞬間から、分かったから。初めて出逢ったその瞬間から。自分が願い欲しがったものが、本当に欲しかったものがそこにあったから。
でも。でもまた分かっていた。自分が願ったものは決して手に入れることが出来ないという事も。分かっていても…どうにもならなかった。

想いを止める術すら考える暇もないほどに、惹かれ恋焦がれたから。

「…遅いよ…もう…俺はお前を初めて見た時から…分かったから……」
求めていたもの。求め続けていたもの。得られないと分かっていて、それでも焦がれたもの。焦がれ、願ったものがここにあるから。今、ここにあるから。
「…お前だって…分かってしまったから……」
花びらとともに散らばる涙が、ただひたすらに切ない。それをこの指で拭っても、こころを抉る想いは止められないのだろう。どんな事を、しても。
「…瀬戸口……」
髪を、撫でて。零れる涙を、拭い。そして。そしてそっと触れる唇が。触れるだけの口付けが。こんなにも。こんなにも胸を締め付け、そして。
「…女に産まれれば…よかったな……」
「――――」
「…そうしたら、さ…独りには決してならねーだろ?」

「…お前の子供産んで…そんで…生きていけるだろ?……」

微笑っているのに、泣いているようだった。口許は笑みの形を作っているのに、瞳は泣いているようだった。もう瞳から涙は零れていないというのに。頬を伝った雫は風に飛ばされ乾ききったと云うのに。それなのに、泣いているようだった。
「…女にお前が産まれていたら…俺は絶対にお前を受け入れなかった……」
泣いてる。泣いているんだろう。泣かない瞳で、泣けない瞳で。どうにもならない事を分かっているから。どうにも出来ないことを…分かっているから。
「うん、そうだな。お前ならそうするよな…そう云う奴に俺は…惚れたんだ……」
永遠と未来。ずっとと一生。全部が嘘で幻だと分かっているから。分かっているから。
「俺と云う存在が、世界の何処かに残ることは…出来ない…」
出逢った瞬間に、別れが来る事に気が付いて。恋した瞬間に、終わりが来る事に気が付いて。ふたりを別つものが『死』でも『時』でもなく、運命でしかないなら。
「―――俺の中にも?」
逃れられない輪の中で、ただひたすらに引き裂かれる以外何も残らないのならば。
「ああ」
分かっていながら、聴いた。お前がそう答えると、分かっていながら。


それでも恋をした。それでも焦がれた。
どうにも出来ないほどに。どうにもならないほどに。
ただひたすらに求め、ただひたすらに欲しがった。
どうしていいのか分からずに。どうすればいいのか分からずに。
いやそれすらも。それすらも考える暇もないほどに。
ただひたすらにその存在を。そのこころを、求めた。


好きで、好きで、どうしようもなくて。どうにもらならくて。
何時も叫びたくて、それでも喉の奥に閉じ込めるしか出来なくて。


行くなと。何処にも行くなと。俺だけのものでいてと。


声に出して叫んでも、何も変わらない。
言葉にして告げても、どうする事も出来ない。


叫んでお前がそばにいるのなら、声が枯れるまで叫ぶのに。
声が潰れても、声帯が壊れても叫び続けるのに。


どうして。どうして運命は、俺からこいつを連れ去ってしまうのか?


何もいらないのに。何も欲しくはないのに。
ただ。ただお前がいれば。お前がいてくれれば。
それだけで。それだけで、よかった。
本当に何もいらない。何も欲しくはないんだ。


――――来須銀河と云う、存在以外に……



「…抱いてくれ…もっと…もっと俺を……」
神様、俺から。俺からこのひとを取り上げないでください。
「…なあ…来須…もっと……」
何もいらないから、何も欲しくないから。俺からこのひとを。
「…もっと…お前で…埋めて……」
おねがいです、おれからこのひとをとりあげないでください。



それをどれだけ繰り返したか。それをどれだけ願ったか。
あまりにも沢山祈ったから…分からなくなっちまった……。



桜が、舞う。淡い月の中で。零れる細い光の中で。
それを瞼の裏に焼き付けながら、俺は。
俺は自らを突き上げる熱さだけを、追った。その熱だけを、求めた。




――――お前だけを…求めた……




<月蝕>



手首を切り刻んでも、ただ血が流れるだけだった。意識は遠ざからずに、吐息は奪われなかった。ただぽたりと零れ落ちる血を、見つめることしか出来なかった。
生きることが嫌な訳じゃない。死にたい訳でもない。ただ。ただ『無』になりたかっただけ。何もかもがなくなってしまいたかっただけ。全部が消えて欲しかっただけ。
「――――」
風がふわりと、窓から忍び込んでくる。それに反応するように瀬戸口は顔を上げた。見上げる頬は扱け蒼白いほどの肌だったが、それでも紫色の双眸だけはただひたすらに綺麗だった。
肉体というものが削げ落ちてゆくたびに、瞳の色だけが輝きを増してゆく。それが鬼の宿命と言えばそれまでだったが、それでも綺麗だった。ただ、綺麗だった。
「やっぱ、こんなんじゃ…死ねねーよなぁ……」
切り刻まれた手首を上げた瞬間、板張りの床に血が染み込む。それをひどく他人事のように彼は見つめていた。自分が切り刻み、そして抉じ開けた傷なのに。自らが付けた傷、なのに。
「…って本当に俺は…死にたいのか?」
自分で呟いた問いに、明確な答えは出なかった。出るはずがなかった。死にたいと無になりたいとは決してイコールでは結ばれはしないのだから。
死ぬことは簡単だ。今すぐにでもそれは実行出来る。けれども死んでもまた。また自分は再生される。自らが望まずとも、痛みしか伴わない記憶を持ち続けながら。終わることのない執着と、焦がれるほどの想いを持ち続けながら。

――――別の肉体にただ。ただ生まれ変わるだけだ……

それでも逃れたいと思った。一瞬でも逃れたいと思った。ほんのひとときでいいから、この想いの呪縛から逃れたいと思った。逃れた先にはもっと。もっと苦しい想いが与えられるだけなのに。
「…何で俺…こんなにもお前が好き?……」
何時も問い掛けていた。何時も何度も繰り返して。けれども出る答えは一緒。何時も同じ場所へと戻ってゆくだけ。入り口に戻されるだけ。何処にも…何処にも行けなくて。
ただ永遠とも思える、想いの繰り返し。メビウスの輪のように、出口なんてない想い。それを消せるものならばとっくに消していた。閉じ込められるものならとっくに閉じ込めていた。でもそれすらも出来なくて。理性も制御も利かなくて、ただ。ただひたすらに溢れて零れるだけだった。
「なーんで…『お前』なんだろうな……」
またいたずらに手首を切ってみた。消えない痕が残ればいい。もしも全てが奪われても、残る痕がこの想いならば。それは消せない証拠になるのだから。
床に散らばる血を屈み込み、舌で掬い上げた。口内に広がる鉄の味が、ひどく可笑しかった。鬼である自分も…血の味は人間と同じだ。そう肉体は人間のものだから当たり前なのだけれど。だから痛みも快楽も全て、人と同じように感じられる。ヒトと、同じに感じる。
「―――後、どれだけ時間…あるんだろうな……」
そのまま剥き出しの床に転がり、瀬戸口は目を閉じた。長い睫毛に淡い月の光が零れる。きらきらと、光のかけらが睫毛に零れて来る。
それはこの鬼にひどく相応しい光だった。儚く壊れそうなその光は。

―――生きる事を、放棄した。生きるという行為を、全て放棄した。

初めに人と関わることを止めた。社会から抹殺される為に、誰もいない部屋に閉じこもった。次に食べることを止めた。元々食に関しての拘りはなかった。ただ食べなければ身体の機能が維持出来ないと言う理由だけで、食していただけだった。今更それを止めたからと言って、苦痛はなかった。
ただ食欲の代わりに、求めたものが性欲だった。鬼である以上本能はどんなになろうとも止められなかった。けれども。けれどもそれを欲する相手は独りしかいない。
他では駄目な事は分かっている。どんな女を抱いても、どんな男に抱かれても、満たされることはない。性欲と愛欲と…そして想いが重なった時、抑えきれない激しい想いが流れ出た。
生きる事を、放棄した。ただひたすら無になりたかったのに。それなのに身体が、心が、渇望する。ただ独りの相手を。ただ独りへの想いを。壊れるほど、焦がれるほど、求めずにはいられない相手。
そして今日も自分は彼を求めてさ迷うのだろう。微かな風が運ぶその薫りだけで…何処にいるのか手に取るように分かった。そこまで他に何も見えなくなっている自分を、ただあざ笑うしか出来なくなってしまったほどに。


銀の羽が、背中に生えている。
それをもぎ取ったなら、お前。
お前ここに、いてくれる?
もう何処にも飛べなくなったら。
ここに。ここにいて、くれるの?

それともお前の片翼をもぎ取って、俺の背中に付けたら…一緒に連れていってくれるか?



重ねる、唇。触れる、唇。何時もずっとこうしていられたら。こうしていられたら何も望みはしないのに。湧き上がるもどかしさも、切なさも全部。全部消えてなくなるのに。
「―――また手首、切ったのか?」
閉じていた睫毛が開かれ、見上げてくるのは怖いほどに綺麗な紫色の瞳。それを来須はただ。ただ、見つめていた。静かに、見つめていた。
「切った、でも死なねーよ。お前がそれを一番分かっているだろう?」
床に身体を横たえたまま、二の腕だけを上げて来須の背中に廻す。片膝をついて自分を見下ろす蒼い瞳に何よりも恋焦がれながら。
「俺がまだ『ここ』にいるから」
「正解。お前がこの世界にいる。俺のそばにいる。俺とともにいる…駄目だよ、まだ死なない」
上半身を起こし、来須の胸にその身体を傾けてきた。そのまま抱きしめれば華奢な身体は折れてしまいそうだった。初めて抱いた時は…こんなにも細くはなかったのに。腕の中に閉じ込められたけれど、まだ彼には肉の匂いがした。けれども今は、それすらも何処か遠くへ置き去りにされているようだった。まるで抜け殻のような、リアル。
「お前が俺を抱けば、俺は満たされる。物を食べなくても、水を飲まなくても…お前が抱いてくれれば俺は潤されるんだ」
「それはお前が鬼だからか?」
「…そうだな、多分そうなんだろう…愛する男を求めずにはいられない…求めて全てを食らい尽くさずにはいられない…」
摺り寄せ絡み付く身体からは仄かな甘い薫り。それが、瀬戸口が自分を求める時に発する薫りだった。髪から首筋から薫る、甘い匂い。初めは鬼故の人を食らうための本能から来るものだと思っていた。でもそれは微妙に違っていた。彼が発する薫りは…愛する男を求める薫り。雄を求める…薫り。
「お前が好き。どうしようもないほどに好き。全部、全部、好き。この髪もこの瞳も、全部俺だけのもの」
指先が辿るように触れる。来須の全てを刻もうとするように、細く壊れそうな指先が。陶器のように白く、ひんやりと冷たい指が。
「…それが出来たら…こんなにも俺…苦しくねーのにな……」
呟きそっと瞼を閉じる哀しい恋人に来須は唇を落とす。額に睫毛に、頬に…そして唇に。その甘さに全てを溶かされたいと願い、それが叶わないと絶望をする。何時もそれの、繰り返し。
「やると言った」
髪を撫でる指。大きな手のひら。戦う、手。何時もこの手が全てを癒し、そして自分を傷つける。この手、だけが。
「―――お前に全部、俺をやると」
「消えるのに?お前…この世界から消えるのに…それでもくれるって言うのか?」
どうして時を止められないのか?どうして全てを閉じ込められないのか?未来も永遠も、そんなものはいらない。今この瞬間に閉じ込められ全てが無になればいい。ただふたり、こうして愛し合っているこの瞬間に。幸せも不幸も全部。全部、必要ないから。
「消える前に、食らえ。お前は鬼なのだろう?」
そっと微笑う、口許を見つめて。見つめて、瀬戸口は笑った。声を立てて、笑った。心で泣きながら、笑った。
「ハハハハ、そんな事をしたらお前は俺を抱きしめてくれないだろう?抱いて、くれないだろう?」
哀しい恋人。ふたりを結ぶ紅い糸は互いの血を吸いすぎて、今にも切れかけている。それでも切れることはない。どんなになろうとも切れることだけは、ない。切ってしまいたいと願っても、互いの執着の方が勝っている以上…切れることはないのだ。

「狂いたいと何時も思っている。狂っちまえば何も分からなくなる。でも狂えないんだ。お前への想いが勝ってて…狂いたくても狂えないんだ」

崩壊したい。壊れてしまいたい。
それで楽になれるのならばと。それで。
それでこの苦痛から開放されるならと。
でもそれ以上に。それ以上に、求めずにはいられない。
それ以上に愛さずにはいられない。


…この想いがある以上…狂うことすら出来ない……


「ああ、でも…来須…もしも……」
背中を辿る指先。何時もそうして確認をする。まだ『ここ』にいると。まだこの世界にいると。まだ指先がぬくもりを確認出来ると。
「もしも…俺が狂えたら…」
見下ろす蒼い瞳に映っているのが自分だけだと。今この瞬間に映っているのは自分だけだと。そのことに何よりもの幸福を憶えながら。
「―――その時は、こうして」
背中に廻していた指先を離すと、瀬戸口は来須の指に自らのそれを絡めた。触れた瞬間に冷たすぎる指先が来須には哀しかった。暖めてやりたいと思った。自分がこの指を、暖めてやりたいと。
「こうして、俺の首締めてくれよ」
指先を導かれ、触れる感触。細い首に指が、掛けられる。このまま少し力を込めたらカクリと、壊れてしまうほどの首に。首に手を、掛けられる。
「こうして、首を締めて、ちゃんと俺を殺してね」
微笑う恋人の顔がひどく無邪気で、それが逆に来須を苦しめた。こんな事しか約束が出来ない自分達。こんな事しか、約束を結べないふたり。
「――――ああ…瀬戸口……」
小指を結ぶ紅い糸が血を吸い込み、重く圧し掛かるのならば。ふたりが指を絡めする約束も、ただひたすらに血の匂いがするだけで。血の薫り、だけが。
「…その時はちゃんと俺が、殺してやる……」
本当は今でもこの首を締めたい衝動に駆られている。このままきつく締め付けて、自分だけを想い続け死にゆく恋人を願う自分が。けれどもそれとは全く別の想いが、自分を留めている。諦めきれない想いが、それを留めている。

――――しあわせになって、欲しい…と。

こんな自分に捕らわれずに、もっと。もっと別の道をと。
今こうして逃れられない執着がふたりを結んで離さないのならば。
それならばお前の中から俺の全ての記憶が消えた時。
その時こそはもうこんな想いに捕らわれずに。捕らわれずにしあわせにと。


けれども、それもまた何処かで気付いている…不可能であろう事も……


理屈でも、理由でもない。言葉でも、気持ちでもない。
ただどうしようもない程に互いを求めずにはいられない。
どうしてだとか、そんな問いすら浮かばないほどに。
ただ欲しい。ただそばにいて欲しい。ただ…どうしようもなく。


…どうしようもなく…愛しく、そして愛しただけだ……。


「…月の光が…お前の瞳に映っている」
栗色の柔らかい髪を、撫でて。細すぎるその髪を撫でて。
「―――綺麗だな…瀬戸口……」
その髪を、そっと撫でて。甘い薫りのするその髪を。
「お前の髪の方がずっと綺麗だ。きらきらしてて眩しい」
その髪に口付けて、顔を埋めれば。ただひたすらに。
「…闇に生きる俺には…ずっと…憧れだ……」
ただひたすらに溢れるのは、愛しいと言う想いだけ。
「…ずっと…焦がれるのはお前と言う光だけだから……」
ああどうして。どうしてこのまま。このままでいられないのか?


約束はただ一つだけだった。
ひとつだけ、指を絡めて約束をした。
淡い月の光の中で。そっと落ちる光の中で。
ただひとつの、約束。哀しい約束。
首に掛けられた見えない紅い糸だけが知っている。
血の匂いのする糸だけが、知っている。


――――ただひとつの、約束……




「…ちゃんと殺してね、俺を…お前のその手で……」




もしもその時が来たら。もしもその瞬間が来たら。
俺は躊躇いもなくその首に手を掛けることが、出来るだろうか?
その首に指を食い込ませ、殺す事が出来るのか?
その問いに俺は…俺は答えることが出来なかった。


お前の望みは全て叶えてやりたいと願いながらも、唯一の本当の願いを叶えられない俺に。
お前が真実望む、ただひとつの願いだけはどうしても叶えてやれない俺に。


お前が望むなら一瞬の開放であろうとも、俺の手で叶えてやりたかった。
その後に来るのがただの絶望でしかなくても、それをお前が望む限り。
けれども。けれども…もしもお前がどんなに望もうとも、別の道があるのならば。
俺という執着が消えて別のしあわせになれる道があるのならば。
俺という存在すらなければお前は…そういう想いが消えない限り、俺は。



――――俺はお前の首を、締めることが、出来るのだろうか?


END

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