『雪が全部。全部、隠してくれたら…いいね』
世界が二人の事を忘れてくれたらいいのに。全てから置き去りにされたらいいのに。
二人に絡み合ったしがらみ全部を何処かに消し去って、そして。そして何もなくなったなら。
何もかもなくなって、ただ二人に。二人だけになれたならば。
そうすれば哀しみも、苦しみも、切なさも全部。
全部二人で分け合う事が出来るのに。二人だけで、分け合えるのに。
空から降り注ぐ細かい雪が、そっと頬に掛かった。ひんやりと冷たい雪が暖かな頬に掛かって、ゆっくりと溶けてゆく。それを指で払ってやれば、大きな瞳が無邪気に微笑った。
「ひろちゃん雪、いっぱいだね」
私を映していた瞳が、楽しげに廻りへと移ってゆく。その瞳に映される白い世界が、ひどく目に眩しく見えた。視界は夜の闇に包まれている筈なのに。その闇よりも雪の白さが、瞳に焼き付いて離れなかった。
「本当ですね、いっぱいですね」
小さな手が私の指に絡まる。繋がった指先のぬくもりがひどく暖かかった。このままずっと。ずっとこうしていられたならば、何も怖いものなんてないのに。
「へへへ、ののみ雪見たの初めてだよ。嬉しいな」
無邪気に微笑うその顔が、ひどく胸に痛かった。ずっと試験管の中にいたから。ずっと研究室の中にいたから。だから貴方が見てきたものは、全部。全部、スクリーンを通してきたものだけ。作られた映像だけ。だからこうして指先に、髪に、頬に掛かる雪の冷たさを貴方は知らなかった。
「嬉しいの。だから、ね。だからひろちゃんも…笑ってほしいな」
ぎゅっと強く握り締められた指先。それが貴方の想いだった。貴方の優しさだった。その純粋な優しさだけが、私の救いだった。
「ええ、嬉しいですよ。貴方が嬉しいなら私も、嬉しいですよ」
何もなく空っぽな私の、与えられた役を演じるだけの私の、唯一の『私自身』の願いだった。
この手だけが、この瞳だけが、虚像の世界の真実だった。
『ひろちゃん、ひろちゃん。あのね、ののみね』
作られた運命の中の。運命の手の中で躍らされている駒の中の。
『ずっとね。ずっと、ひろちゃんに触りたかった』
最も作り物であるはずの貴方が。最も虚像であるはずの貴方が。
『こうやってね…ひろちゃんの手の暖かさ、感じたかったのよ』
私にとっての唯一の本当の事だった。貴方だけが、私の真実だった。
試験管から初めて出てきた日。貴方は真っ先に私に、触れた。私の手に、触れた。
暖かい手。貴方の手。作り物なのに、私よりもずっと暖かい手。
『暖かいね、ひろちゃんの手…暖かいよ』
小さな手。力を込めたら壊れてしまいそうな小さな手。でも。
『へへへ、とっても。とっても暖かいよ』
でも、愛しい手。かけがえのない手。そして何よりも護りたいと願ったもの。
何でも出来ると思った。虚像でしかないこの世界の中で。虚しさしか残らないこの世界の中で。貴方という存在を護るためならば、私はどんな事でも出来ると思った。
「寒くないですか?」
私を見上げる瞳。ただ純粋に私だけを見つめる瞳。この瞳に映っている自分だけが、真実ならば後は全て嘘でいい。後は全て虚像でいい。貴方だけが私の真実を知っていてくれたならば。
「平気だよ。ひろちゃんの手が暖かいから、だから平気だよ」
そっと貴方の髪に雪が掛かる。それをもう一方の手で払ってやれば、貴方は何も言わずに微笑った。その顔が、見たかった。私はずっと、見ていたかった。ずっとずっと、貴方の微笑みを見ていたかった。
「ねえ、ひろちゃん。真っ白だね。このまま雪が全部隠しちゃったらいいのにね」
このまま雪が全てを隠してくれたならば。
「全部ね。全部、隠しちゃったら」
世界が全部真っ白になったならば。
「誰にも見つからないかな?」
何もかもが白くなって、私達を隠してくれたら。
「…そうしたら、いいね……」
そうしたらいいのに。そうしたら誰からも見つからないのに。
世界から置き去りにされたい。誰の目にも触れずにふたりだけで。ただふたりだけでいたい。それが叶えられたならばこんなにも苦しくなかった。こんなにも、切なくなかった。
「そうしたらずっと、一緒にいられるね」
微笑う貴方。何時もの笑顔。何時もの、笑顔。無邪気な笑顔が、でも今は哀しい。今は、哀しい。
「でも駄目だよね。そんなの駄目だよね。全部隠しちゃったら…皆が消えちゃうもんね」
「―――私達が消えるのは、駄目ですか?ふたりだけで、消えるのは」
それが叶うならとっくにしていた。それが叶えられるならば、この手を取って何処までも逃げていた。それが出来るならばこの世の果てまでも、この手を取って。
「ひろちゃん、それはめーなのよ」
「ええ分かっています。貴方は優しいから…それが出来ないって事を…そしてそんな貴方だから私は……」
逃げたとしても捕われるだろう。手のひらで躍らされている私達に逃げられる場所なんてない。そして何よりも貴方は、自らの運命から逃れる事だけはしない。
だって聴こえないから。貴方しか、この大地の声を…幻獣の声を聴く事が出来ないから。
貴方は痛み傷つくこの星の声を聴く。それは貴方にしか出来ない事。貴方だけにしか、出来ない事。きっと貴方が一番、この運命に一番近い場所にいる。だから。だから…。
「――――私は…貴方が好きなんですよ……」
私にとって真実が貴方だけならば。貴方にとってこの星の声を聴く事が、全てならば。それは全て繋がっている。一つに、繋がっている。
「ののみも、好き。ひろちゃんが、一番好き」
貴方が護りたいと願うものならば、私は護ろう。貴方の願いならば、私はどんな事をしても叶えよう。一番の望みだけが叶えられない以上、他の全ての事は私がこの手で叶えよう。
「好きです。ひろちゃん」
視線を合わせるためにしゃがみ込んだ私に、貴方は爪先立ちでちょこんと背伸びして。背伸びをして、そっと。そっと私の唇にキスをした。それはどんなキスよりも苦しく切なく、暖かいキスだった。
一度だけ貴方は言った。大人になりたいって。
一度だけ貴方は言った。大人になって私の『お嫁さん』になりたいって。
それだけは叶えてあげられないから。それだけは出来ないから。貴方を大人には…出来ないから。
先に死ぬ私。子供のままの貴方。ずっと一緒にはいられない。
「…好きですよ…ののみ…貴方だけが…貴方だけを……」
それでも。それでも貴方が淋しくないように。貴方が哀しくないように。
「…愛して…います…ののみ……」
言葉を降らせる。この雪のように、貴方の頭上にたくさんの言葉を。
この雪のように貴方を私の言葉を降り積もらせる事が出来れば、少しは淋しくない?
「…うん…ひろちゃん…うん…うん……」
私はただ貴方の笑顔が見たかった。ずっと見ていたかった。それだけだった。
それだけなのに、どうしても。どうしても、叶えられない事だった。
END