運命の女
――――記憶の底に在るあの女は、何時でも微笑っていた。
記憶、遠い記憶。何時しか俺の中から消滅した記憶。何処からも消え去った記憶。けれども、けれどもその『想い』だけは残っているから。想いだけは誰にも奪うことが出来ないから。
…お前の想いは…決して俺から…消えることはないのだから……
―――どうしてこんなにも気になるのか?
「わたくしは貴方のような方は大嫌いです」
真っ直ぐな瞳で、強い意思を持った瞳でお前はそう言った。その瞬間、この女は皆と同じように扱ってはいけないと、何時ものようには出来ないと思った。
同じにしてはいけない。同じにはならない。決してその他大勢にはなり得ないのだと。
―――高嶺の花。
決して手に届かないはずの人だった。
俺みたいな『モノ』が手を出すことなんて、出来ない人だった。
強く儚いそのひとは、俺にとって。
俺にとって永遠のひと、だった。
「生憎だ、俺も嫌いだよ…君みたいな人は」
お高くとまって、俺をまるで汚いようなモノを見る目で。どんな女でも平等に愛を語る俺でも…ちょっとコイツは勘弁してくれ。
「大嫌いです」
―――勘弁、してくれ……
微笑う、君。
綺麗に微笑う、君。
そして俺を抱きしめてくれた。
こんなモノでしかない俺を。
君はそっと抱きしめてくれた。
「ならそれでいいじゃありませんか。それでは」
にこりとも笑いもせずに、俺の前を去ってゆく女。漆黒の髪を靡かせながら。ふわりと、靡かせながら。
―――その髪に触れてみたいと、思った……。
どうしてそんなことを思うのか?今さっき勘弁してくれと思ったはずなのに。どうして。どうして俺の中からその髪の残り香が消えないのか?
漆黒の長い髪。強い意思を持つ蒼い瞳。信念を曲げないその性格と、気の強い心。
けれども。けれどもふとした瞬間に見せる…優しい瞳……
「…俺には…縁のない女、だよ……」
呟いた言葉がひどく苦しくて切ないのはどうしてだろう?
どうして、こんなにも俺は苦しいのか?
遠い記憶。流れゆく記憶。
その中でただひとつ。
ただひとつ消えないもの。
消すことが出来ないもの。
それが君への。
―――君へのただひとつの想い……
気が付けば、瞳が追いかけていた。君をずっと追いかけていた。
「危ないっ!」
「えっ?!」
ガシャリと大きな音がして、俺の上に無数のガラスの破片が降り注ぐ。それは俺の腕を頬を傷つけた。
「…瀬戸口…さ……」
驚いたように見開かれる君の蒼い瞳。こんな時に不謹慎だろうか?君の瞳がとても綺麗だとそう思う事は。
「大丈夫か?」
その言葉にまだ君は驚いたような目を俺に向ける。事態を把握していないのか?それとも?
「…あ、…はい……」
呆然としたままそれだけを答えた。そしてはっとしたように起き上がると、その白い手が俺の頬に重なった。
「…血が…出てます……」
言われて始めて気が付いた。まあ無理もない…割れた窓ガラスの破片から君を庇うために、押し倒したのだから。
「平気だよこれくらい。それに女の子の顔に傷をつけるなんて…俺のポリシーが許さない」
何時も告げている軽いこの口調もどうしてだろう?君の前では調子が出ない。平気でさらりと言えるはずの言葉もなぜか君の前では上手く言えない。
「…わたくしのせいですね…ごめんなさい……」
けれども君はただ悲しそうにすまなそうに俺を見上げるだけだった。今にも泣きそうな瞳で。今にも。
「いや、そんな事はない…そんなことは…俺は君を助けたかった…から……」
その言葉を告げた俺自身の顔はひどく驚愕に見開かれていた。そして。そして君の顔も、ひどく驚いたように俺を見ている。そう、驚いたように……
『…どうして?…貴方は幻獣…鬼ではないの?…どうしてわたくしを助けたの?…』
『―――君を、助けたかったから……』
『…どうして…わたくしを?』
『……君が………』
『君が好きだから』
君のためならば俺は『ヒト』になろう。
『ヒト』になってかつての仲間を殺そう。
それが君への愛の証になるのならば。
仲間に裏切り者と言われようとも、俺は。
俺は『ヒト』になろう。
―――ただひとり愛する君のために……
封印された記憶。消えゆく記憶。それでも。
それでも想いは決して消えはしない。
どんなにどんなに、剥がれていっても。
ただひとつの想いは決して。
――決して消えることがない……
それは一瞬、見せた幻だったのか?ひとときの夢だったのだろうか?
「大丈夫、立てるかい?」
起き上がり君の手を引く。白くしなやかな手を。俺はその手の感触を何処かで知っていた気がする。
「…はい…平気です…それよりも貴方の方は?…」
素直に立ちあがり心配そうに見上げる蒼い瞳。今にも泣きそうなその瞳。どうしようもないほどに綺麗なその瞳。
「平気だ」
ここでどうして何時ものように気の利いた軽口を叩けないのか?どうして何時ものように…。
「でも血が…」
そう言って君は懐からハンカチを取り出して、血が零れている俺の腕に巻き付けた。白いハンカチはすぐに血によって赤く染まってしまったが、それでも。それでもそこの個所だけがひどく暖かく感じられる。
「応急処置です…早くきちんと手当てして貰ってください」
「ああ…ありがとう…」
それだけを告げると君はぺこりと頭を下げてその場を去ってゆく。その後姿を見つめながら俺は。俺はどうしようもなく切ない想いに捕らわれていた。
流れゆく記憶。消えてゆく記憶。
そしてその中に残るただひとつの真実。
この手のひらに残るただひとつの答え。
それが今そっと。
―――そっと俺の手の中に、落ちてくる……
「…壬生屋…俺は……」
その先に呟かれるべき言葉を俺はそっと口の中に閉じ込めた。
何時しかそれは。それは他の誰でもない君に告げなければいけない言葉だから。
他の誰でもない君だけに告げなければいけない言葉、だから。
―――君が好きだ、と……
全てが消え去っても、『想い』だけは決して消えることがないのだから……
END