月の上
空に浮かぶ月の上に、素足で歩きたいとふと思った。
漆黒の闇の中でぽっかりと浮かぶその月の上に。
ただ独り、足跡を残したいなと思った。
――― 子供でいれば、叱られないって…昔は本気で思っていた。
貴方の瞳の中に月が映っていて、それがとても綺麗だと思ったから食べたいなって思った。
「その瞳に噛み付きたい」
くすくすと微笑って、私はその眼鏡を外した。貴方は、本当は眼鏡を外すのが好きだと言っていた。視界がぼやけて、そして世界がゆっくりと歪むからと。輪郭を辿れない世界の中にいれば、自分の存在すらもぼやけてくれるからと。
「…原さん…何言って…」
「素子と呼びなさい、夏樹くん」
むっとひとつ拗ねて貴方の鼻をぎゅっと抓った。そうしておいて、唇にキスをした。少しだけ甘いキス、だった。
「名前で呼ばないと、いぢめるわよ」
「…はい…素子さん……」
少しだけ困ったような顔をしてそれでも私の名前を呼んだ貴方が、ひどく愛しくて。愛しかったから、私はぎゅっと抱きしめた。
最初は冗談で眼鏡フェチだからって、言った。
そんな私に本気で困った顔をしたから。だから。
だから、逆にどうしても。どうしても貴方が。
―――貴方が欲しくなったの。
見え隠れしていた、貴方の孤独と。
隠しきれない私の傷と。
多分それが微妙に反応して。気が、ついて。
そしてこうして、ひとつになって。
―――ひとつになって、結ばれてゆく……
「―――どうしてだか、分からないけど…僕は貴女が好きです」
その身体を抱きしめて、髪に指を絡めて。そして、初めて僕は貴女に好きだと告げたような気がする。今まで何度もこうしてキスをして抱き合っても、一度も告げた事なんてなかった気がする。
どうしてかな?好きだってずっと思っていたのに。
「分からないの?それなのに好きなの?」
「うん、分からない。でも貴女が好きだって事は分かる」
僕のどうしようもない孤独すら忘れるほどに傍にいてくれたから?それとも全てをどうでもいいと思っている僕の中にそっと入ってきたから?
ううん、きっと。きっと、どれも違う。どれも本当の事だけど、少しづつ違うから。
「うん、そうね。私も分からない。分からないけど、貴方がいいんだもの」
もう一回見つめ合って、貴女の髪に指を絡めて。そうして、キスをした。蕩けるほどの甘い口付けを。
瞼の裏に焼き付いているのは、淡い月。
貴女の瞳に映っていた、月。
僕にとっておぼろげになった世界の中で。
貴女の瞳だけが。瞳に零れた月だけが。
唯一の僕の、世界になる。
「子供の頃、月に行きたいなって思っていたわ。私月にうさぎがいるって信じていたの」
「以外とロマンチストなんですね」
「むぅ、酷い。私こう見えても物凄いロマンチストよ」
「どんな所が?」
「ふふ、恋に一筋な所が。貴方に恋をして、貴方だけ見ているわよ…ずっと」
「そうして欲しいな…ううん…ずっとそうしていて…」
「…そうしたら貴女を失う不安に怯える事がないから」
透けて見える貴方の傷。
私はそれをそっと取り出して。
取り出して、キスしてあげる。
傷が癒えるまで、ずっと。
ずっとこの手で抱きしめてあげる。
…貴方が、淋しくなくなるまで…私が、淋しくなくなるまで……
「ずっと好きでいてあげる。貴方が嫌いになるまで…嫌いになっても…」
「それは、ないですよ」
「どうして?」
「互いにどちらかが違う人を思ったら…僕は貴女を殺すでしょうし、貴女もそうすると思ってます」
「ふふ、当たりね。イヤだな、そう言う所が似ているのね」
「―――きっと…見ているものが…同じだから…」
冷たい水が、ふたりの間に零れている。
さらさらと、さらさらと。
この冷たさが僕等の足許を埋めてゆくたびに。
その冷たさに身を浸してゆくたびに。
こころが、暖かくなってゆくのはどうして?
―――僕等は同じものを見て、違うものを求めている。
空に浮かぶ月をもう一度私は見上げた。その視線を追うように貴方も空を見上げる。眼鏡を取り上げたままだから、多分貴方の目にはくっきりとは映ってはいないでしょう。でもそれが、今の貴方には似合っている気がするから。
「あの月の上には何があるのかな?」
貴方の呟いた言葉に私の方が微笑った。貴方の方がずっと、ロマンチックよね、と。
「本当は何もないのよ。きっと」
「それでも何かあると思いたい僕が子供なのだろうか?」
「くすくす、子供。でも好きよ」
本当は何もないと分かっているけど、それでも何かがあると信じられるのは子供の強さ。子供の想い。でもそう想える事が、きっと大切。
「貴女がいなければそんな事は思わなかった」
「どうして?」
「あの月の上には、貴女がいるような気がしたから」
ここに私はいるのよ、と。
貴方に言ったら、また困ったような顔をして。
小さな声でごめんなさいって言った。
そんな貴方に私はキスをして貰う事で、許してあげた。
月の上に独りで歩きたいと。
ただ独り、誰もいないそこに。
私の足跡だけを付けたいと。
―――でもね、それは貴方に見つけてほしかったから……
見付けてほしかったの。
独りでさ迷う私を。
辿り付けない私を見付けて。そして。
そして、満たしてほしかったの。
貴方は何もなくて空っぽで。
私は溢れすぎて空っぽで。
違うけど同じ。同じだけど違うから。
「…どうしてだろうね、抱きしめあってるのに…淋しいのは……」
その言葉を埋めるように、私達はキスをした。
唇が痺れるまで、いっぱいいっぱいキスをした。
――――このままふたり、月に濡れてしまいたいと思いながら…
END