隣の月
貴方の背中に、そっと。そっと淡い月。
月のような人だと、思いました。
そっと照らす柔らかい月。淡い月。
強い存在感で人を惹きつけるのではなく。
そっと優しい穏やかさで包み込む。
――――そんなひと、でした。
「―――貴女は死に急いでいるように見えますよ」
穏やかな声だった。何時も貴方は穏やかな声で私に告げる。その中に含まれる感情すらも消し去るように優しく。優しい、声。
「そんな事は、ありません。私は……」
私は違う、そう言おうとして。そう言おうとして唇を開いたら。開いたら、貴方の瞳がひどく。眼鏡の奥の瞳がひどく淋しげに見えて…私は喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
「それでも私にはそう見えるのです、壬生屋さん」
違うとまた言おうとして、首を振ろうとして、私は。私は出来なかった。貴方の手が、そっと。そっと私の頬に触れて。触れて、そのまま包み込んでしまったから。
「…善行さん…私は……」
何時も視線は反らさないようにと。真っ直ぐ前だけを見て生きるようにと。後ろを振り返ることなく、青の一族として強く。強く後悔のない道を生きるようにと、私はずっと思ってきた。ずっと、ずっと前だけを見つめながら。
「貴女は独りじゃないのに」
前だけを見つめて、後ろを振り返らず。後悔と言う言葉は私には必要ないと。強さと真実だけを見つめてと。そうやって、ずっと生きてきた。生きてきた、けれども。
「私がいても、前だけを見つめるのですか?」
頬に掛かった手は何時しか背中に廻され、そのままきつく抱きしめられた。
初めは、ただの『パイロット』でしかなかった。
この戦争に必要なパイロットの独り。ただそれだけだった。
指令として自分はただ彼女を最大限に使えればいい。
使いこなせればいい。それだけの存在だった。けれども。
けれども何時の間にか目が、離せなくなっていた。
独り単独で果敢に戦闘に切り込む貴女が。
どんなに危ない場面になろうとも。
無防備とも思えるほどに、先頭を駆け巡り、何時も。
何時も前線に立つ貴女を。
――――いつしかそんな貴女を、心配している自分がいた。
死を恐れない強さと。それとは正反対の死への怯え。
怖さを隠すためにわざと前だけを見ているような気がした。
恐怖と死への怯えを消すために、前だけを。
前だけを、見つめているような気がしたから。
「貴女の強さに私は何よりも惹かれます。けれども同時に怯えている」
「…善行…さん?……」
「その強さに隠れた不安を消そうとして無茶をしているように思えて…そして何時しかその想いが貴女をこの世から奪っていってしまうのではないかと…」
「…貴女がこの世から…消えてしまわないかと……」
綺麗な曇りない青い瞳が。強い意思を持ったその瞳が。
何時も私を捕らえて離さない。そしてその中に見える。
微かに見える、怯えが。その怯えが、私をこうして突き動かす。
「…怖くはありません…死ぬのは怖くありません…青の一族として…死を恐れてはいけないのです……」
そう言いながらも微かに震える貴女の身体を、私はきつく抱きしめた。怖いのならば怖いと、不安ならば不安だと、そう告げて欲しいから。
――――私の前でだけは…強がらないで欲しいから……
その優しさに気付いたのは、何時?貴方の瞳の優しさに気付いたのは?
「こんなにも、震えているのに?」
何時も冷静に指示を与える貴方のその。その眼鏡の奥にある優しい眼差しに気付いたのは。
「…怖くはないです……」
そして何時しか私は。私は戦いの中でその瞳を、思い浮かべていた。振り返らないと、前だけを見なければと思いながらも。それでも何時しかその瞳を…優しい瞳を、求めていた…。
「…怖くなんて…私は……」
優しい瞳に見つめられて、その腕に包まれたならば。私はきっと。きっと振り返ってしまう、後ろを振り返ってしまうから。だから、私は。
「―――どうして?貴女はただの女の子なのに」
私はあえて必死に閉じ込めてきた。心の奥底に閉じ込めて、見ないように。見つめないようにしていたもの。でも。でも、今。
「…私にとってはただの愛する女ですよ…貴女は……」
今、こうして。こうして貴方に抱きしめられて。貴方の腕を感じて。貴方の優しさを、想いを感じて。私は…私、は……。
「…善…行…さん…私は……」
――――死ぬのが、怖いと思った。生まれて初めて、怖いと思った。
強がらないで欲しい。本当の心を見せて欲しい。
「…怖い…です…死ぬのが…」
貴女の一番深い場所にある想いを、私は。私の全てで。
「…貴方を好きになってから…貴方を好きだから…」
私の全てで、受け止めたいから。
「…初めて…怖いって…思いました……」
貴女の強さも弱さも、貴女の全てを、私の全てで。
好きだから。貴方が、好きだから。
私は今死にたくないと、生きていたいと。
ずっと貴方を見ていたいと、そう。
そう思いました。ずっと。ずっと貴方を。
―――貴方を…見てゆきたいと……
零れ落ちる涙を拭う優しい指先。その指が好き。
「…好きです……」
その言葉にそっと微笑う、眼鏡越しの瞳が好き。
「…貴方が…好きです……」
全部、全部、好きです。貴方が、好きです。
「―――私もだよ…貴女だけを……」
後ろを見るのは怖かった。本当は怖かった。
不安を感じることが、現実に気付くことが、怖かった。
でも今は。今はもう怖くはない。振り返れば。
振り返れば貴方がいて、くれるから。
貴方の隣に淡い月が光る。そっと照らす月が。
月が静かにふたりを、見ていました。
END