潮騒
――――目に見えるものだけが、全ての真実じゃない。
その言葉を確かめる為に、目を閉じてみた。
聴こえるのは、潮騒の音だけになる。
繰り返し引いては押し寄せる、波の音だけになる。
鼻に伝わるのは潮の匂い。母なる海の、匂い。
けれども今は少しだけ怖いと思った。
全てを包み込んでくれる海でも、こうして目を閉じて感じる事によって恐怖の対象になってゆくのが分かるから。足許から少しだけ押し寄せる、恐怖。
「海って、怖いんだね」
聴こえる足音に私は目を閉じながら答えた。砂浜を踏む音が波の音を打ち消してゆく。恐怖を感じるその音を、消してゆく。
「姉さんは意外と怖がりだね」
「…意外ってなによ…意外って…」
「冗談だよ」
振り返って瞼を開けば。開いたら、予想通りの憎たらしい笑顔。でもその笑顔に安心感を覚えるのはどうして?
「その方が、僕はいいけれどね」
手が伸びてきて、そのまま抱きしめられた。小さい頃は私の後を付いてばかりの小さな男の子だったのに。泣いてばかりの男の子だったのに。何時しか私の背を追い越し、そして抱きしめる腕は逞しくなっていた。強く、逞しくなっていた。
「怖いものが多ければ多いほど…僕が姉さんを護ってあげられるから…」
包み込む腕が、何時しか波の音を打ち消してゆく。そこから広がるぬくもりが柔らかく私を包み込み、暖かさを注ぎ込む。それが何故だかひどく切なくなって泣きたい衝動に駆られた。ひどく、泣きたくなった。
「…何時までもこのままでなんて…いられないよ…」
「それでも僕が姉さんを護る、ずっと」
「ずっとなんて…ないよ…」
「でも僕にとってはずっとなんだ。ずっと子供の頃から」
もし今私が涙を零したら、どうする?
子供の頃だったら、一緒に泣いたよね。何時もそうだった。
どっちが先に泣いても、気付くと一緒に泣き喚いていた。
泣いて、大きな声を上げて。
そして泣き疲れたらふたりしてそのまま眠った。
まるで巣の中にいる雛鳥のように寄り添いながら、眠った。
でも私達はあの頃と、指の形が違う。背の高さも違う。
重ねあった手のひらの大きさは、こんなにも違う。
それでもやっぱりふたりして、泣くのかな?
「でも時間は進んでいるよ…進んでいるよ…」
「…姉さん……」
「もう子供じゃないんだよ、私達」
指を絡めて、そして。
そして丸まってふたりで眠っていたあの頃。
繋がった指先のぬくもりだけが。
それだけが世界の全てだったあの頃。
―――でももう、戻れないよね……
「そうだね、もう子供じゃない。子供なら姉さんにこんな気持ちにはならないから」
「…茜?……」
「子供だったら、こんな風に姉さんを好きにはならない」
抱きしめていた手が、頬に触れる。
そしてそのまま睫毛に触れて、そして。
そしてそっと唇を奪われた。
甘い、キス。柔らかい、キス。
そして、切ないキス。
―――苦しい、キス……
「…好きだ…姉さんが…好き……」
「…うん…」
「…ずっと姉さんだけが……」
「…うん…私も……」
「…私も…好きよ……」
遠くから、近くから波が聴こえる。目を閉じると少し怖いと思うその音。けれども。けれどもこの腕の中にいれば怖いという思いは消えてゆく。ゆっくりと、消えてゆく。
怖かったのは、泣きたかったのは。
きっと。きっと子供の時間に終わりを告げる事。
優しく暖かいぬるま湯に浸かっているような優しさ。
それがここにある。この子供の時間に。
これに終わりを告げる事が、私には不安だった。
けれども見上げた先の瞳の強さと。包み込む腕の優しさが。
こみ上げる不安と、切なさを打ち消してくれた。
違う場所へとゆく不安。ここではない何処かへと旅立つ怯え。
でも繋いだ手は、離れる事はないから。
「何時の間にか、私よりも大きくなっちゃったね」
「当たり前だよ」
「うん、そうだよね」
「そうなんだよね」
それでもやっぱり、ちょっとだけ泣きたくなった。
戻れない事への淋しさなのか?置いてきたものへの懐かしさなのか?
それは私には分からなかったけれども。
―――ただ、泣きたくなった。
だからこの手を離さないで。
私が泣いてしまわないように。
海の音に怯えないように。
―――ずっと、手を繋いでいて。
何時しか潮騒の音が耳から聴こえなくなる。降り積もる声と、そして。
…そして包み込む腕の強さのせいで……
END