生命の水
――――穢れゆく地上に、生命の水を注ごう。
こえをきいて。痛み、哀しむ、こえを。
悲鳴を上げている地上のこえを。
ただひとつ出来る事は。それだけだから。
痛みを、苦しみを、こうして聴くことだけだから。
その髪に、リボンを絡める。それがただひとつの俺達がした約束だった。風に靡くこのリボンだけが。
「たかちゃん、めーなのよ。そんな顔はめーなのよ」
大きな瞳が俺を見上げ、そしてそっと微笑う。姿形は子供なのに、その顔は母親のようだった。母親のような全てを赦し、そして包み込む笑顔。お前は何時からこんな顔を俺に向けていた?
「…ののみ……」
小さな指先が俺の髪に、触れる。そっと、触れる。そして結ばれるリボンはお前が普段髪につけていたもの。お前が肌身離さず身につけていたもの。
「笑うのよ。それが、一番なのよ」
「…ののみ…お前は……」
手を伸ばしお前の小さな身体をそっと抱きしめた。このまま力を込めたら、壊れてしまうだろ。ふと壊してみたい衝動に駆られ、そしてそれが収まる頃には、ただひたすらに。ひたすらに広がる哀しみに、心が悲鳴を上げるだけだった。
「…お前はこれで…これでいいのかっ?!」
枯れ果てた大地に、屍だけが広がる地上に。ただひとつの。ただひとつの残された希望の光。小さな身体に残された、ただひとつの光。
「たかちゃんをずっと見ていられる」
「…ののみ?……」
「ずっとね、見ていられるから。だから平気なのよ。ののみは、平気」
爪先立ちになって、お前は。お前はそっと。そっと俺の唇に自らのそれを重ねた。それが最初で最期のキス、だった。
枯れゆく地上。滅びゆく大地。それでも叫び続ける悲鳴を聴き。
その手を差し伸べる。その手を、差し伸べる。
自分自身と引き換えに、差し伸べられる手。小さな、手。
そでもその手は。その手は俺にとっては。俺にとっては。
――――ただひとつの手、なんだ……
枯れゆく大地に、生命の水を注ぎましょう。
滅びゆく大地に命の祈りを捧げましょう。
その調べがこの蒼い星を包み込む頃には。
小さなかけがえのないものがひとつ。ひとつ失われた。
「ののみっ!俺はっ!!」
うっすらと消えゆく身体を抱きしめた。手のひらから零れてゆくお前を抱きしめた。けれども、もう。もう輪郭はおぼろげで、ぬくもりを指先に与えてはくれない。
「…めーなのよ、たかちゃん…泣いちゃめーなの……」
頬に触れる指。俺の涙を拭おうと触れる指。けれども雫は擦り抜けてゆく。瞳から、擦り抜けてゆく。ぽたり、ぽたり、と。
透明な水が、枯れた大地に染みこんでゆく。それを止める事は誰にも出来なかった。
作られた命。小さな命。その身体に埋めこまれものは、ただひとつの命。この地上を再生出来るただひとつの、命。
「…ごめんね、たかちゃん…一緒に…いられなくて…」
その生命が大地の声を、地上の声を、生物の声を、この大地に生ける者全ての声を聴く。けれども。けれども。
「…ごめんね…でも見ているから…ののみ、見ているから……」
悲鳴を上げ崩れる地上を救うために解放し生命は、その存在自体を無に還す。母なる大地にその存在を。
「…ずっとね、あなたを、見ているよ……」
この大地の土になり風になり、そして水になる。光になり闇になり、そしてぬくもりになる。この小さな身体の中に埋めこまれた生命体こそが…この大地を修復する唯一のモノだった。
生命の水。溢れて零れるその水が、この地上を救う。作り物の命と、引き換えに。
「…みているよ…たかちゃん……」
声は風にかき消され、その姿は歪みぼやけ消滅する。そして残ったものは。
ただひとつ残されたものは彼女の『生』のないそのリボンだけだった。
地上に雨が、降る。命の雨が、降る。乾いた大地に、屍だけが埋める大地に。恵みの雨が、生命の水が、降り注ぐ。
「…ののみ…ののみ…どうして……」
そっと降り注ぐ。全ての残されし生命体に。残された…命に。癒しの水を、再生の水を。けれども。
「…どうして…俺は…お前がいればそれで……」
けれどももう。もう彼女はいない。この地上の何処にもいない。何処を捜しても、いない。
「…愛している…ののみ……」
それでもこの雨は彼女自身で、この地上は彼女だ。
注ぐ雨も、そこから覗く微かな光も、この大地も。
生けとし生ける全てのものは。全てが、彼女なのだから。
死ぬ事の出来ない鬼は、この地上を護り続ける。ただひとつの少女の祈りに答えるように。ただひとつの約束を果たすために。それは髪に絡まるリボンだけが…知っている。
END