海に眠る
――――欲しかったのは、ただひとつのものだけだった。
綺麗な紅い髪が、海に溶けてゆく。そっと、溶けてゆく。
きらきらと。きらきらと、太陽の日差しを反射して。
ゆっくりと、溶けてゆく。ゆっくりと、消えてゆく。
…欲しかったものは…ただ…ひとつだけ……
あの髪に顔を埋めて眠っていた時間はどれだけだっただろうか?
どれだけの時間だっただろうか?
ひどく長い時間だった気がするし、ひどく短い時間だった気もする。
永遠の時のようでいて、そして瞬きするほどの瞬間。
多分どちらも本当で、どちらも嘘だったのだろう。
「―――熾烈……」
皆死んでいった。ひとりひとり、死んでいった。死は容赦なく俺達に訪れ、飲み込んでゆく。今俺もその『死』に飲み込まれてゆくのだろう。
死にゆく事が怖いと思ったのは一度だけ。お前をこの腕に抱いたその瞬間だけ。その瞬間俺は初めて死にたくないと、思った。
今まで死など恐れはしなかった。そんなものに負けない強さを俺は持っているつもりだった。全てに立ち向かえる強さを。でもそれは。それはきっと。きっと失いたいと思うほどの執着心が、なかったから。
自分自身が死にたくないと思うほどの、手に入れたいものが。
でも今は、それもない。ただひとつ欲しかったものはこうして。こうして冷たくなっている。冷たくなってゆっくりと沈んでゆく。
「…わりーな…虎牙海まで…連れてってやれなくてよ…でもよ…海には…連れていったかんな…許せよ……」
言葉にするたびに、口から血が零れて来る。内臓までも貫かれているらしい。もう長くは持たないだろう。視界が少しづつ霞んでくるのが分かる。
それでも必死になって運んできた。動かなくなったお前の死体を。冷たくなって重くなった屍を。どうしても。どうしても海に。お前を海に返してやりたかったから。
―――お前をこの、蒼い海へと……
「…俺も…すぐに行くから……」
綺麗だと、思った。こんな時になってそれだけが俺の思考を支配した。
綺麗、だった。きらきらと太陽がお前を照らして。
ゆっくりと海に沈むお前を照らして。お前だけを、照らして。
きらきら、と。きらきら、と。光の粒子がお前の『死』を優しく包み込む。
ひとつ、涙が零れた。
何に対して零れたのか。
どうして零れたのか。
理由も訳も分からなかった。
ただ。ただ、一筋。
涙がぽたりと、零れ落ちる。
―――約束は、ただひとつだけだった。
『…虎牙海の海が…見たいな……』
『―――あん?』
『いや…しばらく見ていないから…ふと思っただけだ』
『戦いが終わったらいくらでも見られるぜっ』
『そうだな…その時は…』
『うん?』
『その時は、一緒に見てくれるか?』
『それってプロポーズ?』
『馬鹿者っ!何を言っているっ!!』
『ちぇっ、違うのか』
『…貴様はどうして何時も何時も……』
『しょーがねぇだろう?俺お前に惚れてるから』
『…そう言う事言うと…知らんぞっ』
『まあまあ、怒んなよ。行くからさ。一緒に連れてけよ』
『―――ああ…』
『…一緒に…見よう…あの蒼い海を……』
…約束、護れなかったな…
一緒に見たかったのに…
…一緒に…海を…
…見たかったのになぁ……
視界が霞んでゆく。
お前の輪郭がぼやけてゆく。
ゆっくりと死んでゆく。
冷たくなってゆく。意識が消えてゆく。
何もかもが無になってゆく。
でもそれでも消えないものはある。
消えないものは、あるんだ。
―――この想いは…決して…消えないから……
何時か海を見よう。虎牙海の蒼い海を。
何時になるか分からない。
どれだけの時が掛かるのか分からない。
どれだけの時間が巡るのか分からない。
それでも、何時かきっと。何時かきっと。
もう一度巡り合って、もう一度出逢って。
ふたりで、海を見にゆこう。
―――約束したかんな…だから…必ずもう一度…出逢おうぜ……
途切れゆく意識と、消えゆく記憶の中で俺は。
俺はただひとつの想いを胸に抱いた。
逃がさないように、と。決して消えないように、と。
END