癒しの手
暗く、冷たい闇の底。
見上げても空は何処にもなくて、ただ無限の闇だけが続いている。
永遠に真っ黒な闇だけが。
いくらこの手を伸ばしても。伸ばして、も。
何も掴む事は出来なくて。何も触れる事が出来なくて。
ただ、ただ無限に続く闇の中で。
―――俺はただ独り、膝を抱えている。
……光は何処に…あるんだろう?……
―――目覚めた瞬間、誰もいない。その事には慣れている筈だった。あの日以来…村を、姉を失って以来。ずっとずっと自分は一人だった。俺は、独りだった。
「…夢…か……」
口から零れる声が掠れているのが分かる。微かに息が荒い。ぽたりと音がして髪の先から雫が零れ落ちるのを感じた。汗、だ。気が付けば寝巻きは汗でぐっしょりと濡れていた。
「……俺………」
何かを声に出そうとして、それは寸での所で止められる。今もしも声にしてしまったなら闇に溶けてしまうのではないかと言うような気がして、どうしても言葉に出来なかった。
濡れた夜着を着替えようと立ち上がる、その途端くらりと足元が崩れた。
――――情け無い……
頭を過った言葉はそれだけだった。こんな場合ではないのに。こうしている間にもあいつは…不知火は…。気持ちばかりが焦っているのが自分でも分かる。そしてそんな事をしていてもどうにもならない事も。とにかく今は身体を休めて、黒田城に向かう為に力を蓄えておかねばならないのに。それなのに…それなのに気持ちばかりが焦っている。
―――早くいかねば、と。早くお前を助けなければと……
自分の命よりも他人の命が大切なお前。自分のことは省みず他人の為に生きているお前…だからこそ。だから、こそ。
「…死んだり…しねーよな……」
口に出した声の思いがけない情け無さに、俺は小さく身体を震わせた。
底の見えない闇。天井の見えない闇。
俺はその中を独り歩き続ける。ずっと歩き続ける。
脚が動かなくなるまで、脚が動かなくなっても。
ただひたすらに歩き続ける。先の見えない闇。ただの闇。
ずっと、そうだった。ずっとずっと、そうだった。
――――光は何処にもない。
…光は何処にも、ないんだ………
『…一馬……』
誰かが俺の名前を呼んでいる。
誰だ?姉さんか?
『一馬…貴方は独りではありません……』
違う姉さんじゃない…その声は。
…その声、は……。
―――ただひとつ、俺に差し出された手。
襖を明けた先の見上げた月がひどく紅い色をしていた。まるで血を吸い取ったような真紅の月。この歪んだ世の中にはひどく相応しい色をしていると思った。この狂った世の中には。
濡れた夜着を着替えて、汗ばんでいる身体に夜風をあたらせる。ひんやりとした風はひどく身体に心地よかった。まだ治りきらない傷には染みたが、それよりも濡れた身体を擦り抜ける心地よさの方が今の俺には勝っていた。
「…不知火……」
言葉にする気はなかったのに、口許から声が零れていた。ゆっくりと闇に溶けてゆく俺の声。お前の、名前。ひどく壊れそうに響いたのは俺の気のせいだろうか?
―――俺はまた、護れなかった……
大切な人を護る事が出来なかった。この手で護る事が出来なかった。どんなにどんなに強くなっても、強くなっても…結局俺は俺自身何一つ成長していない。またこうして大切なものが俺の手を擦りぬけてゆく。
……俺の手のひらから…零れてゆく……
手。手が、差し出される。
闇の中。闇しかないこの場所に、細くて小さな光が灯る。
その光を頼りに俺は必死になって走った。
脚はもうぼろぼろなのに。身体ももうがたがたなのに。
それでも俺はその光目掛けて、その小さな光だけを頼りに走り出した。
―――差し出される、手。
俺に差し出される手。必死に俺は手を伸ばした。
……お前に届くように…手を、伸ばした……
ずっと、独りだったから。
村が無くなって、姉が死んで。
ずっとずっと独りだったから。
だから忘れていた。
誰かが隣にいる事を。振り返ればそこに視線がある事を。
嬉しい時に一緒に笑ってくれる事を。
哀しい時に一緒に泣いてくれる事を。
俺はずっと、忘れていたんだ。
目覚めた瞬間に包み込んでくれる瞳が、在ることを。
「…不知火……」
もう一度名前を呼んだ。闇に溶けると分かっていても。
それでも俺はお前の名を呼ぶ。
呼ばなければその存在自体が否定されるような気がして。
今呼ばなければお前が…消えてしまうような気がして……。
「…しら…ぬい……」
名前を呼んでいる間は、怖くはない。
お前の存在を感じる事が出来るから。
怖いのは名前すら呼べなくなってしまった瞬間。
その時は、俺は。俺は一体どうなるのだろう?
差し出された手に、俺は一生懸命伸ばした。
風が俺の身体を包み込む。俺は堪えきれずにその場にずるりと座り込んだ。そのまま膝を抱えてうずくまる。紅い月を見ているのが怖かった。ひどく、怖かった。紅い血の色を思わせる月が怖かった。どうしてだろう?あれだけ俺は人を切ってきたのに。あれだけ俺は人を殺してきたのに。どうして今こんなにも。こんなにも血の色が怖いのだろうか?
「…俺を…独りに…するのかよぉ……」
言葉の最後の方が涙で滲んでいるのに気付いた時は、俺の頬からは熱い雫が零れ落ちていた。ぽたぽたと、ぽたぽたと。
「…バカ…ヤロ……」
―――ただ頬を熱い涙が伝っていた……
一馬、貴方は、本当は誰よりも淋しい。
身体もこころも傷だらけの貴方。
それでもその傷を隠そうと強がっている。
身体を肌が見えないように布で覆い隠すのも。
他人に触れられるのを激しく拒むもの。
そして何時も睨みつけている視線。他人を拒絶している瞳。
けれどもその全てが。その全てが貴方にとって。
―――助けて欲しい…その言葉の裏返しだから………
…一馬…私が貴方を、包み込んであげたい。
貴方の傷を癒してあげたい。貴方の心も身体も。
―――私の手で、癒してあげたい。
誰よりも淋しく、哀しい貴方を。
癒しの手。癒される手。
それを本当は誰よりも求めていた。
誰よりも欲しがっていた。
けれどもそれを言葉にする程。それを望む程。
この世の中に希望を持てずに、背中に生えた絶望の翼が。
俺の身体を、心を蝕んでいった。闇に犯されていった。
光なんて何処にもない。空なんて何処にもない。
―――希望なんて、何処にもない。
『一馬、貴方は独りじゃない』
差し出された手。唯一差し出された手。ただひとつの光。
その手に俺は。俺は一生懸命に…手を…伸ばした……
零れ落ちる涙を風がそっと拭う。乾く事のない涙を拭う。それはほんの気休めでしかなかったけれど。
―――どうしてだろう?それをひどく優しく感じたのは……
END