紅い華
…この瞬間が夢ならば醒めないでと。心の何処かで、祈っていた……
ぽたりと落ちた紅の華の匂いに。そのむせかえる程の匂いに。自分は酔いしれた。
「おめーは、本当に紅が似合うぜ…」
そう言って微笑って、血まみれの腕で自分を抱き寄せた。ぬるりとした感触が首筋に纏わりつく。その感触すらひどく甘美なものに思えた。
「だから俺の血で染めてやるよ…壬生……」
血まみれの腕で抱きしめられて、噛みつくように口付けられる。その瞬間になって初めて、自分は気が付いた。
…そう、初めて……。
…自分が彼を、愛しているという事に……。
今まで自分を支えてきたものは暗殺者としてのプライドと、母親の命だけだった。それ以外のものは自分に必要なくて、それ以外のものは自分は持ってはならないものだった。
これ以上他の何かを抱えたら、その重みに耐えられなくなって自分が破滅すると。それしかないと、分かっていたから。だから。
だから何も考えずに、ただ人を殺した。まるで機械のように。そう機械に心なんていらないから。心なんて、いらないから。
なのにどうして?こんなに彼を憎いと思うのは。こんなに彼を殺したいと思うのは。
心がいらないのなら、憎しみも殺意も必要ないのに。なのにどうして?
…どうして自分は…彼を殺したいと思ったのだろうか?……
口付けけて、唇を噛みきった。そこから滴る血を村雨は全て自らの舌で舐めとった。全てを奪うかのように。
「…村雨…さん……」
吐息混じりの甘い声。夜に濡れる声。その全てを欲しいと、思った。ただ、それだけだった。愛も恋も想いすらも、関係無い。ただ自分は。自分はこいつが欲しかっただけだ。
鋭い刃物のような視線と、その先にある微妙な不安定さと。誰も寄せ付けない遮断された空気と、そこから漏れる淋しさと。その交じり合った全てを、自分は手に入れたかった。
だから。だから何時も想っていた。どうしたらこいつが自分のものになるのかを。
無理やり犯して、身体を奪っても。優しく手を差し伸べて、心を奪っても。それでも全てを奪えない。どちらを与えても、彼の全てを奪うことなんて出来ない。
「もっと、してやるよ。お前は本当にキスが好きだな」
血が止まらない真紅の唇を村雨はただ純粋に綺麗だと。綺麗だと、それだけを思った。そしてその綺麗さを汚したくて、激しく唇を奪う。壬生は一切抵抗しなかった。
薄く唇を開けて自ら村雨の舌を受け入れた。絡み合う舌が互いの意識を奪ってゆく。このま溶けて何もかもぐちゃぐちゃになってしまえれば、それが何よりも幸福なのかもしれないと、ぼんやりと想いながら。
「…もっと…やるよ…壬生…俺の血を全部やるからよ…だから……」
絡めていた舌に噛みついてきた壬生をより深く抱き寄せて、そのまま舌を噛み切らせた。何時しか口中には鉄の味が広がり、それがまたいっそう暗い欲望となってふたりを満たしてゆく。
「…だから…俺のものになれ……」
無理やり抱かれた事が、悔しかったのか?それとも優しく抱きしめられるのが、哀しかったのか?
今となってはもう、分からない。ただ、消えてほしかった。
自分の目の前からその存在を消したかった。自分の視界に二度と入ってほしくなかった。自分の心の中に…入ってほしくなかった……。
何も考えたくない。何も知りたくもない。それなのに剥き出しのままの心で自分の中へと飛び込んでくる。閉じ込めていたものを強引に抉じ開ける。
それが許せなかった。許せなくて悔しくてそして、憎んだ。
自分の目の前からその存在を消したかった。その全てを無にしたかった。今までの何も無い空っぽの自分に戻りたかった。それなのに。
それなのに自分は今彼の存在で埋められている。それが、許せなかった。
…自分が自分で無くなる事が…怖かった……。
「…貴方のものになんて…ならない……」
暖かい、身体。動いている鼓動。でもそれももうじき止まるだろう。望みが、叶う瞬間。その瞬間を自分は焦がれるほど待ちつづけている。
「へっ言ってくれるね、壬生。まあいいさ。お前の顔を最期に見れて死ねるなら…それも幸せだろうからな……」
「…僕が、好き?……」
優しい囁き。甘い言葉。そんなものはなにひとつ与えてはくれなかった。ただ強引に自分を犯して、勝手気ままに性欲の捌け口にして。でも。
「好きって言ってもお前は信じねーだろーからな」
でも口付けは、泣きたくなるくらいに優しい。
「信じますよ、今なら。だってこれは貴方の遺言だから」
抱きしめてくれる腕は、哀しいくらいに暖かい。
「へ、遺言ねぇ…そうだな、ならば…紅葉……」
髪を撫でる指先も…苦しい程に………
「…紅葉…愛してるぜ……」
呼吸が浅くなってゆく。抱きしめる腕の力が弱まってゆく。それを感じながら、全てを感じながら自分は。
「…僕も…貴方を愛していますよ……」
このひとを愛していると、そう思った。
冷たくなってゆく身体に全てをあずけながら。消えゆく鼓動に耳を傾けながら。
この瞬間が永遠に続けばと、それだけを想った。
…このまま永遠にふたりだけで世界を閉じてしまえたらと……
End