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…その腕でそっと、抱きしめてくれたなら。
何もいらないと。何も欲しくないと。そう、思った。
嘘じゃない。貴方がいてくれれば、それだけでいい。
透明な水の中にいるみたい、だった。足元から浸透した水が全身を包み込み、そして。そして自分の身体を隙間無く埋めてゆく。そしてその水に抱かれた自分は、まるで母親の体内に包まれたような、そんな安心感で満たされてゆく。このままこの水の中で永遠に眠りたいと、そう思った。
嘘でもいい。今だけでいいから、好きだっていって欲しい。
目が醒めた瞬間に泣きたくなったのは、その優しすぎる笑顔のせい。
「…如月さんだ……」
その言葉を呟いた壬生の表情があまりにも無邪気で、そしてあまりにも無垢だったから。如月はつい、口許に柔らかい笑みを浮かべた。
「…これ…夢かな ?……」
まだ寝ぼけまなこの表情で彼は如月を見上げた。まだ視界と思考がぼんやりしているらしい。普段の彼からは想像も出来ない程の、子供染みた表情、そして仕草。
「夢じゃ、ないよ」
そう言って眠り姫を目覚めさせるように、そっと如月は壬生に口付けた。けれどもその甘やかなキスがまだ壬生を夢の中に住まわせているみたいだった。
…こんな事…現実にはありえない、と。心の何処かが言っているから……。
「夢でもいい…貴方がキスしてくれるなら…ずっと夢の中にいたい……」
「夢じゃないよ、紅葉。ほら本物の僕だよ」
そう言って如月はそっと壬生を抱き寄せた。胸に顔を埋められそして耳元に届いた心臓の鼓動を聞いて…初めて壬生はこれが夢じゃないと…夢なんかじゃないと、気が付いた。
「…如月、さん?…」
驚愕に瞳を見開いたまま壬生は如月の顔を見上げる。その先にある綺麗な笑みは、やはりこれは夢なのかと思わせる程で。でも抱きしめてくれる腕の暖かさが、これを現実だと教えてくれた。
「どうして?…どうして貴方がここに?…」
投げかける疑問符は、けれども如月の再び降りてきた唇によって答えは出なかった。ただこの時点で壬生が認識できたのは、ここが自分の部屋でそして如月が自分を抱きしめていると言う事だけで。
それだけが今の壬生の、事実だった。
「僕のキスを君は逃げない…これは自惚れてもいいのかな?……」
大きくて優しい手が壬生の頬を包み込む。そこから染み込む暖かさが、壬生の全身に浸透してゆく。その泣きたくなるくらいの暖かさが。
「…僕は…如月さん…っ!」
勢い余って起き上がろうとした壬生の腹部を鈍い痛みが襲う。その瞬間になって、自分は全てを思い出した。薄くぼやけたその記憶の先の、深くて暗い闇に。
「…紅葉?…」
如月の目にも分かる程壬生の身体が震える。その振動は直に如月の腕に、心に伝わる。彼は、思い出したのだ…自分がさっきまでどんな目にあっていたかを。
「…僕は……」
全身の血が抜けてしまったような真っ青な顔で自分を見上げる彼がいたたまれなくなって、如月は再びその唇に口付けた。色を無くしたその唇を温もりで暖めるように。
「何も、言うな…紅葉…何も言わなくていいから……」
震える身体を閉じ込めようとするかのように如月は彼の身体を力の限り抱きしめた。その全てを、自分の腕の中に閉じ込めてしまうように。
「このまま…僕の腕の中にいてくれ……」
骨が砕けてしまうほど力強い腕に抱きしめられた瞬間、このまま粉々に砕かれたら幸せだと…壬生は思った。
天使のような無邪気さで、あの男は微笑う。
『…まさか、貴方が出てくるなんて思いませんでしたよ…意外な組み合わせだなぁ』
「…霧島…貴様……」
『美味しかったですよ、壬生さん。でも初めてじゃないですよね、男と寝るのは…相手は貴方だったんですか?』
それは違うと心では否定したが、それを口に出す事はしなかった。口に出した所で、それを完全に否定出来ない自分がいる。確かに自分は…彼を手に入れたいと、抱きたいと思っていたのだから…。
『僕はてっきりあの‘館長’が壬生さんの相手だと思っていたんですが…まあどっちでも僕はいいですけれど』
「…何故貴様、こんな事をした?…」
『壬生さんが僕を‘甘ちゃん’なんて侮辱するからですよ。だから組み敷いた、単なる僕の自己満足の為ですよ』
悪びれもせずに笑うこの男は、何だか自分とは違う生き物のような感じさえした。それは単純な嫌悪感だけでは言い表せない何かが、如月の全身を支配する。
「自己満足で紅葉を汚した罪は重いぞ、霧島」
けれどもそれを跳ね返す強さを、また如月は持っていた。だからこそ。
『……僕は貴方だけは敵に廻したくなかった…とんだ計算外ですよ……』
如月は微笑った。それは見る者全ての魂を奪う程綺麗で、そして全ての者を凍りつかせる程壮絶な笑みだった。
綺麗と恐怖が同一の意味だと、そう思わせるほどの。
「僕は君を許さないよ」
『…貴方は龍麻先輩に心を奪われていると思ったのに…何故壬生さんなんですか?』
「君に答える義務は無い」
『分かりました、僕だって自分自身は大切だ。これ以上貴方の機嫌を損ねたくない』
「二度と紅葉に近づくな。いいか、霧島。僕に二度目はないぞ」
『…本当に怖い人だ。そんなに綺麗な顔をしてるのに…』
「僕を本気で怒らせたのは、君が二人目だよ」
『…一人目は?…なんて聞くのは野暮ですね…そんなに壬生さんがいいんですか?』
「…殺せるよ、僕は」
如月は再び微笑う。その綺麗な笑みはぞくりとする程の恐怖を与える。綺麗故に、綺麗過ぎる故に。見る者全てに、恐怖を…。
「紅葉を傷つける者全てを、この手で殺すよ」
『恋に溺れる男ほど、怖い者はないって言うけど…貴方は格別ですよ、如月さん』
「分かっているのなら、失せろ。二度と僕らの前に現れるな」
全てを壊してしまいたいと思うほど、君を愛している。
腕の力が揺るんだと同時に、再び如月の唇が壬生のそれを塞いだ。触れるだけの口付けなのに、こんなにも瞼が震えるのは貴方だから…。
「…好きだよ、紅葉……」
唇が離れたと同時にそっと耳元に囁かれた言葉に、再び壬生の瞳が見開かれる。そして信じられないと言った表情で如月を見つめ返した。
「…う、そ……」
「僕は君にだけは嘘は付かないよ。ずっと好きだった、君が」
ずっとずっと、好きだった。ずっとずっと愛していた。こんな風にこの身体を抱きしめて、その唇にずっと口付けたいと。そう、思っていた。
「どうしたら君が僕のものになってくれるか、そればかり考えていた。愛してる、紅葉」
君の繋がれた鎖をどうしたら解けるか。君を縛るあの男からどうしたら奪えるか。ずっとそればかり考えていた。だからこそ。
「愛してる、紅葉。だから僕のものになってくれ」
だからこそ、自分が許せない。君をこんなめに合わせてしまった、自分自身の力不足が。許せない。君を苦しませているこの現実が。
「僕の腕の中にいてくれ…もう君をこんなめに合わせたくない…僕の目の、手の、届く場所にいてほしい……」
「…如月…さ…ん……」
壬生はその言葉の全てを確かめるように、その名を呟いた。これが夢ならば、永遠に醒めなければいいと、そう思いながら。でも。
「…きさら…ぎ…さん……」
でも抱きしめてくれる腕が、囁く声がこれは夢じゃないと伝えてくれるから。
「…嘘でも…いいです…その言葉が僕に対する慰めでも…それでもいいです…今だけで…いいです……今だけで…いいから……」
「どうして?僕は同情で同性に告白出来るほど、強かには生きていないよ」
「…でも…貴方は龍麻の事が……」
「龍麻は大切だ。それは嘘じゃない。でも君に対する気持ちとは明らかに違う」
「…嘘……」
「…僕が…抱きたいと思うのは…君だけだ……」
確かに龍麻は『運命』を預けた相手だ。でもそれは自分の身体を流れる飛水の血がそうさせるのであって『如月翡翠』の意思は別の所にある。そう…自分自身の心は、彼だけを求めている。この腕の中で小さく震えるこの何よりも愛しい存在を。
「好きだよ、紅葉」
真実だけを映し出す綺麗な如月の瞳が、真っ直ぐに壬生を捉える。その瞳が見せるのは真実だけ。如月の本当の心だけ。だから。
「…僕も…ずっと…貴方だけが……」
だからもう、自分の心を偽れない。僕はこのひとが、好きだ。
「…貴方だけを…如月さん……」
「僕のものに…なってくれるかい?」
如月の言葉に。壬生は小さく、頷いた。その瞬間涙が零れそうになった。
「…僕を…抱いてください…如月さん……」
消え入りそうな小さな声で、胸の中で呟く壬生の髪をそっと如月は撫でた。その身体が小刻みに震えているのが、切なかった。
「出来るなら直にでも僕は君が欲しい。でも…でも今はこうしているだけでいい。君の傷が癒えるまで…無理強いはさせたくない……」
「…如月…さん……」
「…このままこうしていられるだけで…僕は……」
「…じゃあ…今日は……」
「…今日だけでいいです…傍にいてください……」
「今日だけじゃない。これからはずっと君のそばにいるよ」
抱きしめる腕の、限りない優しさと。泣きたくなる程暖かい、その声が。その全てが壬生を癒してく。その、全てが。
「でもそうだね…今日は…」
如月は柔らかく微笑うと、そっと壬生の手を自らの手で包み込んだ。暖かくて大きな手が、ひどく壬生を安心させる。そして。
「今日は、このまま眠ろう。ずっと手を繋いだまま」
君が安らかに、眠れるように。
「…はい、如月さん……」
指を絡めて、そしてこのまま。
このまま眠ろう。そして優しい夢を見よう。
優しさだけが、包み込むこの部屋で。
この人の腕の中で。
…初めて…知った。好きな人と眠る事がこんなに安心出来る事を……。
「…君を傷つける全てのものから、僕が護る…だから……」
…だからずっと、傍にいてくれ。
誰にも聞こえないように呟いたその言葉は。たったひとつの祈り、だった。
End