執着
――――君のその瞳は、嫌いじゃない。
それは静かに芽生える独占欲。胸に広がる執着。
自分よりも違うものを見ているその瞳を、自分だけに向けたいと言う欲望。
自分だけのものにしたいと言う、欲望。
その瞳に噛みついて、そして。そして自分だけのものにしたい。
「君のその目は嫌いじゃない」
何も言わずに面を彫る弥勒を見つめていた梅月が、不意に言った。彫る事に集中していた弥勒は初めてその声に、彼の存在を思い出す。
忘れていた訳ではなかった。ただ夢中になると思考から、全てのものが消えてしまうのだ。面以外のものが…消えてしまうのだ。
ただ一点に集中した神経が、他のものを全て自分の中から皆無にさせる。世界が面と、自分の存在だけになる。
「その面を彫る時に集中する目…何よりも綺麗だと思う」
何時から梅月がそこにいたのか、弥勒には思い出せないほどだった。ただ気付いたらそこにいて、そして自分が面を打つのを静かに見ていた。何も言わずにただ見つめているだけだったから、その視線すらも何時しか面に対する集中の中では見えなくなっていた。
「―――男に使う言葉ではないと思うが……」
自分を見下ろす涼しげな瞳を見つめながら弥勒は答えた。普段は変わらない身長差もこうして自分だけが座っていれば、自然と見上げる格好になる。慣れない角度から見る梅月の瞳は、何故かひどく心を波立たせた…そうまるで全てを見透かすように自分を見つめるから。
まるで心の奥底まで、見透かすような瞳で自分を見つめるから。
「綺麗だから、そう言った。僕は君のその瞳を見ているのが嫌いじゃない」
近づく足音がほとんど聴こえなかった。ひどく身のこなしの軽い男だと言う印象がある。戦いに身を置かず歌人として俳句を作り続けているくせに、だ。
文化人にであるはずなのにひどく。ひどく彼は身軽な印象を受ける。まるで猫のようなしなやかさと、何処か獣を思わせる動き。外見からは最も遠い印象を受けるのに、なのにひどく目の前の男は野生の獣の匂いがする。
「気に掛かる言い方だな―――嫌いじゃないとは…」
近づく梅月の瞳を、弥勒は反らす事無く見つめた。何故かその瞳を反らすことが自分には出来なかった。吸いこむような、全てを見透かすようなその瞳の前では。何もかもが、無力のような気さえする。どんな言葉を紡ごうが、全てが見透かされ暴かれるような気がする。
「ああ、嫌いじゃない。でも好きでもない」
ぱさりと風に髪が、揺れた。それが弥勒の頬に掛かる。そしてゆっくりと。ゆっくりと睫毛が重なって…そして。
―――そっと、触れる、唇。
「その瞳を見せるのは僕ではなく、面…だからね……」
口許が笑みの形を作り、弥勒を見下ろす梅月の顔が。ひどく。ひどく怖いと思った。怖いと思いながら、目が離せなかった。恐ろしいほどに綺麗な顔をした男が、艶やかに自分に向かって微笑う。紅く見える唇がひどく鮮やかに弥勒の瞳に焼き付いて。
「…梅月……」
喉から出てくる声がひどくざらついているのを感じる。こんな感覚は今まで他人に持ったことはなかった。こんな、気持ちは。
「どうしたら君は、僕だけを見てくれるだろうか?僕だけを…見つめてくれるだろうか?」
手が伸びてきて、頬に触れる。白い手がひんやりと冷たかった。こんなにも手が冷たいと感じるのは、自分の肌が熱いせいなのだろうか?熱さがこの手の感触を、実感させるのだろうか?
「どうしたら君を…独占できるのだろう?」
頬を触れていた手が、そっと滑り首筋に絡まる。そのまま両手を梅月は弥勒の首に絡めた。
「ふざけるのもいい加減に――――」
弥勒の言葉は最期まで声として発せられなかった。再び梅月の唇が弥勒のそれを塞ぎ、そのままきつく首を締めた。その腕を振り解こうにも、片腕しかない弥勒にはそれが出来なかった。
きつく締められて息が出来なくなる。耐えきれずに口を開けば、生き物のような梅月の舌が口中に滑り込んで来た。
「…んっ…ふっ……」
そのまま逃げ惑う弥勒の舌を梅月は絡め取る。そのまま舌裏を舐めて、きつく根元を吸い上げた。そうして弥勒が逃げられないように追い詰めて初めて、その首に込められた指の力が止められる。
「…やめ…梅…んっ……」
腕が弥勒の背中に廻されて、そのまま引き寄せられた。唇を何度も吸われ、意識が朦朧としてくる。巧みな口付けに酔わされ、こめかみが痺れてくるのを止められなかった。
「…んん…はぁっ…ぁ……」
飲みきれない唾液が口許から零れる。それが顎に伝い床にある面に零れた瞬間、唇が開放された。そのままざらついた梅月の舌が、零れる唾液の線を辿る。そのたびに、びくんっと弥勒の睫毛が震えた。
「―――好きだよ、弥勒」
「…梅月……」
耳元で囁かれる言葉。繰り返し囁かれる言葉。それを自分はどれだけ聴いただろうか?どれだけ、聴いてきただろうか?
初めは何を言っているのかと思った。何を自分に言っているのだろうと思った。冗談だと…思っていた。
彼の廻りには何時も女人が群がり、涼しげに微笑っている印象しかなかったから。例えその目が決して微笑っていなくても、口許だけで微笑う男だとそう思っていたから。
そんな男が自分の前では、微笑った。面を彫っている自分をひどく楽しそうに見つめて。見つめて、言った。
――――君が、好きだよ…と。
羨ましいと言った。片腕がなくても、君はそれ以上のものを持っていると。自分は何もかもを与えられていながら、何も持っていないと。だから初めはそれが何よりも羨ましかったのだと。
でも今は、違うと。今は別の想いが、支配していると。
微かに潤む視界でその瞳を見つめれば、静かに微笑んでいた。その顔を知っているのは自分だけだと気付いたのは、何時からだっただろうか?
「…俺は…ただの面打ち師…つまらん男だ……」
その瞳が自分だけに向けられていると気付いたのは、何時からだったのか?何時からこの、瞳を。
「その『ただの』が僕にとって何よりも得難いもので、そして憎むべきものだ」
表面情は優しく、けれどもその裏に潜む激しい刃を。全身を貫かれるような激しさを。刃物のような、視線を。
「面に執着する君に焦がれ、執着しすぎるが故に君を憎む。どちらも君が好きだからだ」
その視線に貫かれ奥まで抉られて、全身を絡め取られる。まるで細い糸が無数に自分に絡みついて、そして逃れられないとでも言うように。
「君が、好きだから」
そうして抱きしめられて、その腕を振り解けないのは…もう自分が囚われてしまっているからだと。この男に絡め取られてしまったからだと、気付いたのは何時だった?
その瞳が、欲しかった。面に向けられる一途なまでの想い。
ただひとつのものに向けられる、その瞳が。その瞳が何よりも綺麗だったから。
どんなものにも執着が出来ず、どんなものにも諦めを感じていた自分が。
そんな自分が見つけ出した、ただひとつのもの。ただひとつの綺麗な、もの。
…どんな手を使ってでも、僕はその瞳が…君が…欲しかった……
―――――君の瞳が、僕を狂わせた………
End