木陰

木々の隙間から零れる光に顔を上げたら、ひどく綺麗な顔がそこにあった。
「珍しいね、君が工房にいないのは」
「―――梅月……」
見ていた書物をその場に置いて、弥勒は自分に声をかける人物の顔を見つめた。相変わらず綺麗な顔だった。かと言って、女に使う『綺麗』とは明らかに違うものだが。
「おまけに面を売っている訳でもなくこうして、木陰で読書なんて…珍しい」
くすりとひとつ微笑って、梅月は弥勒の横に腰を掛けた。その一連の動作がまるで流れるようで、不覚にも弥勒はじぃっと見つめてしまった。普段面以外の事に関心のない自分が、こんな風に視線を奪われること自体が稀だったが。けれども何故かこの目の前の男には、視線をこうして盗まれることが度々あった。自分でも不思議なくらいに。
「いいだろう、別に」
あまり視線を向けているのも変な感じがして弥勒は梅月から視線を外した。そんな彼の仕草を梅月はひどく愛しげな瞳で見つめる。こんな彼の不器用なところは、何よりも梅月にとっては気にいっている部分のひとつだった。こんな風に、時々戸惑うような顔をするのが。
「悪いとは言っていないよ。ただ」
視線を反らした弥勒の頬に梅月の手が掛かる。それはひどくひんやりとした手だった。冷たい手、だった。そう彼の手は何時も冷たい。最初に触れる時は、こんな風に。けれどもまた知っている。その手がどんなに熱くなるかを。自分の神経すらも溶かしてしまうほどに…熱く激しくなることも。
「ただ僕の誘いには滅多にのらないのに、一人では出掛けるのだと思うと…少々むかつかずにはいられないなと」
「…梅月…んっ…!……」
にっこりと微笑うと、梅月は強引に弥勒の唇を塞いだ。抵抗する間もなく口付けられてそのまま腕の中に閉じ込められる。梅月の指がそっと、弥勒の髪を撫でた。普段は作業の為に布で隠されている、その漆黒の髪を。
「…離せ、人が来たら……」
唇が離れて真っ先に零れた弥勒の言葉に梅月はひとつ微笑った。そんな彼の身体を腕の中に閉じ込め耳元で囁く―――見られても、構わないと。


風がふわりと、吹いた。その風の心地よさに諦めたように弥勒は溜め息を付いた。このまま身体を突き放して腕から逃れることも出来たけれど、けれども後で散々攻められるのは自分の身体なのだからと、諦めた。
この男に抱かれるのは…嫌ではなかった。初めは抵抗も戸惑いもあっけれど、今はそれよりも。それよりも別の感情が自分に芽生えている事に、気が付いたから。
「…君は…どうしてこんなにも……」
こんなにも俺を独占したがる?と言おうとして、弥勒は止めた。今更聴いたところで返ってくる答えは同じなのは分かっているから。
そう、何時も。何時も彼は言う。自分だけのものにしたいと。自分だけのものに、したい、と。その為ならばどんな事でもするよと。
「君が好きだから、弥勒」
囁かれる言葉に顔を上げれば、思いがけず真剣な瞳にかち合う。その瞳にどうしていいのか分からずに、見つめ返すことしか弥勒は出来なかった。他人との繋がりに慣れていない彼には、こんな時本当にどうしていいのか…分からないのだ。
「好きだよ、弥勒。僕だけのものだ」
唇が額に降りて来て、そのまま睫毛に口付けられる。睫毛の先に感覚はないはずなのに、弥勒は自分が微かに震えるのを感じた。ただこうされるだけで、ひどく。ひどく心が震えるのを自覚する。そうだ、これが。この想いが、自分から抵抗を奪う。彼に抱かれることへの、彼に抱きしめられることへの。

――――この胸の奥に芽生えた言葉に出来ない、想いが。



「…君は、変わっている……」
嫌じゃない。こうして、触れられることが。
「―――どうして?弥勒」
こうして抱きしめられることが。こうして。
「…こんな俺に『好き』だなんて言う…」
抱きしめられて、口付けられることが。
「…変人だ、君は……」
何時しか自分から、望むようになっている事に。


「そうだね、君を好きになりすぎて…変人になっているかもしれない」



そうしてまたひとつ、微笑って梅月は弥勒の唇を塞ぐ。甘い口付けだった。瞼が、こころが震える程に甘い。この甘さが何時も弥勒の神経を溶かし、そしてこころにどうにも出来ない感情を埋めさせる。言葉に出来ない想いを。
「せっかく君が外にいるのに、不健康なことをしているね僕は」
そう言いながらも決して梅月は弥勒から腕を解こうとはしない。背中に廻した手を何度も撫でながら、弥勒の体温を感じる。心地よい、そのぬくもりを。
「…何もこんな青空の下でなくても、いいだろ?……」
そして何時しか梅月の背中に廻された弥勒の手も、そっと。そっと梅月の体温を指先で感じていた。指先で、手のひらで、感じていた。
「その言葉は都合よく解釈してもいいのかい?」
「―――え?」
疑問を浮かべた弥勒の頬を梅月はそっと撫でる。愛しげに、何よりも愛しげに。そして。そしてまたひとつ、微笑って。


「青空の下でなく、もっと別の場所ならって」


梅月の言葉に腕の中の、弥勒の体温が微かに上昇する。表情は相変わらず何時もの無表情で何一つ変わらなかったけれど。けれどもこうして梅月だけは、彼の変化を知っているから。
「…君は…どうしてそう……」
「違うのかい?僕は何時でも君が欲しくてたまらないのに」
直接的に言われた弥勒は耐えきれずに梅月から視線を外すと、そのまま俯いてしまう。この男には羞恥心など無意味なのだろう。ここがどんな場所であろうとも、今がどんな時間であろうとも。こうして自分の思った事を迷う事無く真っ直ぐに、自分に伝えるのだろう。

こうして迷う事無く、真っ直ぐに。真っ直ぐに自分の思いを。

「…ここは……」
けれどもそれを。それを心の何処かで望んでいる自分がいる。こうしてこころの何処かでそんな風に言われたいと思っている自分がいる。
「…木陰だから……」
他人に関心がないから、他人の気持ちにも関心がなかった。自分の気持ちにも関心がなかった。だから、分からなかった。だから、分からない。瞬時に他人の気持ちを、些細な気持ちの変化を。だから。だからこうして真っ直ぐに。真っ直ぐに伝えられる想いは…嫌じゃないから。
「―――これくらいは、構わない…だろう……」
だから。だから自分はこうやって。こうやってその気持ちを嫌じゃないと…伝えたいから。



少しだけ驚愕した梅月の表情を瞼の裏に焼き付けて、弥勒は自分から口付けた。





「…驚いた…君がこんな事をしてくれるなんて…でも嬉しいよ、弥勒」






End

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