ささやかな時
何気ない日常が、ただ独りの相手によって突然違ったものへと変わる。
今まで当たり前だったことが当たり前じゃなくなったり、違ったものに見えたり。
今まで見てきた景色が、全く別のものに見えたり。それは。
それはひどく、不思議で。けれどもひどく心地よい瞬間、だから。
「つまんねーよ」
頭上から聴こえてくる声に弥勒は顔を上げた。そこには不貞腐れた風祭の顔があった。こんな風にすぐに顔に機嫌が出るから、分かりやすい。今彼が、何を想っているのか。
さっきうるさいまでの声を上げて、どかどかと家にやって来た。それは何時もの事なので、弥勒は何も言わなかったが。しかしそんな事を思っていたら、ちょこんと自分の前に座って来て面作りを眺め始めたのだ。それは非常に風祭の行動パターンでは珍しいことだったのだ。
何時もなら駄々を捏ねながら『俺を構えーっ!』とうるさいまでに言って来るのに、だ。
しかし案の定と言うか…やっぱり耐えきれなかったのか、その場を立ち上がるとそう言って来たのだ。
「せっかく俺が来てやったのに…お前面ばっかみてて、つまんねーよっ!」
子供のように頬を膨らませ…実際子供なのだが、タダを捏ねる様子は弥勒にはひどく可笑しくみえた。こんな風に感情を剥き出しにして自分に接する相手は、今までいなかったから。自分が面ばかり対峙してきたせいだろうか…こんな風に真っ直ぐに自分を見せてくる相手が。
「―――すまぬ…集中していた」
見上げて、素直に謝った。謝らないと癇癪を起こすのが目に見えている。とにかく自分を一番に考えて、そして見てくれないと我慢出来ないのだから。
「ちっ、いっーつもお前はそればっかだ。俺よりも面の方が大事なのかよっ!」
不貞腐れていた顔が何時しか泣きそうな顔になる。こんなにも彼は子供だ。自分の気持ちを真っ直ぐに。真っ直ぐに、見せる。嘘偽りない本物の、気持ちを。それが弥勒には新鮮で、ひどく眩しいことのように思えた。今までそんな人間は廻りには、いなかったから。
「比べるものではない」
それはある意味面と対峙するよりも新鮮な驚きと感動がある。作り物にはない本物の表情が。笑ったり怒ったり泣いたり…色んな顔を次々と自分に差し出してくることが。
それをこうして見ているだけで、楽しいと思える自分がここにいるから。
今まで知らなかったものを、君は差し出す。
俺が知らなかったものを、たくさん君は与えてくれる。
当たり前のように笑ったり、当たり前のように怒ったり。
本当に素直に気持ちを、想いを、見せてくるから。
――――君だけが、俺にそれを見せてくれたから……
「俺はお前が一番大事だっ!」
そう言ってぷいっとそっぽを向いてしまう小さな身体に、ひどく愛しさを憶える。自分よりも小さく自分よりも子供な彼に。そんな彼に、こんな想いを抱くという事が。
「…すまん……」
立ち上がって後ろからそっと抱きしめた。片腕しかなかったけれど、それでも抱きしめた。多分言葉よりもきっと。きっと想いが伝わるだろうから。
「…バカ…謝るくらいなら……」
一本しかない手を、大事そうに撫でる指。その指が、何時しか自分にとってかけがえのないものになって。
「――初めから、俺だけ…見てろよ……」
見上げてくる瞳が、なによりも…愛しかった……。
片腕のない俺を怖がらず、真っ直ぐな瞳で。
『わーすげーなこの面』
無邪気な、本当に無邪気な瞳で。
『お前ってすげーよなっ!』
俺を見上げて、俺に微笑って。子供みたいに、微笑んで。
―――それがどんなに俺にとって眩しいものか…君には分かっているだろうか?
「なあ、弥勒」
見上げてくる大きな瞳が。
「…何だ?……」
何よりも、愛しい。何よりも大事だ。
「…あ、その、な……」
頬まで真っ赤に染めながらそれだけを言う君が。
「…………してくれよ………」
目を閉じて黙った君にひとつ、唇を落とした。柔らかい唇の感触が、胸にひどく甘いものを芽生えさせる。このまま。このまま、ずっとと想えるほどに。
「…って面とはこんな事…出来ねーだろ?……」
唇が離れた途端、開口一番に言ってのけた。耳まで真っ赤にしながら、それでもそんな口を利くのがひどく可笑しかった。
「確かに、な」
そっと微笑ったら、君も無邪気な顔で微笑った。そしてもう一回しろと、俺にねだってくるのが可笑しかった。すっかり機嫌がよくなっているのもまた愛嬌なのだろう。
「―――全く…君は本当に……」
それ以上言う前に耐えきれずに君が自ら唇を重ねてきたから、そのまま。そのまま唇を、貪った。
ささやかな時間。ささやかな時。
それが、君がいることで。君が、いることで。
当たり前の無機質な日々が変化する。
うるさいくらいの色と、日常に変化する。
でもそれが何時しか自分にとって…何よりも心地よい日々になっていたから。
「…我が侭って言いてーんだろ?……」
「―――否定はしない」
「ちっ、むかつく奴。でも」
「…でも…悔しいくれー…好きだぜ……」
End