短命
『僕は早死にする家系なんだよ』
突然呟いた梅月の言葉に、弥勒は面を打っていた手を止め顔を上げた。彼が面から視線を外すことはひどく珍しい。何時でもどんな時でもその視線は常に面に向けられていて、自分にこうして合わさる事はほとんどなかったのだから。
「―――何故君のほうが驚くのだ?」
「いや…君の視線が面から離れるとは思わなかったから」
面を食らったような梅月の顔を、弥勒は珍しいものを見たようにまじまじと見つめてしまった。どんな時でも口許に涼やかな笑みを浮かべている彼からは想像も出来ない表情だったので。何時でもどんな時でも、余裕のある表情を浮かべている彼にとっては。
「君がどんな理由であっても僕に関心を向けてくれるのは、嬉しいことだよ」
けれどもその表情はすぐに何時もの柔らかい笑みへと変化する。心を気持ちを、読ませない笑みへと。
「…君が妙なことを言うからだ……」
顔を上げて梅月を見たのは、その言葉の真意を探る為だった。表情を見ればどうしてそんな事を自分に言ったのか、分かるかと思ったからだ。けれども。けれどもその表情は崩れる事はなくて。やはり弥勒には、分からなかったから。
「――――妙なこと?」
眉だけを器用に吊り上げて、尋ねるその顔は嫌になるほどに涼しげだった。この男は何時も。何時も自分より一つ上の場所から、こうして見下ろしているような印象がある。
「妙なことだ…君には…家族はないといった、帰る場所はないのだと」
見上げた弥勒の漆黒の瞳が微かに揺らぐ。それは梅月にとって驚きであり、そして喜びでもあった。こんな風に自分に対しての関心が、彼から与えられることは。
「ああ、そうだね…皆には…君にもそう言って、いた……」
手を伸ばして頬に触れようとしたら、唯一の手で払い除けられた。そこに見え隠れする彼の心が…感情が、梅月にはどうしようもない程に…。
「怒っているのかい?君に本当の事を言っていない事に」
「…何故、俺が怒らなければならんのだ?……」
口では冷静を装いながらも、瞳はまだ微かに揺らいでいる。こんな風に、彼が。彼が自分に対して揺らいでくれていることが。こんな風に揺れていてくれることが。
――――どうしようもない程に、梅月には…愛しく思えた……
「僕は本当は…とある家の後継ぎなんだけどね…嫌になって逃げ出してきた」
こんな風に彼に過去を話すことになるとは、梅月自身ですらも思わなかった。真実は自分の心だけに秘めて、ただ『霞梅月』としての存在だけで彼と向き合いたかったから。けれども。
「知っているかい?秋月家と云うくだらない家の、後継ぎだ。星を読み未来を詠む…望みもしないものが見える一族だよ」
けれども知って欲しいと何処かで思っていたのかもしれない。他の誰にも知られなくても、彼にだけは知って欲しいのだと。
「それがどれだけ空しいか…君に分かるだろうか?」
「…梅月……」
見上げる瞳は何一つ変わらなかった。ただ少しだけ安堵したような、瞳。それは自分が、本当の事を語ったから?だとしたら。
「未来など―――幾らでも変わるものだ」
「弥勒?」
「…例え君に見えた未来も…きっと変える事が出来る…変わるものだと俺は思う」
「何故そんな事が言える?」
その言葉に一瞬弥勒は躊躇って。躊躇ってから…微かにに梅月から視線を反らして一言、告げた。
――――それは確かに梅月の未来を詠む力でも、分からない言葉、だった。
『…俺が…こんなにも君を気にするようになるなんて…君には分からなかっただろう?』
視線を合わせない弥勒に、ひとつ梅月は口許だけで微笑った。彼に分からないように、何よりも嬉しそうに。そしてそのまま彼の前にしゃがみ込むと、その身体を引き寄せた。
「…梅月……」
そっと抱きしめ、その背中を撫でた。髪を撫でたかったけれど、作業中は何時もその髪は布によって覆われているので出来なかったから。
「―――確かに分からなかった…嬉しい誤算だ。そして」
梅月は弥勒の頬に手を当て、自分へと向けさせた。先ほどのように拒まれることなく、今度はちゃんと。ちゃんと瞳が、重なった。
「そして僕がこんなにも君を好きになることは…僕自身ですらも予想できなかったよ…弥勒」
重なった瞳がそっと微笑う。こんな顔をやっと彼は自分に見せてくれるようになった。ほとんど表情を崩さない弥勒の、他人に関心のない彼の。そんな彼のひどく穏やかな笑顔。
「君のその顔、好きだよ。やっと僕に微笑ってくれるようになった」
滑らかな頬を撫で、そのまま指先を梅月は弥勒の唇へと落とした。少しかさついたその唇を指でなぞり、薄く口を開かせる。そのまま微かに開いた唇を自らのそれで梅月は塞いだ。
かさついた唇に潤いを与えるように舌でなぞりながら、角度を変えて何度も触れるだけの口付けを弥勒に与えた。
「…梅…月……」
やっとのことで唇を開放してやれば、吐息混じりの甘い声がその口から零れて来る。その時名前を呼ぶのは自分だけであって欲しい。この声で名前を呼ぶのは自分だけでいて欲しい。
「―――好きだよ、弥勒。君の全部が」
もう一度背中に腕を廻して、そっと抱きしめた。少しだけ汗の匂いがする。面作りの作業中に流したものだろう。その微かな薫りすら、自分だけのものにしたいと願う。自分だけのものに、したいと。
「僕が見た未来を変えてくれるのは…ううん、変えるのはこの気持ちだと僕は思っているから」
こんな風に激しいまでの想いを。激しい気持ちを、向けることに。自分がこんなにも他人に執着することに。こんなにも激しく惹かれることに。
―――僕の見た未来には…こんな想いは見えなかったから……
そんな星の宿命すら届かない場所で。
運命すら及びもしない場所で。
僕は君に惹かれ、君に焦がれた。
君が欲しくて、君を独りいじめしたくて。
ただそれだけが、全てを支配する。
こんな想いは。こんな想いは…僕は見えなかった。
だから僕の未来を変えたのも、僕の運命を変えるのも、君だけなんだ。
「だったらその思いで…『短命』な運命も変えてみるのだな」
「…ってもしかして気にしていたの?」
「…いや…君に先に死なれたら…俺が……」
「…俺が…困る……」
何に困るの?と聴こうとして、唇を止めた。
君は決して答えてはくれないと分かっているから。
けれども。けれども僕を見る瞳が。
その漆黒の瞳が、言葉よりも雄弁に語っていたから。
――――その、何よりも綺麗な、瞳が。だから、僕は……
「ああ、君への想いで…嫌になるくらい長生きするつもりだよ」
End