雲がちぎれる時
―――外へ行こう、と。君が言った。
「何時も君は工房から出てこない…たまにはいいだろう?」
相変わらず面を打ち続けている弥勒を、梅月は強引に外へと誘い出した。邪魔をするなの一言も梅月には見事に無視をされ、こうしてふたり何故か小高い丘の上の茶店で茶を啜っていた。
「―――俺は面を売りに、外へ出る……」
出された茶を啜りながら、不機嫌そうに弥勒は言う。自分が何処にも出ないと言われたのが、気に障ったようだ。俗世に関心がなく他人に関心のない男が、こんな所に拘るのが妙に梅月には可笑しかった。つい笑ったら、益々不機嫌な顔をした。けれどもこんな風に彼が、他人と関わることが何よりも梅月には、嬉しかった。
「そうだね、でもそんなに無愛想で客商売は大丈夫なのかい?」
茶請けとして出された団子を手に取ると、そのまま口に含まずに串を持ったまま弥勒に尋ねた。予想通り、彼の顔は相変わらず不機嫌なままである。普段から無表情の彼のソレを見分けられるようになったのは、梅月ですら最近のことだった。日々通いつめたかいは、あったという事で。
「本当に面を欲しがる者は…売人の愛想など気にしないものだ」
「ああそうだね、でもその方が僕は安心出来るけれどね。君の愛想がよかったら…良からぬ輩に目を付けられるかもしれないし」
梅月の言葉に弥勒は妙な顔をした。そして一瞬の間。それが何を意味するのか梅月が答えを探す前に、彼の口から思いがけない言葉が出た。
「…良からぬ輩など…君以外いないだろう……」
それだけを言うと、そのまま弥勒は手にしていた茶を一気に飲み干した。それは自分の言った言葉に後悔をしているためなのか、それとも照れ隠しなのかは梅月には分からなかったけれど。
…けれども、その言葉に梅月が嬉しそうに目を細めた事だけは…事実だった。
手にしていた団子を梅月は弥勒の前に差し出す。みたらし団子は醤油がたっぷりと塗ってあって、見るからに美味しそうだった。が、しかしそれをこうして差し出されても、弥勒はどうしていいのか分からない。と言うか、彼の真意が弥勒には分からなかった。
「手、湯呑を持っているから。美味しいよ、団子」
「…梅月…君は何を……」
にっこりと笑って弥勒の口許に団子を近づける梅月に、彼の意図がやっと分かって弥勒は絶句する。幾ら自分の片手が不自由だからと言って、大の男に何故団子を食べさせてもらわなければならないのか。そう思って言葉にしようとしても、にこにことしたままの梅月は一向に手を引こうとはしなかった。
「食べさせてあげるよ…それとも口移しのほうがいい?」
「…き、君はっ!……」
無口で無愛想な男の慌てたような顔が、梅月には可笑しかった。からかっただけなのに、意外と彼はムキになるところがある。そんな所も、自分が発見した…自分だけが見つけた彼の人間らしい部分、だった。
「残念だな。じゃあ口移しは後で…今はこれで我慢しよう」
弥勒の口が開いた隙を見計らって団子を中へと放りこむ。弥勒の気持ちを余所に結果的に梅月によって『食べさせてもらう』格好になってしまった。
「美味しいかい?」
仕方なく口に含まれた団子を噛みながら、弥勒は恨めしそうに梅月を睨む。けれども睨まれた当人は涼しげな顔で、弥勒を見つめているだけだった。愛しげな、瞳で。
茶店を後にして、ふたりは丘の中へと入っていった。山と言うには高さの足りないこの丘は、緑の木々が茂り自然がふんだんにあり、ある種の隠れ家のようになっていた。茶店までは大抵人がいるのだが、それを越えてしまうと人影がほとんどなくなる。それが梅月にとって何よりもお気に入りの所だった。
こうして誰の目からも離れて独り。独り自然に囲まれて俳句を詠む―――それが何よりも梅月にとっての贅沢だった。そしてその贅沢に、ただ独り共有したい人間がいる。今、自分の目の前に。
「いい場所だな」
ぽつりと呟いた弥勒の言葉に梅月は、微笑う。彼ならそういってくれると思った。無口で静を好む彼ならば、こうした場所を気に入ってくれるだろうと。
何かを語り合うことよりも、ただ。ただふたりで静かな空間を共有するだけでも、満たされる関係だと。そんな関係だと思っているから。
「ああ、とっておきの場所だよ。だから君を連れてきたかった」
近くにあった切り株に腰を降ろした梅月に倣うように、弥勒も柔らかい草の上に腰を降ろした。微かに水を含む涼やかな薫りが弥勒の鼻を心地よくくすぐる。
「俺を連れてきても、面白くないだろう?」
薫りの心地よさに目を閉じ、そのままごろりと寝転がりながら弥勒は言った。口許は穏やかな笑みを浮かべ、彼が心底ここを気に入ってくれたのだろうという事が分かる。口ではそう言いながらも、その表情が全てを物語っているから。
「君以外連れてきたい相手はいない」
目を閉じていても瞼の裏に差し込む光がふと、途切れた。それを確認するために弥勒は瞼を開くと、そこには怖いほど綺麗な梅月の顔があった。何時もの余裕の笑みを口許に浮かべながら、静かに弥勒を見下ろすその瞳が。
「君以外、ともに時間を過ごしたい相手もいない」
手が、伸びてくる。そのまま弥勒の頬を撫でると、そっと口付けられた。弥勒は目を閉じその口付けを受け入れる。何時からか…こうされる事に抵抗がなくなっていた。
何時からだろうか、こんな風に口付けられたり。抱きしめられたり、身体を重ねることに抵抗がなくなったのは。
「―――このまま君を犯したいよ、この場所で」
「…悪趣味だな……」
何時の間にか切り株から立ち上がり、弥勒の身体の上に梅月は覆い被さった。背丈はほとんど変わらなかったけれど、何故かこうされると弥勒は自分を小さく感じる。体格もあまり変わらないと言うのに、こうして腕の中に抱きしめられると。
「でも今は我慢する。流石にこの場所を穢す訳にはいかないからね…だから今はこれだけ」
そう言って口付けてくる男の唇を弥勒は拒まなかった。何度も角度を変えながら貪られる唇に、こめかみを痺らせながらも。それでも繰り返される口付けに…弥勒は答えた。
人肌の感触など久しく忘れていた。
腕がなくなってから、他人と益々関わらなくなった。
独りのが楽だから。独りは気ままだから。
だからこうして自分と面だけの世界になって。
そうして日々過ごしてきたのに。
―――そんな日常を、君が少しずつ壊してゆく……
「…梅…月っ…ん……」
絡み合う舌が。髪を撫でる指が。
「…んんっ…ふぅっ……」
口許を零れる唾液を拭う舌が。
「…ふっ…んん……」
何時しかこんなに馴染むようになっていて。
「―――君のこんな表情を知ってるのが僕だけだって事が…何よりも嬉しいよ……」
もう一度口付けをされて、舌と指で唾液を拭われた。そしてそのままその腕に抱きしめられながら、髪を撫でられる。それは心地よく、暖かいものだった。
「…弥勒…好きだよ……」
囁かれる言葉に目を開ければ、雲がちぎれて青空が覗いていた。その空を見上げて、君の顔を見つめて。
「――――ああ……」
俺はそれだけを、君に言った。それ以上は言葉にする必要も、思いを告げる必要もないだろう。
――――他人には伝わらなくても、君には伝わるだろうから……
End