さよなら
…愛しているのかも、しれない。
こいつの事を。
でももう、分からない。
…分から…ない……。
自分が何を欲しくて、何を望んでいるか。
「…さよなら……」
それだけを、告げる。それだけを、告げた。自分は何を期待してその言葉を口にしたのか。
「さよなら、か」
しんせいの香りが身体中に駆け抜ける。憶えてしまったこの匂い。何時しかこの匂いが自分の日常に組み込まれていた。
まるで当たり前のように。
「それでお前は、満足か?」
何時も醒めた目で自分を抱くから。冷たい指先で、顔色一つ変えずに。だから。
「あんたにとって俺は…ただの性欲処理の道具だろう?」
…だから、哀しくて。淋しくて。そう気付いたらもう…傍にいたくない。
「ガキに手を出すほど、相手に困っているつもりはないが」
「だったら他の相手にしてもらえよ。こんなガキに構わずに」
傍になんていたくない。いればいるほど、淋しいから。哀しいから。でも。でも…。
「他の相手じゃ満足出来ない」
でも、その腕の中にいたいと思った自分は。その温もりに包まれていたいと思った自分は。
……本当は、どうしたい?……
「お前が、いい」
「…そんな瞳で、言うな…」
吸い込まれそうな程に深い闇色の瞳。何時もこの瞳に見つめられて、全てのこだわりや全ての意味を見失ってしまう。
考えなければならない事全てを、溶かされてしまう。
「お前以外、俺はいらない」
「本当にそう思っているのなら…俺を…」
どうして、ほしい?一体自分は何を望んでいる?何を、言ってほしい?
「閉じ込めてやろうか?」
そう言って笑った口許をぼんやりと見つめながら…その言葉を自分は待っていたのかもしれない……と、思った。
…もう、戻れないのかも…しれない……。
暗い部屋で抱き合う事が、一番自分達に似合っている気が、した。
湿った匂いのする部屋で、音のない部屋で。互いの息遣い以外何も聞こえないこの場所で。
「鎖で繋いで、ここから出られないようにしてやろうか?」
冷たい表情で、感情のない声で。でも。でも、優しい腕の中。残酷な恋人。
「それともこのままお前を貫いたまま、その肉を食ってやろうか?」
「…本当に…そう…思ってんのかよっ……」
精一杯睨み付けても、身体の中に打ちこまれた楔がそれを許してくれない。
少し動いただけで鈍い痛みと、疼く快楽が同時に襲う。
「思っている。そう言ってもお前は信じないか?」
「信じられねーよっ…あっ……」
一気に奥まで貫かれて、京一の声から悲鳴とも吐息ともつかない喘ぎが零れる。
それを奪うように犬神は、京一の唇を強引に奪った。
「…んっ…んん…ふっ……」
舌が牙に、当たった。そしてそのまま引き千切られるように食い込んで来た。そこからほんのりと鉄の味が混じる。
「何時も俺は乾いている。この喉の渇きが満たされる事はない。幾らお前を抱いても…お前は俺だけのものにならない」
「…どーして…んな事…言うんだ…俺は……」
口許から零れた液体をざらついた犬神の舌が辿る。それは唾液とも血とも判別がつかないものだった。でも、もう。
もう…今はどうでもいい……。
「…お前の…ものじゃ…ないのか?……」
「ものになんて、出来る訳がないだろう?」
「…冷たい手で…俺を抱くくせに…。醒めた目で俺を……」
背中に爪を立てた。爪が白くなる程に強く。そこから血が流れたらいい気味だなんて、考えながら。
自分だけが痛みを感じているのが、悔しくて。心の痛みが、悔しくて…。
「そうしなければ、俺がお前を壊してしまうから」
「…いぬ…がみ?……」
「壊しても、いいのか?」
その言葉を否定出来なかった自分は…やっぱりこいつを愛しているのかもしれないと思った。
何時も、自分は乾いている。
欲望は満たされる事はない。永遠に。
例えお前を貫いたままその肉を食らっても。
例えこのまま閉じ込めて自分だけのものにしても。
それでも、足りない。
この限りない欲望は何処からくるのか?
そして何処へ行こうというのか?
……戻れるはずのない事は、分かっていた……。
「…さよなら……」
同じ言葉をもう一度、犬神に言ってみた。やっぱりその顔は何時ものように冷たくて、無表情で。でも…。
「許さない、その言葉は二度と言わせない」
そして喉に牙を立てられる。柔らかい肉に食い込んで、このまま本当にその中に取り込まれてしまっても。
「…さよなら、犬神……」
その髪に指を入れて、そして自らに引き寄せて。そして。
「そんなにまでして俺を追い詰めたいのか、お前は?」
喉を噛みきられても。
「追い詰められろよ…そうして、俺に見せろよ…本当のお前を」
噛みきられても……。
「…何もかも捨てて、俺を追い詰めろよ……」
End