窓から零れる月は、鮮やかに蒼い。その蒼さだけが室内の全てを埋める。それだけがこの空間の、この世界の全てだった。
遠くから、木々の揺れる音が聞こえる。行動の全てを奪われた自分には、視覚だけが妙に研ぎ澄まされていた。だから。
だから、聞こえる。そこに混じる乾いた足音が。冷たいコンクリートの上を滑る獣のようなしなやかな、足音が。
「…よう……」
月明かりだけが支配するこの閉鎖された空間で、双目だけが鋭く光る。
どんなに堕ちても、どんなに穢れても、その鋭い刃物のような視線だけは失われる事はない。
「まだ、睨むだけの気力は残っているんだな」
近づいて、その顎に手を掛けた。その途端その指が噛まれた。そこから一筋の血が零れる。
けれども犬神は構わずに、強引に自分へとその顔を向かせる。
カシャンと、コンクリートと鎖が重なる音がする。その音は何処か官能的にすら聞こえた。
「俺をここから出せっ!」
「それは出来んな、蓬莱寺」
こんな闇の奥深くに閉じ込めても、光りの当たらない場所に閉じ込めても、その瞳に映るのは太陽の光。
眩しいまでの、あの光。
「何でだよっ?!何で…俺がお前から離れてゆくとでも思ったのかよっ?!」
京一の手が犬神の首を抱こうとするが、手錠を掛けられた腕では思い通りにはいかなかった。
犬神はその手を取ると、そっと繋がったままの手首に口付ける。
「…お前の手首に、傷がつく……」
生暖かいざらついた舌の感触が、びくりと京一の肩を震わせた。
ここに閉じ込められてから、感覚がひどく敏感になってゆくのが分かる。それが何よりも、いやだった。
「中途半端に…優しくするな……」
「蓬莱寺?」
「俺はどうすればいいのか分かんねーよ。こんな事をするお前が許せない。許せねーのに…俺はお前を憎めない……」
鎖で繋いで冷たい部屋に監禁して、そして自分勝手に身体を犯して。それなのに、それなのに…優しいから……。
「憎めばいい。俺なんて幾らでも憎め。ここから出たいとそれだけを考えていろ」
そんな言葉を紡ぐその瞳の奥深くにある絶望と、漆黒の闇がそれを否定する。本当の望みはそんな事じゃないと…。でも。
「憎めるなら最初から…憎んでるよ、バーカ」
でも決して答えてはくれないから。何が欲しくて、何がしたいのか。決して答えはしないから。
「ああ、俺はバカな男だからこうやってお前を閉じ込めるんだ」
そのまま京一の反撃を閉じ込めるかのように、その唇を自らのそれで塞ぐ。強引に口を割って舌を忍び込ませた。
「…んっ…やめっ……」
まるで生き物のように蠢く舌に、京一の意識が溶かされてゆく。
けれども皮肉にもその意識を現実に繋ぎとめているのは、足首に繋がれている冷たい鎖の感触だった。
そのひんやりとした金属の感触が、そこだけが京一を現実へと引きとめていた。
「…やだっ…離せっ……」
飲みきれない唾液を犬神の舌が辿る。その時になってやっと京一は言葉を紡ぐ事が許された。
けれどもその拒絶の言葉はただの‘言葉’でしかなくて。正確な意味など、留めてはいない…。
「…離せよっ…」
「ここでお前の望みを叶えたら…お前は俺を…憎めないだろう?」
「…犬神?……」
その問いに答える事なく犬神は京一をそのままコンクリートの床に押し倒した。その冷たい感触が京一の素肌を総毛立たせた。
「…あっ……」
犬神の指が尖った京一の胸を弄ぶ。そこを扱いたり摘んだりしてやると、それはみるみるうちにピンと張り詰めた。
「…やっ…やだ…そこ…あぁっ」
空いている方の胸に牙を立て、ざらついた舌で舐めた。それだけで京一は耐え切れずにいやいやと言う風に頭を振った。
「お前は本当に‘ここ’が弱いな」
「…う、うるせーっ…あっ…」
耳元に息を吹きかけられるように囁かれて、さあっと京一の頬が朱に染まる。
自分の身体の全てを知り尽くした指先が、瞳が、じわじわと意識を犯してゆく。
「あぁっ…ん…やだっ…」
ジィッとズボンのジッパーの外れる音が、嫌に耳に響く。その音に堪らない羞恥心を覚えて思わず京一は瞼を閉じた。
「目を、閉じるな」
冷たい空気に触れてそれは一瞬縮こまるが、大きな手に包み込まれ再び快楽の証を犬神の手の上に誇示してゆく。
「…あふ…ぅ…あぁ……」
巧みな犬神の指使いに京一のそれはたちまち上り詰めてゆく。
どこをどうすればいいか、なんて嫌と言う程に知り尽くした指先が…。
「お前は淫乱だな」
くすりと口許だけで微笑って犬神は意地悪にも京一自身の先端部分を、きゅっと掴み出口を塞いでしまった。
「…あっ…いっ…いやだ……」
「何が嫌なんだ?」
イケそうでイケないもどかしさが京一の身体を悶えさせる。
けれども犬神はそんな京一を見下ろして、口許だけで笑うだけだった。
「いっ…いや…犬神……」
それでも精一杯に京一は自分を睨みつける。快楽に濡れた瞳で、反抗心いっぱいの瞳で。
その瞳に自分がどれだけ、どれだけ全てを奪われているか何一つ知らないくせに。
…何も、知らないくせに……。
「お前のその瞳が俺を欲情させる。それに気付いているのか?」
「…あぁっ……」
京一の言葉は喘ぎとなって声にはならなかった。再び犬神の手が京一自身に淫らに絡みついてきて。
けれどもそれはイク寸前で止められてしまう…。
「…あぁぁ…ん…あ……」
「イキたいか?蓬莱寺」
意識が真っ白になる寸前に、狂おしいまでのもどかしさがそれを押し留める。
それに耐え切れずに京一の首がいやいやを繰り返す。けれども犬神は決して京一を解放しなかった。
「イキたいか?」
「…ぁぁ…ん…」
呪文のように繰り返される冷たい犬神の、声。京一は溶かされた意識を繋ぎ止めるのに必死だった。
しかしこの快感の海の中に呑まれてゆく自分を止める術を知らない。
「…あ…ぁぁ……」
犬神の指が再び京一の紅に染まった突起へと触れる。
上と下と同時に弱い部分を弄ばれ京一の神経はどうにかなってしまいそうだった。もう…何もかもを…捨ててしまいたい…。
「イキたいのなら…そう言え、蓬莱寺」
その言葉に溶かされていた意識が呼び戻される。再びその瞳がぎんっと犬神を見返す。そのぎらぎらした瞳が。
「口に出して…言ってみろ…」
「あ…ぁ…ふぅ……」
京一自身を犬神の手がぎゅっと掴む。その強引な刺激が、京一の性感帯の全てを刺激した。
犬神が自分に何を望んでいるのか、そしてそれを口に出しさえすれば、この状態から開放される。それは分かっている。
分かっていてもプライドがそれを許さない。
「言わないなら、このままだぞ」
「やだ…もう…ゆるせ…よ…」
京一が言えるのはそれが精一杯だった。犬神にもそれは分かっている筈だ。それでも犬神は止めなかった。
どこまでも京一を追い詰める。追い詰めて、ゆく。
「駄目だ、ちゃんと言え」
「…いや…だ…もう……」
「言え…京一……」
名前で呼ばれて、思わず京一はその重たい瞼を開いた。…開いて、後悔した……。
その瞳があまりにも深く、苦しくて。そして、哀しくて。
自分のこのちっぽけなプライドすら崩してしまう程それは…どうしようもない暗い闇だったから。
…ここまでこいつを追い詰めたのは…自分だと…そう思い知らされているようで……。
「…あぁぁ…ぁ……」
京一の視線に耐えきれないとでも言うように、再び犬神は京一自身に指を絡める。それが京一にとっての最終警告だった。
後はただ、呑まれてゆくだけで……。
「…いか…せろ…よ……」
京一の中で何かがかちゃりと外れて。そして犬神の望む言葉を呟かせた。
それは聞き取れない程の小さな声、だっだれども。でも。
「いい子だ」
犬神の手が汗でべとつく京一の前髪をかきあげる。その動作がどうしようもない程優しくて。
他の行為とは裏腹にそれだけが、優しくて。
…それがひどく、哀しかった……。
「…ああっ!」
犬神の指先が京一を解放させる為に、強い刺激を与える。
既に脈を打ち始めていたそれはあっけない程簡単に犬神の手の中で果てた。
音のない部屋で京一の荒い呼吸音だけが響く。それを見下ろす蒼い月は、犬神の視線に同化しているように鋭かった。
「…あっ…犬神っ……」
犬神の手が京一の髪を掴むと、そのまま強引に犬神自身へと押しつけた。そしてそのままそれを銜えさせる。
「…うぐっ…ん……」
拒絶の意味を込めて京一は首を振ったが、力強い犬神の手がそれを押さえつけて許してはくれない。
「…んっ…んん…」
息苦しさに耐え切れず、京一の舌がおずおずと犬神のそれに絡み始める。
けれどもこう言った行為に慣れない京一にはどこをどうすればいいのかなんて分からなかった。
ただ口の中に埋め込まれた‘これ’から開放されたくて。ただそれだけが京一の舌を動かした。
「…んっ…う…ん……」
喉まで届くその巨きさが京一の舌を思うようには動かしてはくれない。何時しかその苦しさから目尻に涙まで零れてきた。
その苦しげな表情が、犬神の欲情を煽るとも気付かずに。
「…んっ…ん…あっ……」
限界まで膨れ上がりその中に欲望が注ぎ込まれると思った瞬間に、京一はその行為から開放された。
と、同時にその顔面に白い液体が飛び散る。
「…はぁ…あっ……」
ぽたりぽたりと顔から零れる液体を、犬神は指先で掬いそのまま京一の口中に指を突っ込んだ。
京一はその指をただ舐めるしか出来なかった。
ぴちゃぴちゃとその音だけが響き渡る。その淫らな音が京一の意識をまた煽ってゆく。
「ああっ…」
指が口から引きぬかれる。そして濡れた指先が京一の最奥を抉った。まるで生き物のように蠢く指先が京一を悩ませる。
抜き差しを繰り返しながら、次第に指を馴染ませてゆく。
「…あっ…やだっ!」
犬神の爪が京一の内壁を荒々しく引っ掻いた。その痛みを伴う刺激に、京一の身体が身悶える。
けれども犬神は構わずに行為を続けた。
「…いた…ぁ…あ…」
けれどもその痛みすら何時しか快楽へと摩り替わる。声は何時しか苦痛以外のものを含み、濡れてゆくのがはっきりと分かる。
「…あ…ぁ…ん…あ」
「イイのか?蓬莱寺」
その問いに京一は答えられない。激しい喘ぎとなって言葉はかき消される。
そんな様子にくすりと犬神は笑うと、指の本数を一本から二本へと増やした。
「…あっ!」
二本の指はそれぞれ勝手気ままに京一の中を蠢き、悩ませる。
その度に内壁は押し広げられたり締め付けられたりして、どうにもならなくなってゆく。
「あんまり俺の指を締め付けるなよ」
限界まで広げさせ、そして指が一気に引きぬかれてゆく。その喪失感に京一の意識が引き戻された。
夜に濡れた瞳が犬神を見上げてくる。どんなに快楽に溺れてもその瞳の輝きだけは、京一からは消せはしない。
その、太陽の瞳は。
「…いぬ…が…み……」
「俺が欲しいか、蓬莱寺」
けれども犬神はその問いの答えを京一に求めなかった。その見掛けよりも細い腰を掴むと、そのまま一気にその身体を貫いた。
…いったい、何処へゆきたいのだろうか?
何処へ辿りつきたいのか?何処へ還りたいのか?
分からない…ただ。
ただ…このまま。
このまま全てを閉じ込めてしまえたらと、そう。
そう思うだけで…。
この腕に閉じ込めて、二度と離さない。そう願っても、何時しかこの腕から擦り抜けてゆくのではないかという、不安。
憎めるのなら、初めから憎んでいた。
嫌いになれるなら初めから嫌いになっていた。
こんな事をされても、俺がお前を憎めないのは。
気が付いたから。
お前を追い詰めているのが俺だと。
俺がお前を追い詰めていると、気付いたから。
だから…俺は……。
ごめんな、素直じゃなくて。
俺がもっと気持ちをちゃんと伝えられたら、お前をこんなに追い詰める事もなかったのにな…。
「…蓬莱寺……」
腕の中で眠る京一の髪を撫でながら、犬神は呟く。その呟きに答えるものは、いなくても。
「…それでもお前は俺を…許すんだな……」
そっとその身体を抱き寄せれば、無意識に自分の胸に擦り寄ってくる。
その動作にどうしようもない程の愛しさが込み上げてくる。どうしようもない程の…。
「……京一………」
その声はまるで神への祈りに、似ていた。
End