…最期に呼ぶのは、貴方の名前だけ。
人を、殺す事。この手を穢す事。
自らの肉体を血に染めて、そして何処にも帰る事が出来なくなる事。
…何処にも、帰れなくなる事。
バカだね、最初から何処にも居場所なんてなかったのに。
一体僕は何処に帰ろうとでも、言うのだろうか?
誰の腕に、還るとでも言うのか?
「俺を殺すのか?」
闇の底から聞こえてくるその声に、無意識に身体が震えるのを抑えきれなかった。
それは『恐怖』…初めての、生まれて初めての恐怖だった。
「お前みたいなガキに俺が、殺せるか?」
顔に当たる煙草の煙が、ひどく懐かしく感じた。…煙草の、匂い…あのひとの腕の中を思い出す。
僕を機械のように抱く、あの人を。
「これは館長の…命令ですから……」
僕にとって絶対の…絶対の人。僕はあの人の為に生きて、あの人の為に死ぬ。それが僕にとっての唯一の生きる道。
それだけが僕の生きる意味。
からっぽの僕が唯一埋められている、もの。
「拳武館…か、ならば俺を殺してみるがいい」
煙草が無造作に吸殻へと捨てられた。その煙の残り香がひどく自分にまといついて…イヤだった。
まるであの人に抱かれているような錯覚を覚えて、いやだった。
「殺します…犬神先生……」
自分でも無意識に声が震えているのが、分かった。勝てないと、そう思った。
この男の纏っている空気が、この男の包みこんでいる気が、明かに自分よりも上だと…
自分よりも勝っていると…そう思ったから。
けれども僕は、このひとを殺さなければいけない。
…だってあのひとの、命令だから……
僕はあの人にありとあらゆるものを教え込まれた。
今の『僕』と言う人格が形成されたのは、あの人が全てを僕に教え込んだから。
物の考えや、生き方、そして人の殺し方。全てをあの人に教え込まれた。
だから僕はあのひとのもの。
この髪一本から、つま先まで。その全てが、あのひとのもの。
あの人の為に生きて、あの人の為に死ぬ。それが僕の唯一の道。
それ以外は、それ以外は何も望んではいけないのだから。
『…紅葉…おいで、僕の元へ……』
耳を塞いで、瞳を閉じる。それは僕にとって望んではいけないものだから。
冷たいと、そう思った。
教室の床は冷たいものなんだなと…ぼんやりと思った。
床に組み敷かれて動きを封じられたのに、どうしてこんなにも僕は関係の無い事を考えているのだろうか?
「随分と簡単に堕ちたな」
「…貴方に僕は、勝てない…」
「自分の力の限界を知っているか…それならばまだお前には見込みがあるな」
「見込み?でも貴方は僕を殺すのでしょう?」
そう言ってみた自分の声がひどく醒めているのが分かった。ああそうか僕は、多分…
「まるで殺されたいみたいだな」
多分僕は…心の何処かで…何処かで、思っている…
「…殺されたら僕は…僕は自由になれるのでしょうか?…」
死にたいと。死んであのひとのものではなくなって。そして。
そして僕は僕以外の何も持たないただの『一人』の人間になって。
何も持たないただの『自分自身』になって。そして。そして『彼』の傍にいきたいと。彼と対等な位置に立ちたいと。
同じ位置で視線を交わしたいと…そう、思っている。
叶わない夢だと、分かっていても。それを望んでしまう僕は愚かなのですか?
「自由…そんなモノは自分で手に入れるものだ。誰かに与えられるものじゃない」
「それでも手に入らないと分かっていたら?」
「…ガキだな、本当にお前は…こんなガキに人殺しをさせるなんてこの世も末期だな」
「子供ですか?僕は」
「ガキだな…まあいい。ガキの扱いには慣れている。お前の望む通りに殺してやるよ」
「僕を、殺してくれますか?」
「…殺してやるよ…壬生紅葉…」
初めて男に犯されたのは、自分が拳武館へと連れて来られた日。僕はまだ中学生になったばかりだった。
「へ、今回のは随分と子供だな。館長も趣味が悪いぜ」
「まあいいじゃねーか、俺らは楽しませてもらえれば」
館長へと差し出される為に僕は、ありとあらゆる快楽を教え込まれた。
何人もの男に犯され何日も監禁されてあらゆるテクニックを教え込まれた。
…僕に、選択権は無い。僕には何も無い。
ただあのひとの望むようにあのひとに喜ばれるように、仕込まれたただの人形。それだけ。それだけが僕の存在価値。
『…どうして君は、もっと自分を大切にしない?』
優しくしないでください、心配しないでください。僕にはそんな価値ないのだから。
どうでもいい事だと、思った。
俺を殺したがっている存在も。拳武館も。そして自分が組み敷いている、この暗殺者も。
俺にとってはほんの少しの日常の小波でしかなかった。けれども。けれども、ただ。
ただ自分を見ていない空っぽの瞳だけが、気になった。全てを拒絶し遮断した瞳が。壊れる寸前のその瞳が、気になった。
その瞳を俺は、知っていた。遠い昔の封じ込めた記憶の中に。自分をこの地上に縛りつけている唯一の記憶の中に。
その瞳は、存在した。
…約束…桜の下で交わした約束。
それだけが俺をここに捕らえる。それだけが俺をここに縛りつける。
『…真神を護って……』
自分の心を壊した女。壊してまでもそれを俺に告げた女。たった一度だけ…愛した女……。
同じ瞳を、していた。壊れた瞳。それだけが俺を、捉えた。
こんな月の眩しい夜には…閉じ込めた記憶までも、呼び覚ますのだろうか?
「僕の名前を…知っている?…」
「どうでもいい事だろう?今から死ぬ人間には」
「確かに…どうでもいい事ですね…それに貴方ならそれくらいの情報網…幾らでもお持ちでしょうから」
儚く微笑うその顔が桜の夜の幻を思い起こした。似ていると…似ているとそう思った。
何処がと言っても答えられない、ただ似ていると。
それは全てを諦めたものだけが持つ、一種の独特な雰囲気だろうか?それとも。
それとももっと違う所から来ているものだろうか?
「早く僕を殺してください。僕が唯一の未練を思い出す前に」
「お前でもそんなモノがあるのか?そんな瞳をしていて」
「…ひとつだけ…あります…」
『死ぬのは怖くないの。でもひとつだけ怖いことがある』
「ひとつだけ?」
『何時死んでもいいわ。貴方の為に死ねるなら。でもね』
「…あのひとを…見つめていられなくなる……」
『…でも貴方を見つめていられなくなる…』
「…それだけが…僕にとって……」
『それだけが、私にとっての恐怖』
「…唯一の…『未練』……」
貴方を見つめている事が出来なくなる事が。貴方の声を聴けなくなる事が。
それだけが。それだけが唯一こころを地上へと縛りつける。
…貴方だけを…この瞳に焼き付けておきたい……。
何を僕は喋っているのだろうか?これは僕が胸の奥に鍵を掛けて閉じ込めた永遠の秘密なのに。
それなのに僕は、何故こんなにも簡単に。
「くだらないな、そんな未練。俺にとってはどうでもいい事だ」
「その通りです、貴方には何の関係もない」
何時の間にか腕は解かれていた。けれども僕は逃げようとは思わなかった。
この人が僕を殺してくれるのなら…と、僕は今心の何処かでそれを望んでいる。
…このまま僕を楽にしてくれると…そう心の何処かで……
「どうでもいい事だ」
それだけを言うと不意に唇が自分のそれに重なってきた。僕はそれを拒む事はしなかった。
ただ肌に当たるひげの感触だけが、僕の意識をひどく覚醒させた。このぞくりとする何とも言えない感触が。
「拒まないんだな」
「…慣れていますから…」
「ならば楽しませてくれよ…俺がこの手で殺してやるんだからな…」
僕はその言葉に答える変わりに、その広い背中に腕を廻した。
死ぬ間際に抱かれるのが館長でもあのひとでも無い事が、嬉しいのか哀しいのか分からなくなっていた。
『君とともに生きていきたいんだ』
生きるってどう言う事ですか?僕にはもう分かりません。
全ての感覚が麻痺して何が真実なのか、もう分からないんです。
ただ僕にとって分かっている事は、貴方を好きなこの気持ちだけ。
「…あっ……」
快楽に慣らされた身体は、この男の愛撫をたやすく受け入れた。触れられただけで、ほんのりと紅に色づく。
「随分と敏感、だな」
ワイシャツのボタンを外しそこから覗く鎖骨に歯を立てる。それだけでぴくりと身体が反応した。
「…はぁ……」
鎖骨に歯を立てながら胸の果実を指の腹で転がす。それだけで痛い程にその突起は張り詰めた。
「…ぁぁ…」
人差し指と中指で摘みながら、歯を次第に身体へと滑らせて行く。
時々的を得たように身体が跳ねるのを確認して、その部分を執拗に愛撫した。
「男の手に…慣らされているのか?…」
「…ええ…どれだけの男に抱かれたか…僕ももう覚えていません…」
「淫乱だな」
「何とでも…言ってください…否定出来ないから…」
「男無しでは生きられない身体なのか?」
背中に廻した腕が、爪を立てた。それは痛い程に食い込んだが、そのままにさせた。
それほ無言の反撃と取るか、無意識の快感と取るかは自由だが。
「…そうかも…しれません…でも……」
「でも?」
「…『あの人』に抱かれた時…僕はもう誰からも抱かれたくないと思いました…」
「でも身体は反応している。『ここ』はこんなになっているぞ」
不意にその手が壬生自身を掴むと、先端に爪を立てた。それだけで敏感なそれは、先走りの雫を流していた。
「…あぁっ!」
扱いてやると一気にそれは放出された。白い液体が犬神の手を汚す。
その手を壬生の口許へともってゆくと、そのままその指を舐めさせた。
「本当に快楽に忠実な身体だな。まあいい、その方が楽しめる」
「…ん…ふう…」
ぴちゃぴちゃと音を立てながら、壬生は自らの放った液体を舐め取った。その淫らに絡みつく舌が、犬神の性欲を刺激した。
「本当に『仕込まれて』いるな…お前は…」
「…くぅっ…」
濡れた犬神の指先が壬生の再奥へと忍び込む。最初は硬直しながらも壬生の内壁はそれをたやすく受け入れた。
そして淫らに肉が指に絡みついてくる。
「…ふぅ…ん…あぁ…」
「そんなに締め付けるな。指が入らない」
「…あぁ…ん……」
零れる吐息の甘さと、締め付ける内壁が壬生の快楽の度合いを現していた。
犬神はその反応を確認すると、締め付ける肉を掻き分けるように強引に指の本数を増やして行った。
「…あふぅ…ぁ……」
指を増やしても壬生の締め付けの強さは緩むことがなかった。いやそれ以上に刺激を求めて、益々きつく指を銜え込む。
「こんな狭いのに俺のを入れたら…引き千切られるかもな」
冗談とも本気ともつかない声で犬神は言いながら、指を引き抜くと一気に自らのそれで貫いた。
『先生、桜が綺麗ですね』
想い出は何時も、桜。花びら舞い散る、桜の夜。
『桜は儚いから、綺麗なんですね。人もきっと…儚い命だからこそ、綺麗なんでしょうね』
ああ、お前は綺麗だ。儚い命を精一杯生きたお前は。お前は綺麗だ。
俺とは違う。ただ無意味に時だけを重ねて。
重ねただけで何一つ生み出しはしない俺とは違う。何も持とうとはしない俺とは違う。
お前はその短い生涯の中で確かに『持って』いた。
俺にはないものを。俺にて手に入れられないものを。
その真実を持っていた。
『先生、大好きです』
たったひとつ、お前が見つけ出した真実。それが『俺』だという事に…お前は後悔をしていないだろうか?
「…あああっ!」
白い喉を仰け反らせながら、壬生は犬神の拡張を受け入れた。
狭過ぎるそこは慣らされているにも関わらず犬神をたやすくは受け入れなかったが、
一度埋め込んでしまえば後は逃がさないようにと、きつく締め付けてきた。
「…ああっ…あああ…」
背中から血が流れてきたのが犬神にも分かった。けれどもそのまま犬神はその身体を貫いて行った。
狭い内壁を掻き分け、最も奥の部分をその楔で貫く。その度に壬生の口からはひっきりなしの甘い悲鳴が零れ落ちた。
「…はぁ…ああっ……」
仰け反る喉に、噛みついてみた。このまま引き千切って、死なせてやろうかと思って。
けれども牙を出しかけて、それを寸での所で押し込めた。
…名前を…呼んだから……
それは多分彼が何よりも望んでいた者の、名前だろうから…。
耳を塞いでも、瞳を閉じても。
貴方の顔は瞼の裏に浮かんでくる。
貴方の声はこの耳に届く。
貴方の全てが自分と言う名の全てで記憶している限り。
僕はどうすることも出来ない。だから、誰か。
…僕を殺して…ください……。
「このまま犯し殺して、ください」
髪から零れる汗が、顔にひとつ掛かった。快楽に潤んだ瞳は、それでもひどく真剣だった。
「喉を噛み切ってか?それとも肉を食らい尽くしてほしいか?」
「どちらでも…貴方の望むままに…」
そう言って微笑う笑顔に、俺は再び『綺麗』と言う言葉を思い出す事になるとは思わなかった。
…もう二度と…使う事の無いその言葉を……。
還りたい場所。たったひとつだけ。それは貴方の腕の中。
それが叶わないのならせめて。
せめて魂だけでも、貴方の傍にいさせて。
「…うそつき、だな…お前は…」
「今までの僕の人生は嘘で固められたものです。それを今更何を言われても変わりません」
「では、最期の『真実』は?」
「…それは…」
「それは貴方だけが、知っているでしょう?」
確かにそうだ。最期の呟きは俺だけが、聴いたのだから。
…その名を…俺だけが…。
そして全ての真実をこの月の下に埋めてしまおう。
End