繋がれた鎖を解かないのは…淋しかった、から?
口付けは何時も、血の味がした。
この生臭い血の味に慣れてしまった自分が。自分がひどく哀しく思える。どうして慣れてしまったのか?
どうしてそれを否定出来ないのか?
「…逃げたいのなら…何時でも俺から逃げていいぞ…」
耳を噛まれながら囁かれた言葉に。瞼を震わしながらも、頷けないでいる。逃げようと思えば、何時でも逃げられる。
この腕から、この日常から。
…この首にかけられた、鎖から……。
「逃げてもどうにもならないですから」
微笑ってみた。自分でもぎこちない笑みだと分かっていたけれども。普段から笑わないから笑い方が分からなかったけれど。
それでも…笑ってみた。
「どうして?俺を殺せなかったからか?暗殺の失敗の代償は『死』か?」
「…死ぬ事は…怖くないです……」
「そうだな、お前は俺に殺されたがっていた。ならば何故?」
「こうして縛られていれば、理由がいらない」
「…理由?…」
「僕が貴方を殺さないのも、貴方に僕が殺されないのも。貴方の腕に抱かれる事も…何も理由を必要としない」
「そんな物をお前はわざわざ求めるのか?」
「求めては、いけませんか?」
「くだらないな。理由などどうでもいい。ただ今現実に俺がお前を捕らえてこうして抱いているだけだ。
それ以外に何を求める?」
「…求めては、いけませんか?……」
「お前は何が欲しいんだ?」
「…僕が貴方から『逃げられない』理由……」
「逃げないのは、自らの意思のくせに?」
「それでも理由が欲しいと思うのは…僕は矛盾していますか?」
「…いいや…お前にとっての『真実』がひとつしかないのなら…ひとつしかないのだったら他は全て嘘なのだろう?
だったら今こうして俺の腕にいるのも、嘘だ」
「貴方の口付けに、唇が慣れてしまいました」
「煙草の味がするか?」
「いいえ…貴方の口付けは血の味が、します……」
一匹の狼を飼っている。手負いの狼を。傷つき今にも壊れそうな一匹の狼を。
破滅したらしたで構わない。壊れるなら壊れるで構わない。
所詮ただの、退屈凌ぎだ。
「…あっ……」
薄い胸元に口付けると、それだけで口許から甘い吐息が零れる。慣らされた、身体。快楽に慣らされたその、身体。
「…あん…ふっ……」
牙を立てられる。その敏感な個所に鋭い牙が。けれども壬生にとってその痛みすら、もう快楽を呼び起こすものでしかなくて。
その痛みを感じたくて、髪に指を絡めて押しつけた。
「…あんっ…」
かりりと音を立てながら、胸の果実を噛まれる。そこから紅い血が滲んだ。
けれどもそれすらも壬生にとっては瞼を震わせる事にしかならなくて。
…その痛みすら、快楽にしかならなくて……
「…はぁ…ん……」
長いため息。甘い、吐息。背筋から這い上がる快感を、壬生は堪える術を知らない。堪えようとも、思わない。
この男の腕に抱かれ眩暈すら憶える程の快感が。その全てが、自分の望んだもの。自分から欲しがったもの。
所詮、穢れた身体だ。穢れた心だ。今更取り繕ってもなにも出ては来ない。
自分は快楽のみに反応する浅ましいただの獣だ。この腕から逃れないのも、自らの身体が愛撫を快感を求めているからだ。
それ以外に…何も、無い。
何も、無い。ただそれだけだ。
「…もっと……」
ざらついた舌と冷たい牙が、身体中を駆け巡る。その冷たい感触が自分の身体を熱くする。そこに愛も想いも何も無いのに。
ただ身体を重ねるだけなのに、どうして自分はこんなにも切なくなるのか?どうしてこんなにも苦しくなるのか?
……それが、分からなかった。
『愛しているよ、紅葉』
その一言が永遠だったならと…そんな事を思ったら、泣きたくなった。
「…ああっ……」
喉を仰け反らせて壬生は絶頂を迎えた。犬神の手のひらに白い欲望を吐き出す。その反り返った喉に犬神は口付けた。
軽く牙を立てると、ぴくりと肩が揺れた。
「俺の手が汚れた。綺麗にしてくれ」
精液でべとついた手を犬神は差し出す。壬生は迷う事なくそれを口に含んだ。
自らの吐き出した欲望を舐める事すら、羞恥心が何処かへと行ってしまった自分には何でも無い事だった。
「…ん…くふ……」
口の中に入れられた指が喉の奥を抉った。その瞬間壬生はむせかえったが、犬神は構わずにその指を口内で勝手気侭に玩ぶ。
長い爪が壬生の器官を傷つけた。
「痛いか?」
「…痛みすらも…僕には快楽です……」
見上げてくる潤んだ瞳が、その言葉を事実だと告げていた。ならばそれで構わない。
傷つく事で快楽を得られるのならばもっと…傷つけるだけだ。
「…ふぅ…くんっ……」
牙を立てて再び喉を噛んだ。指は口の中に突っ込んだままで。それでも壬生はそれに答えた。舌の動きを止めはしない。
生き物のように蠢かして何度も精液を掬い取った。
「…あっ…」
口の中の指と喉元に立てていた牙が外される。その喪失感に壬生は瞼を震わせた。
「ほら、お前の慣れた血の味のする口付けだ」
けれどもその喪失感はすぐに埋まった。口の中に広がる鉄の味がその喪失感を埋めてゆく。
唾液と血の味と交じり合った液体が壬生の口中を埋めた。
「…んっ…んん…」
「全部飲み干せ」
「…ふっ…んんん……」
飲みきれない液体が壬生の口許を伝う。けれども犬神はそれを許さなかった。
自らの指で掬うと、再び壬生の口の中に指を含ませた。
「…ふぅん…は……」
ぴちゃぴちゃと音を立てながら、壬生は綺麗にその指の液体を舐め取った。そしてやっと唇が開放される。
「…先生……」
「何だ?」
「…早く僕を貫いて…そしてめちゃくちゃにして…」
「ふ、どうしようもないな。もう我慢が出来ないのか?」
「めちゃくちゃになりたい」
「それは何に対してだ?」
「…自分に対して…そして…全てに対して…」
「お前ほど単純でそして複雑なガキを見たのは初めてだ。まあいい。望み通りにしてやるよ」
そう言うと犬神は壬生の細い腰を掴んで一気に貫いた。
自分を傷つける事で。自分をぼろぼろにする事で。
生きていると実感する。生きていると感じる。
そして貴方を愛しているんだなと…改めて思った。
…愛している…貴方だけを、愛している……
こうしてぼろぼろになって何もかもに絶望して。そして唯一光輝く場所が貴方だけだから。
僕が闇に堕ちれば堕ちる程、貴方が輝いて見えるから。
…愛しているんだと…思った……
『君だけを愛している』
この言葉を永遠だと信じられない僕だから。
だから僕はこうして自分を傷つける。闇へと堕としてゆく。
貴方がくれた全ての愛と想いを素直に受け止められたなら。
…僕は今頃どうなっていただろうか?
「…あああっ!」
硬く巨きな楔が壬生の体内を抉った。狭過ぎる器官を掻き分け、熱い楔を打ちつける。
「…はぁ…ああ……」
浅ましい肉は犬神自身を逃すまいと必死に締め付けた。絡みつく淫らな肉壁をあざ笑うかのように犬神は侵入を繰り返す。
「…あっ…あぁ…は…」
「相変わらず狭いな。どんなに男を銜えてもお前のココは処女のようだな」
「…あああ…ぁ……」
最奥まで貫くと最も感じる場所に当たったのか、壬生の身体が鮮魚のように跳ねた。
その反応を見届けると、犬神は再び壬生の身体を侵略する。
熱い、身体。絡みつく肢体。子供の頃からこういった行為をさせられていたと言った。
幼い頃から男を悦ばす為だけに仕込まれていたと言った。
…その為だけに自分は『生かされている』とまで言った。
だからめちゃくちゃにされたいのだろう。初めて知った愛する人に抱かれる行為に。
快楽の為だけでないセックスに、心を壊されたのだろう。
本当にバカなガキだと思う。自分自身を傷つけているのは、罪悪感からだ。
愛するひとに抱かれる事よりも他の男に感じてしまう自分への罪悪感からだ。
俺にめちゃくちゃにされたいと思うのも…俺から離れられないのも、その現実から目を逸らしているからだ。
目を、逸らしたいからだ。
死に急ぐのは、真実を知ってしまったから。愛する気持ちを知ってしまったから。
その気持ちに心のバランスが耐えられなくなって、否定する事で自分を保とうとする。
…それでも俺から逃れられない理由を欲しがるのは…愛する気持ちをそれでも止められないでいるからだ……。
「あああっ!!」
意識が一瞬真っ白になる。そしてそのまま全てがブラックアウトした。
どくんどくんと身体の中に欲望が吐き出された感触だけが、唯一自分の意識の中に残された。
永遠にこの見えない鎖に繋がれていたら…僕は幸せなのかも、しれない。
目が醒めて真っ先に気付いたのは、煙草の香り。貴方の、匂い。
「気がついたか?」
「はい」
まだぼんやりとする視界にライターの火だけが鮮やかに見えた。こんなシーンを自分はどれだけ見ていただろうか?
どれだけ沢山…見ていたのだろうか?……
「…今だったら、貴方を殺せるのかな?…」
「お前には無理だ。今のお前には殺意がないからな」
「…貴方を愛したら…殺せるでしょうか?…」
「それもお前には無理だ」
「お前は愛する者には、殺す前に自分が死ぬだろう」
「分かりますか?」
「だからお前は誰よりも単純で複雑なガキなんだよ」
「…お見通し…ですね…」
それ以上犬神は答えなかった。ただ口の端に煙草を咥えて、ひとつ笑っただけで。そして壬生もそれ以上は聞かなかった。
聞いてどうにかなるふたりならば、きっとこんな風に抱き合う事は無いだろうから。
…こんな風に…抱き合う事は……
理由なんていらないのかも、しれない。
僕が貴方の見えない鎖に繋がれた。それだけで。
…それだけで…もう……
淋しいだけじゃない感情が僕の心を支配する。
それが何なのか、答える事が僕には出来なかった。
そしてそれを答える時が来たらきっと…
…きっと僕はこの鎖を自ら解くだろう……
End