知っていて、気付かない振りをしようとして。
それでも。それでもやっぱり出来なくて。
嘘を、付く事が。
その事の方が、胸が痛いから。
だからずっと一緒に、と。ずっと一緒にいるって。
…言えない、から……。
どうしたら『ずっと一緒にいれる』って言えるの?
背中越しに見える月だけが、ふたりの秘密を知っている。
「…先生……」
そうやって呼び掛けるだけで、胸が苦しくなるのはどうして?
「なんだ?」
ゆっくりと顔を上げて、先生の顔を覗き込んだ。かち合った瞳は深い闇。深すぎて、俺には届かない。どんなに手を、伸ばしても。
「何でも…ないんです…」
そう言ってまた、俺は先生の膝の上に顔を埋めた。なんだかその瞳を見ているのが、辛いから。
静かな生物室。音のない部屋。月明かりだけがふたりを照らす部屋。先生は何時ものように椅子に腰掛けて、そして俺はその膝の上に顔を埋める。先生は何も言わずにただ、ただ俺の髪を撫でてくれた。
その指先の優しさが、優しさが切なくなる。言葉ではどんなに無口でも、瞳がどんなに闇に包まれていても、それでも。それでもこうして撫でてくれる指先は、優しいから。
「変な奴だな」
少しだけ先生が、微笑う。顔を見なくても表情を見なくても、先生のことならば俺は何時しか分かるようになっていた。だってバカみたいに先生を…見ていたから…。
「先生の声が…聞きたかったんです……」
ずっと、聴いていたい。優しい言葉じゃなくていいから。どんな言葉でもいいから。先生の言葉を。先生の声をずっと。ずっと聴いて、いたい。
「バカなガキだ」
バカと言う言葉を言われてイヤじゃないと思ったのは先生が初めてだった。誰に言われてもむかついていたのに先生に言われると何故かひどくくすぐったい。そして。そして、嬉しい。
「もっとなんか喋ってください」
目を閉じて。先生の指だけが俺の感覚の全てになって。先生の声だけが俺の聴覚の全てになって。そして。そして俺の全部が先生だけになれたならば。
…そうしたら…胸の痛みは収まるの、かな?……
月の回路を昇り続けたら。そうしたら。
そうしたら、届くのかな?
先生の居る場所にまで、行けるのかな?
先生と同じところに、行きたい。
「ねえ、先生」
「ん?」
「先生は『永遠』なの?」
俺の言葉に先生の髪を撫でてくれる手が止まった。俺はそっと顔を上げて先生の表情を見つめ返した。相変わらず闇色の瞳は表情ひとつ変わらない。何も、変わらない。
「それはどう言う意味に取ればいい?」
でも先生は分かっている。俺の質問の意味を。他の誰よりも先生自身が一番、分かっている。
「先生は、死なないの?」
それでもあえて俺は聴いてみた。分かりきった答えを、それでも自分の心に先生の言葉として刻みたかったから。先生の言葉として。
「――そうだな…この身体が滅びる事はないだろうな」
俺は手を伸ばして先生の指に自らの指を絡めた。そしてそのままその手を俺の頬に重ねる。冷たい、手。先生の手は何時も冷たい。でも本当は暖かい事を、俺は知っているから。
「ずっと、死なないの?」
「心は死ぬだろうがな」
「こころ?」
「いやもうとっくに死んでいるのかも、しれない」
―――どうして?そう聴こうとして、けれども俺の唇は自ら閉じてしまった。なんとなく先生の言いたい事が分かったから。分かった、から。
「俺は生ける屍なのかもしれんな」
イヤですと首を振ろうとして、そして俺は躊躇った。そんな俺だけの我が侭を先生にぶつけても、きっと先生は困るだけだろうから。何も先生に出来ない俺が。そんな俺が、言うことが。
―――俺は何が、出来る?先生の為に俺は何が出来るの?
何時も思っている、事。そして何時も出ない答え。堂々巡りの質問。でも今。今ふと気がついた。先生の為にしてあげられる事が。
こんな俺にも先生に、してあげられる事が。
『先生と、ずっと一緒にいる』
初めて、言葉にして言った。ずっと言えなかった事。
言いたくても言えなかった事。
だって俺と先生を刻む時計の針の長さは違う。
俺と先生の刻む鼓動の音も。それでも。
それでも俺は、俺は先生と一緒にいたいから。
ずっと一緒にいたい、から。
…先生が独りぼっちで…淋しくならないように……。
「お前にはムリだ」
「先生と違って死んじゃうから?」
「ああ、お前はいずれ年老いて死んでゆく。それが人間だ。生あるものは眩しい程に輝いて俺の前を通り過ぎてゆくだけ。どんなに俺が手を伸ばしても、それを掴めるのはほんの一瞬。後はこの手から消えてゆくだけだ」
「だったら俺、死なない。先生と一緒になる」
「…黒崎?……」
「そうしたらずっと、ずっと先生と一緒にいられるよね」
「そうしたら先生、淋しくないよね」
言葉だけじゃダメだから。祈りだけじゃダメだから。
だから、だから俺は。
その言葉を実証したくて、先生の手首を噛み切った。
「黒崎?」
噛み切った先には先生の血。紅い、血。よかった、先生の血は俺と同じ色をしている。
俺は噛み切った先から溢れ出る血を舌で掬ってそのまま啜った。
口の中に広がる鉄の味と、そして微かに感じる甘味が。それがじわりと口中を支配する。
「先生の血、舐めたら俺も先生と同じになれるよね」
その言葉に。その言葉に一瞬、だけ先生は驚愕の表情を浮かべて。そして。そしてそのまま俺を抱きしめた。
―――痛い程に、抱きしめた。
どうしようもないガキだ。
俺の血を舐めたら俺と同じになれるだって?
そんなバカげた考えを持つ奴を俺は初めて聞いた。
本当にどうしようもない程のバカだ。
…バカだな…お前は……。
「なれる訳がないだろう?そんなんで」
「…なれないんですか?」
俺の言葉にひどく傷ついたような顔でお前は見上げて来た。今にも泣きそうな顔で。
「そんな簡単に不老不死になったら地球は破滅だ」
その言葉に本当にお前は泣き出した。大きな瞳からぽたぽたと大粒の涙を零しながら。そして。
「…ごめんなさい…」
「何故謝る?」
「…だってだって…手首噛んで痛かったでしょう?先生痛かったでしょう?ごめんなさい…ごめんなさい…」
「別にお前の歯なんて痛くも痒くもない」
「でも血をいっぱい出しちゃって…ごめんなさい…」
何度も何度もお前は謝る。子供のように泣きじゃくりながら。いや子供だ、お前は小さな子供だ。穢れを知らない。汚いモノを見た事のない、透明な子供。
「謝らなくていい、だから泣くな」
「…先生?……」
「俺はお前の涙を見るのが一番いやだ…俺は…」
「お前の泣き顔は見たくない」
先生の指が何時しか俺の眼鏡を外して、涙を拭ってくれていた。そして。そしてそっと舌が触れる。ざらついた舌が俺の涙を掬う。
「…先生…俺……」
「ん?」
「先生が一番好き。先生が好きだからずっと一緒にいたい」
「分かっている」
「本当だよ、俺ずっと先生と一緒にいたいんだ。俺の方が先に死んじゃうけど…でもでも嘘じゃないよ」
「分かっている。お前は俺に嘘を付いた事なんてないんだから」
「…先生……」
「お前が俺より先に死んだって、一緒にいるさ」
「……せん…せ…い?……」
「だってお前は嫌と言うくらいに何時の間にか俺の心に住み着いてしまったからな」
お前が俺のこころにいる限り。
例え肉体が生命が滅びろうとも。
俺の心にいる限り。
お前は俺と共にいる。
お前は俺と一緒に、いるんだ。
「…先生の心から消えないように…」
「消えないように?」
「俺先生の傍にいます」
「先生の傍に、います」
俺の言葉に先生は、微笑った。柔らかい笑みで。
それは。それは俺が一番大好きな先生の顔、だった。
月の回路。
必死に辿りつきたくて昇る俺を。
そんな俺を先生は待っていてくれた。
手を差し出して、俺を。
待っていて、くれた。
…ふたりで一緒に、昇る為に……
End