白いシーツの上にひとつ、花びらが零れた。
ぽたりと、ひとつ。
ひとつ、零れて。零れてそして広がる紅の色。
そこに咲く華の色がとても綺麗で。
綺麗過ぎて、少しだけ怖かった。
「またお前は自分自身を傷つけている」
煙草の匂いと同時に聴こえてくる、声。この声を聴くことで自分の神経は正常に戻される。
この声を聴く事で、自分は『今』へと戻される。
「いけませんか?」
「いや、お前自身が勝手にしている事だ。俺にはどうでもいい」
相変わらず自分に全く関心がなくて、いや他人全てに関心が無い。けれどもそれが、それがひどく自分を安心させる。
貴方は気にも止めないから。僕が何をしても、どんな事をしても止めないから。
僕がこうやって自分自身を傷つけても、自分をぼろぼろにしても、貴方は僕に無関心でいてくれるから。だから、僕は。
「先生」
腕を伸ばして口付けをせがんだ。貴方はその欲求を拒むことはない。僕が望むだけ、口付けをくれる。そして抱いてくれる。
だから、貴方から僕は離れられない。
「俺の服がお前の血で、汚れるな」
「後で僕が洗っておきます」
「いや、このままでいい」
カツンと音がして床にナイフが落ちた。さっきまで自分の身体を切り刻んでいたナイフ。
こうやって身体を傷つける事でしか僕はもう自分が生きていると確かめる術を知らない。
貴方の唇が降りてくる。冷たい牙の感触と共に。煙草の香りと共に。
…このまま…正気を失えたらなと…そう思った……
瞼を閉じれば、浮かんでくるのは貴方の笑顔。
僕にとってそれはもう遥か彼方へと遠ざかってしまった。
眩しい、眩し過ぎる光の下の貴方の笑顔。
それだけを見つめていられたらと、そう想いながらも。
僕はこの闇を望まずにはいられない。
貴方の光が眩しければ眩しい程。
僕はこの闇に惹かれずにはいられない。
この闇に僕自身を隠して、そして自らの存在自体を。
この世の全ての記憶から消してしまいたい。
求めた。貴方を求めた。
狂ったように、何度も何度も。
貴方の楔に貫かれて。
何度も何度も絶頂を迎えた。
器官が麻痺してしまう程。神経が麻痺してしまう程。
何度も何度も貴方に貫かれた。
ぽたりと髪先から汗の雫が零れる。
「…せん…せぇ…っ……」
快楽に潤んだ瞳は正確に視界を捉えてはいない。
それよりも快感の波に流された意識ではもう何もかもが正常には捕らえられないだろう。
「…あぁ…もっとぉ……」
獣に戻って浅ましく肉を求めるだけで。それ以外の意識はもう何も残されてはいないだろう。
「…紅葉……」
名前を、呼んでみた。これほどこいつを抱いていながら、名前を呼んだのは初めてだった。
いや名前すら俺にはどうでもいい事だったのだから。
「…先生…どうして…」
けれどもそれは予想外の効果があったらしい。焦点のあっていないはずの瞳が、俺自身の顔を捉えた。
快楽に潤んでいた筈の瞳が、壊れた硝子の瞳の色に摩り替わった。
「…どうして…名前を…呼ぶの?…」
「呼ばれるのがいやなのか?」
ぽたりとまた、雫が零れ落ちた。けれどもその雫は髪から零れる汗ではなかった。
それはその壊れた瞳から零れ落ちた涙の雫だった。
「…あのひと以外…誰も…呼ばなかった……」
ぽたり、ぽたりと。頬に雫が零れ落ちる。まるで雨のように。
「…誰も僕の名前を…呼んだ事は無かった…」
「呼ばれたくなかったのか?」
「…分からない…分からない…あのひと以外…呼んでくれなかったから…分からない……」
壊れた、こころ。それを元に戻せる事が出来るのは多分…この世に一人だけだろう。俺にはどうでもいい事だが。
それでも、放っておけないと思い始めたのは…少しだけこいつに情が移ったのか?
…情?…この俺が?……
そんな事を思った自分がひどく、可笑しかった。そんなものが自分の心に存在する事自体がくだらないと思ったから。
「…分からない……」
ぽたぽたと零れ落ち続ける、涙の雫。それが収まるまでしばらくの時間を要した。
『紅葉』
優しく優しく呼ぶ貴方の、声。そして声以上に優しい口付け。
『愛しているよ、紅葉』
瞼が震える程、口付けられて。そしてその腕に抱かれる。
優しい優しい腕の中。
今まで自分を抱いてきた男とは明かに違うその腕。
『愛してる。君だけを』
その腕が優しければ優しいほど、貴方の愛が本物であればある程。
僕は哀しくて、苦しくて、どうしようもなくなった。
そして何時も誰かに助けを求めていた。
「優しくされるのに、お前は慣れていないんだな」
「…優しくしてくれる人は…それなりの見返りを求めましたから」
「お前の身体、とか?」
「ええ、優しさの代償はセックスですから」
「ならば見返りの無い優しさは?」
「…それは…苦しいです…」
「…苦しくて…痛いです……」
髪を撫でて、みた。その途端目にはっきりと分かる程、その肩が震えた。こうして触れ合う事には慣れていない憐れな子供。
セックスをする事は出来ても、触れ合う事が出来ない子供。
…可愛そうだと…今、初めてそう思った……
シーツの上にまた、花びらが零れた。
ぽたりとひとつ。
それは透明な華、だった。
End