初めて手に入れた、自分が安心して眠れる場所を。
今日は、日差しがひどく眩しい。
「太陽の光を見たの、久しぶりな気がします」
窓から差しこむ日差しを見つめながら壬生はぽつりと呟いた。闇に生きるもの。闇の下が自分達の生活の場所。
自分達の居場所。だから、だから光ある場所には近づけない。
眩し過ぎて目を開く事が出来ないから。だから近づく事が出来ない。
「でもお前の男は光に生きるものだろう?」
背後から聞こえる犬神の言葉に、壬生は曖昧な表情で返した。犬神の口からその事を言われるとは思わなかったので。
あのひとは、光に生きている。綺麗な道を歩んでいる。自分とは正反対の誰にも穢す事の出来ない綺麗な、道。
その道を僕の血で穢す事なんて出来はしない。
「今の僕は貴方のものです」
自ら腕を伸ばして、犬神の首筋に絡めた。そしてそのまま唇を奪う。犬神は壬生のさせたいままにさせた。
舌を絡め、そして。そして淫らに犬神を誘う。けれども。
「…外に…行こう」
「え?」
唇を離して零した犬神の言葉に、壬生は戸惑いを隠し切れなかった。自分はこの男の見えない鎖に繋がれている。
生かすのも殺すのもこの男の自由だ。殺されるのも、自由だ。
「外に出たら、僕は貴方から逃げるかもしれませんよ」
「…逃げたいのなら、逃げればいい…」
その犬神の言葉に、壬生はひどく傷ついた瞳を見せた。
逃げるのは、自由だ。逃げようと思えば何時でも逃げられる。
その腕から、その瞳から、その闇から。
でも。でも逃れたいとは思わない。
その腕に抱かれた時から。その闇に囚われた時から。
…逃げたい…と言う気持ちは何処かへと消え去った……
ただひとつだけ、自分が安心して眠れる場所。
愛する事に疲れたのかもしれない。
初めて知った真実の愛。初めて手に入れた無償の愛。
けれどもその愛は眩し過ぎる光の中にあって。
この血まみれの手では、手にしてはならないもの。
貴方を穢したくないから。綺麗な貴方を穢したくないから。
愛してると言って抱きしめてくれた貴方の腕が、血まみれになってゆくのを。
優しい口付けをくれた唇が、闇に溶かされてゆくのを。
僕は見たくは無かったから。僕は貴方を光から奪えないから。
…光の中にいる貴方を…闇に招き入れる事は出来ない……
「眩しいな」
呟いた犬神の言葉に無意識の内に微笑った。自分よりも光の似合わない人。闇に染められている人。
「先生も日の光は久しぶりですか?」
「一応教師やっているんだ。日の当たる時間には起きている」
「…見てみたいです…」
「何が?」
「貴方が授業をしている所を」
本当にそう思った。見てみたいと思った。自分を抱いている以外のこのひとを、見てみたいと思った。
どんな顔をして授業をしているのだろう?どんな顔で生徒を教えているのだろう?どんな、表情で?
「身体の授業以外にか?」
その言葉に壬生は微笑った。楽しそうに。本当に楽しそうに。
何時しかお前の笑う顔を見るようになっていた。
全てに絶望し、全てを投げ出していたお前が。少しづつ微笑うようになっていた。
子供のように。生まれたての子供のように。
多分お前のその顔を知っているのは俺だけだろう。お前の愛した男ですらその顔を知らない。
いや、お前すら自分がそんな顔を出来るとは気付いていないだろう。
自分自身すら気付いてない所で、俺に無防備な笑顔を見せる。
その笑顔が、いやになるくらいに『彼女』に被る。遠い昔、俺が。俺が唯一愛した女に。
…もしかしたらそのせいで…俺はこいつを手放すのが惜しくなっているのかもしれない……
「あ、猫」
壬生はダンボール箱に捨てられていた猫を見付けると、そのまま近付いて抱き上げた。そしてそっと腕の中に暖めてやる。
「…こんなにやせ細って…可愛そうだ……」
抱きしめて辛そうな顔で呟くその表情に、猫と自分を重ね合わせているのかもしれない。
誰からも愛されず、誰からも護ってもらえなかったお前。
子供なら与えられる筈の無償の愛を、親の保護を与えられなかったお前。
…父親の力強い腕を…母親の優しい手を知らない…お前……
「優しくしない方がいい」
「先生?」
「その場凌ぎの優しさは、逆にこいつを傷つけるだけだ」
「………」
「それはお前が一番分かっているだろう?」
壬生はその言葉に猫に一度だけ口付けると、そっとダンボールへと戻した。その瞳は、泣きそうだった。
「…先生も……」
「ん?」
「…先生も…分かっていますよね…」
その先の言葉を壬生は飲みこんだ。その先を聴く事は。その先を答える事は、互いにとって。互いにとって。
「帰ろう『紅葉』」
…この関係が終わる瞬間だと…気付いているから……
「…先生……」
背中を向け歩き出す自分にお前は一瞬躊躇った。背中に痛い程の視線を感じる。
その痛みがお前の受けてきた心の痛みなのだろうか?
「行くぞ」
「はい」
けれどもお前は付いて来た。再びこの鎖に自ら繋がれる為に。そしてこの腕の中に抱かれる為に。
貴方の広い背中を見ていたら、何故か泣きたくなった。
理由なんて分からない、ただ。ただ泣きたくて。
貴方の背中が見えなくなったらどうしようと。貴方の背中が僕の前から消えたらどうしようと。それだけを思って。
…僕から消えないでと…それだけを祈った……
「先生、名前で呼んでくれて嬉しいです」
そっとお前は隣に立つと、それだけをぼそりと呟いた。
光、ある場所。
憧れていた。そして怯えていた。
どうしようもない程に焦がれて、どうしようもない程に怯えていた。
自分を見失うほどに愛して。自分を護る為に逃れて。
そして辿り着いた先の闇に。この深過ぎる闇に。
僕は全てをあずけた。全てを開放した。
例えこれがかりそめの関係だとしても。その場凌ぎの優しさでしかなくても。
でも、それでも。
それでも僕は、手放したくない。
このひとを、この場所を。
手放したくないと、思った。
…もう二度とその光を手に入れる事が出来なくても……
End