…これが恋だとは、気付かなかった……

少しだけ掠れた、低くよく通る声で名前を呼ばれた時。

『緋勇』

その声が耳に届いて柔らかく擦り抜けて、そして。そして心まで響いて。響いてゆっくりと胸に染み込んで。
染み込んで、魂まで広がった瞬間。
…ただ、泣きたくなった事だけを…覚えている……

桜の下で、一度だけ。一度だけ貴方が見せてくれたその笑顔。

「…犬神先生……」
少しだけ戸惑いながら、その名を呼んだ。その瞬間口の中に広がる、哀しい味は何処から来るのだろうか?
「…何だ…緋勇、か……」
煙草の、匂い。この人の匂い。何時しか僕が覚えてしまった香り。
この匂いに包まれたいと思ったのは、何時からだっただろうか?
それは遠い昔のように思えて、そしてつい最近のようにも思える。螺旋のように巡る、この想い。
…どっちが本当かなんて…もうどうでもいい事だけど……
「桜、見ていたのですか?」
声には出さずにひとつだけ頷くと、視線を一面の桜へと向ける。むせかえる程の甘い香りが煙草の匂いをかき消した。
それが、嫌だった。
この一面の桜が、この人を奪って行ってしまうような気がして。この狂い咲く桜の香りが。
「…花を綺麗だと思ったのは、久しぶりだな…」
貴方の香りを感じたくて。その匂いを感じたくて、そっと貴方に近づいた。けれどもそれ以上は踏み込めない。
それが僕と貴方の距離。
…最期の一歩を踏み込ませてくれない…それが貴方の、優しさ……
「忘れていたよ、花が綺麗だと言う事を」
ここにいながらも遠い場所を見ている貴方。何処を見ているの?聞きたくても聞く事が出来ない。
聞いてしまったら…きっと僕は永遠に貴方を失う。
こうして近づく事すら、出来なくなるのだろう。
貴方の見ている場所へ僕が入る事は出来ない。貴方の居る場所へ僕は行く事が出来ない。それが距離。
貴方と僕との永遠の距離。
それでも。それでも出会ってしまった僕らは…貴方に出会ってしまった僕は、どうすればいい?
「先生…永遠ってあると思いますか?」
貴方が捕らわれているものは『永遠』。僕には入り込む事の出来ない、永遠の絆。
その絆に触れてしまえばきっと、貴方は幻になる。
「永遠か…そんなものはないよ」
「でも先生は永遠に捕らわれている」
「捕らわれている?ああ、そう見えるか?」
「違うのですか?」
「捕らわれているんじゃない。俺が捕らえているんだ」
煙草の、匂い。貴方の匂い。その匂いに包まれたい。包まれて、そして何もかもを無にしたい。
「だから永遠じゃない。俺が離したらそこで終わりだからな」
「でも先生は…離さないでしょう?」
ふたりに降り積もる桜の花びら。ひらひら、ひらひらと。ふたりの下に降り積もる、桜の花びら。
…このまま…埋もれてしまいたい……
このままふたりで埋もれて、閉じ込められて。そして。そして『永遠』に。
「花が、綺麗だな」
「先生?」
「綺麗だと、思ったよ。お前がいたからだろうな」
一瞬だけ。一瞬だけ貴方の口許が微かに綻んだ。それは貴方が僕に見せてくれた初めての…笑顔…だった……。

「ずっと忘れていた、ありがとう」

「…せん…せい……」
声が、上手く出なかった。恥かしいくらいに声が震えて。…震えて……
「じゃあな、緋勇」
軽く手を上げると貴方は桜の花びらに埋もれるように僕の前から去っていった。僕は…僕はただずっと。
ずっとその背中を瞳で追うだけだった。
追いかける事も、呼び止める事も、出来なかった。
…分かっている…それがふたりの距離。僕らの永遠に埋められない、距離。
それでも。
それでも今この瞬間だけ。この瞬間だけ貴方の心に僕が触れたと…自惚れても…いいですか?
たとえそれが一夜の、幻でも。

…今、この瞬間…だけ……

『犬神先生』

微笑う、お前。無邪気に何者にも穢れない笑顔で。真っ直ぐに俺だけを見つめたその瞳。
弱くて壊れそうなのに、けれども強い女だった。
…強い、女だった……
俺に向ける視線は逸らされる事はなくて。俺を見つめる瞳は何時も透明だった。
細い肩で小さな身体で。俺を必死に護ろうとした女。俺だけの為に生きて、死んだ女。
…似ていると、思った……
似ていると思った。だから近づけなかった。だから放っておけなかった。
螺旋のように巡る繰り返しの相反する想い。
でも。でもお前は『未来』に生きる者だ。『過去』に生きる俺とは違う。俺の時間は止まってもう動かない。
お前とは生きる速度が違う。生きる時間が違う。だから。
…だからお前には…触れる事が出来ない……

桜の花びらの下に俺の心は埋もれてゆく。
もしも永遠が存在するとしたら、今埋められた俺の心がそうなのかもしれない。

…もしも『永遠』が…存在するのならば……

これが恋。僕の貴方へ想い。
永遠に届く事のない、僕の想い。
貴方は月の下に埋もれてゆく。そして僕は太陽の下で生きる。
でも確かに。

確かにこの気持ちは『恋』だった。

全ての真実を知っているのは、この桜だけ。埋もれて死にゆく、この花びらだけ。



End

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