…むせかえる程の、血の香り。
太陽は何処にあるのだろう?
光は何処にあるのだろう?
それを渇望する事は、許されない事なのか?
闇に生きる自分が手にしては、いけないものなのか?
…時間とは、一体何だ?
目の前に広がる血の匂いに、眩暈すら覚えそうになった。喉元を噛みきられて幸せだと思ったのは、私が愚かな女だったから?
肌に食い込む牙の感触が。初めて知るこの冷たく鋭い牙の感触が。この感触が、自分が一番欲しかったもの。
「…犬神…先生……」
べったりと纏わりつく自分の血が、意識を朦朧とさせる。それでも。それでもこの牙の感触がそれを押し止めていた。
この痛みと言う名の快楽が私の意識を引きとめる。
「愚かな女だな、お前は」
煙草の香りが、する。私の血に混じって。貴方の香りが。その匂いに交われて、私は幸せ。そう、私は幸せなの。
貴方には分からないでしょう?
「…愛して…いるわ……」
永遠に貴方には分からないわ。だって私は女だから。愛する男に抱かれて、貫かれて。
そして全身を切り刻まれ、貴方に食べられる事が幸福なんて。
…貴方には永遠に…分からないでしょう?……
「…貴方を…愛している……」
私の流れる血を全て、飲み干して欲しい。その牙で私の肉に噛みついて欲しい。そして全てを食らい尽くして欲しい。
そして貴方の中に私の全てが取り込まれたら…取り込まれたら…もう…もう何も望まない。
貴方を永遠に手に入れる事が叶わないのなら。
…それくらい望んでも…罪ではないでしょう?……
貴方の牙の感触を知っているのが『あの子』だけじゃなくなった事に。私はどうしようも無い程の悦びを覚えた。
…それはどんなセックスよりも、激しい快楽。
「私を食べて」
何時ものように抱いた後、唐突にこの女は言って来た。いつもの笑顔で。そして今まで見たどんな顔よりも『女』の顔で。
「私を食らい尽くして、その牙で」
紅く彩られた爪が背中に食い込む。そしてそのまま俺の唇を奪った。舌を絡めて再び俺を誘った。
…つまらないと思った……。
一度欲望を吐き出してしまえば、纏わりつく女はわずらわしいだけでしかなくて。
絡めてくる生々しい身体がまた、面倒くさくてイヤになった。けれども。
けれども今回だけは、違っていた。女は目の前でナイフを取り出すと、自分の胸元に一筋の線を引いたのだ。
そこからは飛沫のように血が吹き出してくる。充満するこの、匂い。むせかえる程の血の匂い。
その匂いが、俺の身体に再び欲望の火をつけた。
月が綺麗だと、思った。
貴方の背中越しに見える月が。綺麗だと、思った。
ああ、貴方には月が本当に似合う。闇に生きる貴方に与えられる光は月だけなのね…可愛そうなひと。
本当に可愛そうなひと。貴方が太陽に焦がれても、それを手に入れる事は不可能なのよ。
貴方の唯一の…太陽…貴方が唯一心を動かすその存在。
心も何も無いくせに。全てのものに関心が無いくせに。どうして、あのこだけは望んだの?
貴方が誰も愛していなければ、誰も愛さなければ…私はここまで残酷にはならなかった。
貴方が全てのものを拒絶する限り、私は何処までも貴方の都合のいい女でいたのに。
でもね、私も女なのよ。貴方にとってはただの性欲処理の道具でしかなくても。
私は女なのよ。貴方を愛した、心も魂も持っているひとりの女なの。
だからね、先生…私を食べて。食べて食らい尽くして。
…そして私に最初で最期の貴方への裏切りをさせて……。
私の意識が無くなる前に早く…現れて…そして、この人を傷つけて。どんな事にも関心のないこの人の心を粉々にして…。
むせかえる程の血の、匂い。そこに広がる匂いが、屍が俺の正気を失わさせた。
「…いぬ…かみ……」
微笑っていた。エリちゃんは…俺に向かって微笑っていた。その顔は今まで見たどんな顔よりも綺麗で、そして壮絶だった。
「…お前…何…を……」
室内に充満するこの血の匂いの持ち主は、そしてそのまま動かなくなった。何よりも幸福な笑顔をしたまま。
その視線は俺を見つめたまま。
「この女の望みを叶えてやっただけだ」
そう言ってその死体を放り出して、犬神は俺の前に立った。返り血に塗れた身体。
そしてその中に混じる俺が覚えてしまったこいつの…煙草の香りが、交わっている。
「俺が怖いか?蓬莱寺」
エリちゃんの血に…こいつの香りが…こいつの…匂いが…
「…イヤだ…寄るなっ!!…」
叫んだ言葉は最期まで声にする事が出来なかった。無理やり唇が奪われる。そして。
そして、そこには何時もの牙の感触…俺だけが、知っている…いや…俺だけが…知っていたはずの…この感触……
「…イヤだっ!!やめろっ!!!」
……俺以外の人間に…牙を…立てた………
「うあぁぁぁぁぁーーっ!!!」
「本当に、バカな女だな」
『…私の負けなのね…貴方は壊れなかった。壊れたのはこのこで、そして貴方は壊れたこのこを手にいれた…永遠に…』
「感謝するよ、絵莉」
『…貴方初めて、私の名前を呼んでくれたわね…』
「…蓬莱寺……」
壊れた瞳が、俺を見つめ返す。もうその瞳には何も映さない。ただ鏡のように反射しているだけ。それでも。
「おいで…」
俺は手に、入れた。この太陽を永遠に…。
…この穢れた両腕で……
End