罪と贖い


T


祭壇の上のマリア像。無機質な微笑みを称えるその像を、粉々に砕いた。
力任せに砕いて、そして原型も分からない程粉々にして。残骸を床に散らばせる。破片の幾らかがステンドグラスに飛んで、繊細なガラスを砕かせる。カシャンと音がして、マリア像の破片の上に、ガラスが落ちてゆく。
割れたガラスの先から朝焼けが零れてきて、白い破片の上に降り積もるガラスを照らす。それはきらきらと輝いて、とても。とても綺麗だった。
その様子を見て初めて。初めて、京一は気が付いた。生まれてくる太陽の命の輝きを。そしてそこから零れ落ちる日差しの暖かさを。初めて、気が付いた。
柔らかくてそして強い。強くてそして優しい。その命の輝きに、初めて気が付いた。
―――もう、全てが遅かったのだけれども。
例え今自分がその事に気付いたとしても、どうなるのだろうか?どうにもならない。どうにも、出来ない。例え太陽の光が眩しくとも、強い生命の輝きを放とうとも。
それは自分には一切、なんの関係もないものなのだから。
「…眩しいな……」
目を細めた先に零れ落ちる柔らかい朝の光。きらきらと。きらきらと、降り積もる光。髪へと、睫毛の先へと、零れるその光。
「…太陽って…眩しかったんだな……」
それは自分が闇に落ちて、そして初めて気がついた事。太陽から逃れて、初めて気がついた事。
生まれながら自分は光の下にいた。一番明るい場所で生きていた。暖かく、そして常に優しい場所に。だから、気が付かなかった。当たり前のようにそれを享受していた自分には。
離れてみて、失ってみて、初めて気がついた事。初めて分かった事。それが今この下にある光ある場所。光の満ちている場所。
「…でも、もう…戻れねーよ……」
誰に言うでもなく、呟いた言葉。多分自分に言っているのだろう。自分自身に告げているのだろう。自分自身に言い聞かせる為に。
「…じゃあな……」
もう一度下に散らばった破片を足で粉々に砕いて京一はこの教会を去っていった……。


U


――― 一緒に、いような。
俺の『親友』は、生まれながらの太陽のような笑顔でそう言った。きらきらと眩しい笑顔。どんな人間でも惹かれずにはいられない強い瞳と、強い視線。
俺はそんな瞳が、好きだった。純粋に好きだった。そのきらきらとした視線の先が導く眩し過ぎるほどの強い世界は、何時しか俺が何処かで憧れているものだった。
―――京一、ずっと俺達一緒だよな。
ともに戦い、ともに歩んで。辛い時も苦しい時も。喜びも、哀しみも。俺の一番大切な瞬間を分け合った大事な仲間。そして。そしてその瞬間を、一番近くで分け合った人間。
―――俺達、ずっと…ずっと一緒だよな。
ああそうだな。と俺は言う事は出来なかった。お前とともにいれば、ずっと一緒にいれば光ある未来を俺は手にする事が出来たのだろう。暖かく、優しい未来をこの手に。
―――ずっと、一緒だよな。
誰もが望むお前が、選んだのは俺。選んでくれたのは、俺。それはきっと何よりも幸福な事なんだろう。けれども。けれども、俺は。
『…ごめんな…ひーちゃん…』
俺の手は、もう血で汚れているんだ。そして俺は。俺はしあわせである未来よりも。不幸でも構わないから、この血まみれの現実を選ぶんだ。
―――だから、ごめんな。ごめんな…ひーちゃん……

多分、俺はしあわせになれたんだろう。
今この手を取れば。
ひーちゃんの手を取って、ともに歩む未来を選んだのならば。
俺はしあわせに、なれたのだろう。
きらきらと輝く未来。暖かい未来。
優しい、現実。光の中の現実。
皆が欲しくても手に入れられなかったものを。
俺はこの手を取る事で、手に入れる事が出来る。
自分だけのものにする事が出来る。
けれども、俺は。
俺はしあわせになれなくてもよかった。
しあわせになんて、なれなくてもいい。
ただ。ただ俺にとって大切なものは。
俺にとって大切なものが何なのか。それを気づいてしまったから。
それに気がついて、しまったから。

暖かい未来も、優しい未来も、いらない。


何時もここに来ると、暗い匂いがする。闇の香り。深い闇の、香り。
「…蓬莱寺か……」
お前は相変わらずよれよれの白衣のまま、煙草を口に咥えている。似合うなと、思った。こんなにも煙草の似合う人間を、俺は知らない。
「こんな所に好き好んでくる奴なんて、俺ぐれーしかいねえだろう?」
コンクリートの床をわざと足を立てながら歩いた。コツコツと、俺の足音だけが響く。誰もいない校舎。大体こんな夜中にこんな場所に来る物好きなんて、俺は自分とこいつ以外いないのだから。
「そうだな」
誰よりも闇が似合うお前は、ひーちゃんとは正反対の場所にいる。そして俺に差し出された選択肢は、光と闇のふたつだった。
対極にあるモノを俺はどちらか選ばなければならなかった。
「犬神……」
しあわせになんてなれない。分かっている。こいつを選んだら、しあわせになんてなれない事は。それでも。それでも俺は。
「どうした?蓬莱寺」
それでも俺は、お前がいい。お前以外はいらない。どうしてだか分からない。けれども俺は。俺は、どうしても。どうしてもその手を離す事が出来ないんだ。
「…犬神……」
捕らわれたのは、どちらなのか。ふと考える事がある。俺が、先か?それともお前が、先か?永遠に抜けられない迷路に迷い込んだのは、どちらが先だっただろうか?
「…俺は……」
お前の手から煙草を取り上げて、灰皿に捨てた。そしてそのままお前の唇に口付ける。煙草の匂いが消えないその唇に。
「…珍しいな…お前から俺に口付けるなんて」
「…たまには…いいだろう?……」
好きだとか、愛しているとか。そんな言葉では片付けられない想い。片付けられる筈のない想い。それが俺を支配して、離さない。全身を支配して、何時しか俺の中の、時計の歯車を狂わせた。狂わせたまま俺の時は、刻んでいる。刻み続けている。
「何か、あったのか?」
お前の問いに俺は答えない。答える必要なんてない。俺がお前の前にいて、そしてこの場所にいる事がなによりもの答えなのだから。お前の腕の中にいる事が、なによりもの答えなのだから。
「―――なんでもねーよ…それよりも……」
俺は自ら犬神のズボンのジッパーへと手を滑らせて、それを降ろした。そしてそのままぎこちない愛撫で、犬神のソレを握り締める。
「…それよりも……」
「本当に、お前らしくないな」
お前は口許だけで微笑うと、俺のワイシャツのボタンを無理やり引き千切った。

確かめたかったんだ、俺は。
多分確かめたかったんだ。
俺の選択は間違っていなかったと。
俺の気持ちに偽りはなかったと。
こころの何処かにある小さな隙間を。
お前で埋めて欲しかったんだ。
ただひとつある、小さな隙間を。


『京一、ずっと俺達一緒にいよう』


胸に広がる、この。
このただひとつの、小さな。
小さくても強い、光を。

―――お前の闇で、全て消し去って欲しかったんだ。


V


罪を、犯しているのだろう。
この腕にお前を抱く事は。
俺がお前を犯す事は、罪なのだろう。
永遠に許される事のない、罪。
永遠に逃れる事のない、罪。
けれども、俺は。
俺は初めから、この罪を。
この罪を犯そうとも。

―――お前を手に入れるつもりだった。


光の中で生きる事が、きっとお前のにとってはしあわせなのだろう。
「…あっ…ああ…」
褐色の肌に口付けて、そして熱を感じる。お前の熱。焼けつく程に熱いお前の熱。
「…はぁ…あ……」
分かっている、お前に太陽は必要だ。太陽の光がなければお前は枯れてしまう。きらきらと輝く太陽を浴びなかったのならば。
―――お前は何時か枯れ果て、朽ちてゆくのだろう……。
「…犬神…ああっ…あ…」
この闇に犯されたら、お前は。お前は何時しか滅びてゆくしかないのだろう。それでも。それでもお前は俺の前にいる。俺の腕に、抱かれる。
しあわせになれないと、分かっていても。
「…はぁ…犬神…もっと…もっと……」
背中に爪を立てるお前の指先が。その指先が白くなる。強く俺を抱き寄せて、そしてねだる。もっと、深くと。
「……蓬莱寺……」
望むだけ。お前が望むだけ、俺は与えてやった。そうしてお前を俺は闇に犯してゆく。逃れられない深い闇へと。俺はお前を堕落させてゆく。
―――俺はこうして、また罪人へとなる……

誰にも渡したくはなかった。
それによっとお前が不幸になろうとも。
お前がしあわせになれなくても構わなかった。
お前を想うこころよりも、自らの独占欲が勝ったそれだけだ。
誰にもお前を渡したくはない。
誰にもお前を奪われたくない。
俺だけのものにしたい。
俺だけのものに。俺だけのものに。
この腕の中に閉じ込めて、永遠に。
永遠にお前の身体を貫いていたい。

その太陽の匂いが消えるまで。
いや消えて、闇に染まるまで。
闇に染まっても。俺は。
俺はお前をずっと、貫いていたい。


――――しあわせになんて、させてやるものか……


初めてお前が俺に抱かれた時、お前はただ泣き続けた。力の限り抵抗して、そして。そして終わった後、子供のように泣きじゃくった。
『…もお…戻れねー…俺は…ひーちゃんのもとへと…戻れねーよ……』
緋勇のもとへなど、戻してなんてやるものか。奴の光へなど、お前を渡してやるものかお前は俺が。俺が見つけたただひとつのもの。
『…戻れねーよ…ごめんな…ひーちゃん……』
それは緋勇に対する罪悪感から来るものか?それとも?けれどもその答えは、未だに分からない。未だにお前の口から、俺にその答えを示されていない。
それからお前は抵抗しなくなった。次からは俺が望む通りお前は俺に抱かれた。犯された。そして何時しか、何時しかお前から俺を求めるようにもなっていた。
『…犬神…お前には…俺が必要だよな……』
何時しかお前はそんな言葉を俺に告げるようになっていた。必要。ああ、必要だ。俺にとって必要なのはお前だけだ。お前だけがいればいい。お前だけが、いてきくれればいい。他には、何もいらない。いらないのだから。
『…俺だけが…必要だよな……』
そう言って子供のように微笑う、お前。ひどく子供のように笑うお前。その顔を瞼に焼きつけて口付けた時。俺は、お前を闇へと堕とす事は永遠に不可能だと理解した。

「ああああっ!!!」

限界まで貫いて、何度も何度も貫いて。
そしてお前は悲鳴染みた声を上げたと思った瞬間。
がくりと、その身体から力が抜けていったのを感じた。


意識を失ったお前の身体から、俺は自身を引き抜いた。ずるりと音を立てながら引き抜くと、大量の精液がお前の足元に流れ出してきた。褐色の肌に白い液体はひどく鮮やかに映える。こんな状況を何故か俺は不思議に綺麗だと思った。自分でもどうしてだか分からない。けれども何故か、そう思った。
あれだけお前を貫いて、お前の中に欲望を吐き出したのだから、その量は半端じゃない。俺は苦笑しながら、精液を拭き取った。指を体内に入れて中にこびり付く液体も除いてやる。どろりとしたモノが指先に伝う。
ある程度綺麗にした所で、お前をそのまま机の上に寝かした。生憎生物室にベッドなんて代物はないのだから、これで諦めて欲しい。
気絶しているせいか、寝息すら立てていない。そんな寝顔を俺は無言で見つめた。幼さが残る顔。こうして寝顔だけ見ていると本当にお前はただの子供だ。けれどもその目を開ければ、強い瞳を俺の前に暴けば。お前はただの『子供』ではなくなる。俺を強く惹きつける、惹きつけずにはいられない強い。強いお前のその瞳。
お前は緋勇を太陽だといった。太陽みたいに眩しい瞳だと。けれども俺にとって、お前の方が…お前の瞳の方が、眩しいんだ…蓬莱寺……。
「…蓬莱寺……」
意識のない唇に口付けた。口付けと言う行為事体が、俺には興味のないものだった。俺とってセックスはただ吐き出すだけの、自分が満たされるものでしかなかったから。だから俺はこうして口付けをするという行為は、お前に出逢って初めて気がついた。口付けだけでも欲望が満たされる事があると言う事を。
―――俺はお前に口付けて、初めて気が付くことが出来た。


何時も背中合わせに合った事。
お前を奪う欲望と、お前を失う恐怖。
光に生きるお前は、何時しか。
何時しか俺の腕を擦りぬけるのではないかと言う思い。
そして。そしてまた。
俺の腕が千切れても離さないと思う欲望。
どちらも。どちらとも俺の中に存在している。
俺の中に、ある。
どちらも俺にとっては真実で。現実だった。

――俺はお前を失う恐怖に怯えながら、お前を独占する悦びに歓喜している。


W


マリア像を砕いたのは。神への冒涜。
光からの決別。未来との、決別。
俺は自らを堕としいれたかった。
それがただの気休めでしかないとしても。
それでも堕ちたかった。
お前の所まで。お前の場所まで。
俺は堕ちてゆきたかったんだ。

―――お前の、そばにいきたい。


永遠の距離。永遠に届かない距離。
光は俺の背中のすぐ先にあるのに。お前の闇は遠い。遠過ぎる。
どんなに追い掛けても。どんなに追い続けても。
永遠に届かないのだろうか?


教会を後にした俺は、何時もの通り学校へと通う。そこには何も代わらない日常がある。何一つ変わらないものが。
「おはよう」
相変わらずひーちゃんは眩しい笑顔を俺に向けるし、クラスメート達の反応は相変わらずだ。何も変わらない。なにひとつ、変わらない。俺のこころ以外は。
「おっす、ひーちゃん」
ごめんな、ひーちゃん。ごめんな。俺はお前とは一緒にいけない。俺はいけないんだ。ごめんな。
犬神に初めて抱かれた時、初めてこの身体を犯された時、俺は思ったんだ。ただひとつのことを。ただひとつのことを。
―――俺はお前の隣に永遠に立つ事が出来ないと……。
完璧なお前には、俺の僅かな闇でもダメだ。僅かな闇でもお前の傍に置いておく訳にはいかない。だから俺はお前の傍にはいられない。そして。そして何よりも。
俺は気付いてしまったんだ。気が付いてしまったんだ。お前は俺以外を選ぶ事は出来る。俺がダメならば別の人間を選ぶ事が出来る。けれども。けれども犬神は…。
―――あれだけの永い時の中で、選んだのは俺だけなんだ。
しあわせになんてなれなくてもいいと、思った。しあわせになんてなりたくないと思った。犬神が俺を選んだその瞬間。俺が犬神を選んだその瞬間。その全ての事が俺にとってはどうでもいい事になった。
―――どうでもいい事に、なったんだ。
俺は闇に堕ちたかった。あいつと同じ場所まで行きたかった。お前の孤独が見えた時、俺は自らの孤独に気が付いた。それは。それはどんなに求めても永遠に埋められないもの。
俺が気付いて、そしてお前は知っていた事。俺達は決して同じ場所にまでゆく事は出来ないと言うこと。
――――決して同じ場所には辿りつけないと言う事。
それでも俺達は求め合ってしまったから。その手を取ってしまったから。それならば。それならばただ迷うだけ。永遠の迷路に迷い込むだけ。
それしか俺達に道はなかった。それしかなかった。そして俺は光を捨てて、この救いのない選択肢を選ぶ。救いなんて何処にもない。
それでも俺は、選んだんだ。
「行こうぜ、京一。遅刻しちまう」
「そーだな」
―――俺は…選んだんだ……


うれしかったんだ。
俺は、きっと。
きっと嬉しかったんだ。
お前が俺を選んだ事を。
お前にとって俺しかいない事が。
ひーちゃんには、幾らでも選択肢がある。
幾らでも選ぶ事が出来る。
でも犬神…お前は……
お前には俺しかいないと言う、事実が。
それが何よりも、嬉しかったんだ。

――――うれしかったんだ…犬神………


そうして俺はまた生物室へと向かう。お前のする場所に。そして。俺がいるべき場所に。
「…蓬莱寺……」
繰り返されるセックスは、儀式のようだった。けれども、違う。違うんだ。
「…犬神……」
そうして身体を重ねる事で、俺達は奪い合う。互いの欲しいモノを、互いから奪い合う。
「…抱けよ…俺を…無茶苦茶にしろよ……」
「ああ、幾らでも」

「お前の喉に牙を立ててやろう」


絡み合い、もつれ合う。
交じり合い、溶け合う。
その全てが。その全てが俺達にとって。
俺達にとって、必要な事だから。

理屈なんかじゃない。
言葉でもない。
ただ求めた。こころが求めた。
互いが欲しいと、欲しくて堪らないと。
だから奪い合う。
こうやって、身体を重ね合って奪い合う。

しあわせになんて、なれなくていい。
しあわせになんて、なりたくない。
お前とともにいられるならば。
俺は絶望の今を選ぶ。


―――俺だけのものだ…京一……


お前の声が俺の全身を埋めてゆく。お前の声だけが俺を埋めてゆく。俺の全てを埋めてゆく。そして。
そして何時しか、俺の中に残っていた光は…消えた……。


『…一緒に、生きていこう…京一……』


何時しか、その声は俺から遠い場所へと消えていった。



End

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