終焉


―――夢を、見ているよう、だった。

一面の血の海。
紅のむせかえる香り。
その全てが夢のように儚くて。
そして。
そして現実のように鮮やかだった。

そばに、いて。
ずっと、そばにいて。
そうしたらお前、淋しくない?

…淋しく…ないか…なあ……

初めにそれを自覚したのはどっちだっだろうか?
『幸せに、なれない』
そう、自覚したのはどちらの方だった?
幸せになりたいなんて今更思いもしなかった。
そんな生暖かいものに包まれて生きるにはあまりにも俺は長く生き過ぎていたから。
だから。だからそんな事考える事すらなかった。
それでもお前は、言う。
『幸せになろうぜっ』
何者にも負けない強さで。まるで突き刺す太陽の光のような瞳で。前だけを見つめている瞳で。その先に闇も絶望も存在しない強い視線で。
お前は迷う事なく、俺に言った。
『俺と一緒にいるんだ、お前幸せだろう?』
お前の、強さ。お前の、光。それは眩し過ぎて、眩し過ぎて闇すらも覆えないもの。だからこそ望み焦がれ、そして恐れた。
…そうだ…俺は何処かで恐れていた…その光が俺の闇を覆う事に……。

「お前の牙、嫌いじゃない」
腕を伸ばして、そしてお前の背中にしがみ付いた。広い、背中。強い、背中。そして全てを拒絶する背中。その背中に腕を廻して、少しでもお前の中身を見たいと思った。お前に触れたいと、思った。
「…好きとは…言わないんだな……」
その拒絶する壁をどうしたら崩せるのか。どうしたらお前の闇を覗けるのか。どうしたらお前のこころを見つけられるのか。何時も。何時も俺はそんな事ばかり考えていた。
「言わねーよ、だってお前俺を好きだって言ってくれねーじゃん」
この染み付いた煙草の匂いも、何時しか俺にとって日常の香りになっていた。当たり前に自分のそばにある香り。けれどもその香りが、お前の真実を隠す。お前の真実をぼやけさせる。
煙草の、煙が。煙草の、香りが。
「言ってほしいのか?」
お前が俺に見せてくれた真実はその『牙』だけ。だから俺はお前の牙が好き。それだけがお前の本当だから。俺が唯一見る事が出来た、本物だから。
「いいよ、言わなくても。つーかお前には似合わねーよ」
それだけがお前が俺に教えてくれた、お前の真実。
「ふ、お前にも似合わん」
「だったら言うなよ、そんなセリフ」
その言葉にお前は口許だけで微笑った。本当の笑顔を見るには俺はどうしたらいいのか?どうすればいいのか?答えを探しても見つからない。見つけ、られない。
「…そうだな……」
そして俺はお前の『真実』を見たくて、自らお前に口付けた。唯一の真実、その牙の感触を味わう為に。

幸せに、してやりたかった。
バカみたいだけど、俺は。
俺はずっとそう思っていた。
お前の瞳は虚無で何も映さない。
だからその瞳に光を映せたらと思った。
お前の唇は決して微笑わない。
だからその口許に本当の笑みをさせたいと思った。
バカだけど俺、ずっと。
ずっとそんな事ばかり考えていた。
幸せに、なりたかった。

『幸せに、なれない』

そう気付いたのは…いつだった?
何時俺はその事に気がついた?
…いや、本当は……。
本当はずっと前から気付いていたのかもしれない。
初めてお前の牙を知ったその日から。
本当は。本当は気付いていたのかも、しれない。

ふたりを刻む時計の音が違う事に。

気付かない振りをして、お前のそばにいた。
本当は分かっていて、それでも知らない振りをした。
ただ俺はお前のそばにいたかったから。
お前に必要とされたかったから。
だから気付かない振りをしていた。

でも本当はお前は最初から…分かっていたんだろう?

初めて背中に爪を立てた、日。
…何時しかこんな日が来るだろうと…俺は思った……

夢ならば醒めないでと、馬鹿な事を思った。
「…蓬莱寺……」
闇の瞳。虚無の瞳。でも。でも今はお前の瞳に映るのは俺だけだ。
―――犬神……
声にしようとして、もう俺の声帯が機能していない事に気付いた。でもお前なら。お前なら俺の声が聴こえるだろう?
「…時を止める、のか?」
そうだ、犬神。俺は今自らの時計の針を止める。だってお前と俺とは針の速さが違うだろう?そうしたら、俺は。俺は止めるしかない。
もう二度と重なりあえない針ならば、俺は。俺は全てを止めてお前が戻ってくるのをこうして待つしかない。
―――これでそばに、いれるよな……
もうお前を独りになんてしないから。独りになんてしねーから。一緒にいるから。ずっと一緒にいるから。
「止めてそして。そして俺のそばにいるのか?」
…あ、笑った……お前の、笑顔。
本当の笑顔。本物の笑顔。口許だけじゃない、お前の笑顔。俺は。俺はその顔がずっと見たかった。
…ずっと、ずっと…見たかったんだ……。
「…そばにいて、くれるのか?……」
ああ犬神、そうだ。ずっと俺がお前とともにいる。なあ、これで淋しくないよな。お前、独りじゃないよな。
…もう独りじゃ…ないよな……

その光を何処かで恐れていた。
お前の光は真っ直ぐで、真っ直ぐ過ぎるから。
俺の闇全てを撃ち払うようなそんな強さ。
だから怯えた、恐れた。
そんなものを浴びせられたなら、俺の奥深くに閉じ込めた『こころ』が暴かれてしまうから。
全ての『俗世』と全ての『感情』と全ての『真実』を置き去りにしていた俺のこころが。
こころが暴かれて、しまうから。
でも何処かで。本当は何処かでそれを暴かれたかったのかもしれない。
怯えと恐れは、渇望と願望の裏返しだったのだから。

『幸せに、なれない』

と、お前は言った。
泣きそうな瞳で。けれども真っ直ぐな瞳で。
俺が先に気付いて、お前が先に言った。

『幸せになんて、なれなくていい』

と、お前が言った。
幸福な瞳で。けれども濡れた瞳で。
俺が先に望んで、お前が先に答えた。

幸せになんてなりたいとは思わなかった。
そんなものよりも俺は欲しいものがあった。
幸せになる事よりも俺は望んだものがあった。
それが、お前だ。
…お前だ、蓬莱寺……。

血まみれのお前の身体を俺は力の限り抱きしめた。
欲しかったものが今、この腕の中にある。
どうしようもなく焦がれたものが、今この腕に。
遠ざかる意識の中でお前は俺に口付けをねだる。
俺は口付けながらお前の舌を噛み切った。
そしてそれを貪るように食い尽くす。
そうやって俺はお前を手に入れる。
お前が自らの手で差し出した命を、俺は貪り尽くした。
余す所無く、取り込んでゆく。
お前の柔らかい肉を。お前の生暖かい血を。お前の尖った骨を。
全て、全て、食らい尽くす。
そうして、ひとつになる。
お前の血が、俺の中に流れ。おまえの肉が、俺の器官にとり込まれ。お前の骨が、俺の牙で砕ける。
そして、そして。
『蓬莱寺 京一』と言う存在は俺だけのものになる。
俺だけの、ものに。

…犬神…これで…ずっと一緒に…いられるよな……

夢を見ているよう、だった。
でもこれは現実だ。
お前が俺を食らい尽くす。
お前の中で俺が永遠になる。
それが今、現実になる。

…幸せになんてなれなくていいや、俺…それよりもお前と一緒にいたいから……。

全てを取り込んで。お前と言う存在全てを取り込んで、そして。
そして俺は言った。

「…蓬莱寺…愛している……」

最初で最期の、真実を。



End

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