時間軸から零れ落ちた砂が、指に絡まり。
そして隙間から零れてゆく。
ぱらぱらと、零れてゆく。
零れて、落ちて、地上に埋まる。
埋まってゆく砂に身体を横たえて、そして眠った。神経は冴えて眠れる訳がないのだけれども。ただ目を閉じこうしていれば、少しは身体を休められるかもしれないと思って。
銀色の砂が一面に広がっている。耳に聞こえるのは波の囁き。寄せては繰り返す波の柔らかい音。
――――それが世界の、全てになる……
世界の終わりは何処にあるのだろう?世界の果てはどこにあるのだろう?ふとそんな事を考えて。考えて答えを出す前に、目を開く。開いたその先に映る姿に、答えを見つけたような気がしたから。
終わりは、何処にあるのか?
終着駅は何処にあるのか?
無限の迷路の中で、終わりは。
終わりは何処にあるのだろうか?
潮の匂いが満ちるこの場所に、入り込む異質の香り。けれどもそれは自分にとって何よりも身近な香りになっていた。
「…犬神……」
目を開いた先に映る人物はお前だけ。俺の世界の果てに映るのは、やっぱりお前だったんだな。
砂にまみれたままの手を伸ばす。その瞬間俺の肌から砂がひとつひとつ零れ落ちた。銀色の砂が、剥がれてゆく。
「――やっとお前に辿り着いた」
口に咥えていた煙草をお前はそのまま砂に捨てた。穢れなき銀の砂に落ちた、ひとつの穢れ。ああ、ひどくお前に似合っている。お前の闇だけが、俺の光を侵食した。
―――お前の闇だけが、俺の内部を侵してゆく……
「辿り着いた」
伸ばした手をお前は掴むと、そのまま腕の中に引き寄せた。広がる煙草の、匂い。お前の香り。目を閉じれば、それだけが俺の全てを満たしてゆくのが分かる。
ぱらぱらと全身の砂が剥がれてゆく代わりに、俺の身体はお前の匂いに満たされてゆく。全身が、お前に満たされてゆく。
「…犬神……」
顔を上げて、そして目を開いてお前を見つめた。闇しか映さない瞳。深い闇を持つ瞳。俺がいてはいけない場所。俺がいるのが許されない場所。けれども俺は。
―――俺はそこまで、辿り着きたかった。
手を頬に充てる。不精ヒゲのざらざとした感触が手のひらに伝わる。そう言えば俺はこの感触を手のひらに感じるのは初めてだった。何時も俺がこの感触を感じるのは、口付けの時の顎と頬と…そして身体中を滑る舌と牙を感じる時に一緒に。けれどもこうやって自分から…自分からこうして触れることはなかった。
「もう逃げねーよ…お前から……」
そう言って俺は初めて。初めて自分から、お前にキスをした。
世界の終わり、世界の果て。
そうお前が俺にとってそれならば。
俺はもう逃げる意味がない。
お前から逃げる理由がない。
俺の終着駅がお前ならば。
こうやって、後はただこうして。
世界の終わりをお前と感じるだけだ。
手のひらに伝わる暖かさ。命の温もり。お前は、本当はこんなにも暖かい。
「…蓬莱寺…死にたいのか?……」
触れるだけの口付けの後、お前はただそれだけを言った。闇から生まれたようなただ、無機質な声で。でも。でも手のひらのお前は、俺にとっては暖かい。
「―――死にたくなんてねーよ…でも……」
誰が何を言おうが俺にとって、お前の闇はひどく暖かいものなんだ。
「…生きていたいとも…思わなくなった……」
俺にとっては。他の誰もがその闇に無意識の恐怖を感じていても。
生きる事も、死ぬ事も。
俺にはどちらでもよくなっていた。
時の歯車が狂い出した瞬間。
時間軸が壊れた瞬間。
俺にとってはもうどうでもいいものになっていた。
ただ、俺は。
俺はお前と別れると。
お前と必ず別れると。
そう気付いた瞬間。
俺とお前の時計の針が進むのが重なり合うのが一瞬だと。
そう、気がついた瞬間。
俺は自らの時間軸を壊した。
自らの時の歯車を狂わせた。
時間を早めて、そして狂わせて。―――自ら『死』へと。
「ただ俺はどうしたら…どうしたらお前の中に俺を残す事が出来るのか…それだけを考えていた……」
束の間のしあわせに身を浸して。そして終わりが来るのを待つのが耐えられなかった。何もせずにただ優しい時間に包まれて、そして足元から世界が崩壊するのを待つしか出来ない事が。自分には、耐えられなかった。
「…どうしたら俺は…お前の『永遠』になれるのかを……」
だから、壊した。自ら壊した。その腕から逃れ遠い場所へと。お前が追いかけて来ると信じて、俺は逃げた。逃げた。世界の終わりを探して。
「お前の時間の中で…俺はきっと瞬きする程の存在でしかねーから…だから俺は…俺は…それが嫌だった……」
俺にとってお前の存在がこんなにも全てになっているのに。お前にとって俺が一瞬の存在でしかないのに耐えられなかった。耐えられない…俺がこんなにもお前を求めてるのに、お前にとって俺がちっぽけな存在で終わる事が。そんなの、俺が許さない。
「…嫌だっ犬神…俺はっ俺はお前の全てになりたい……」
何故俺は先に死ぬ?先に死ぬんだ?そんなのは嫌だ。俺が死ぬのは嫌だ。死にたくなんてない。お前が生き続けるのに、俺だけが先に死んでゆくのは嫌だ。嫌だ、嫌だ。俺は。俺はずっと…ずっとお前を見ていたいんだ。
―――ずっと…見ていたかったんだ……
「―――だから今、死を選ぼうとするのか?」
お前の言葉に俺は笑った。声を上げて笑った。愚かだと思うか?自分でも情けねーと思うよ。ガキみたいな思考だと思うよ。でもそうなんだ。そうなんだ、犬神…。
まだお前が俺を追い掛けてくれている間に。追い掛けている間に…俺が死ねば…死ねばお前は永遠に俺に追いつけないだろう?そうしたらずっと…ずっと俺を追い掛けて…くれるだろう?
所詮、俺はガキだ。
だからガキの思考でしか物事を考えられねー。
お前にとってはきっとくだらない理由でも。
俺にとっては。俺にとっては一生懸命考えた結果なんだ。
ガキなりの。ガキなりのこれが精一杯なんだ。
―――バカだと思うだろう?笑えよ…犬神……
お前が、笑った。ひとつ、微笑った。それは。
―――それは思い掛けないほど、優しい笑みだった。
永遠の中の、一瞬。
俺にとっての無限とも思われる時間の中の。
お前は確かに一瞬でしかない。
瞬きする程の刹那でしかない。
けれども。けれども、蓬莱寺。
―――その一瞬が俺にとっては…全てを引き換えにしても欲しかったものだ……
「蓬莱寺…時間を超えるものは存在する…」
「…犬神……」
「俺にとって全てを超えるものは存在する…それが…」
「それがお前だ、蓬莱寺」
抱きしめた。腕の中の熱い身体を抱きしめた。
太陽の匂いのする身体を。灼熱の匂いのする身体を。
どんな光よりも眩しく、俺を惹き付けるその存在を。
俺は、俺は抱きしめた。
もしもこのまま骨まで砕いてしまったなら。
そうしたら俺がお前を全て取り込んで食らい尽くしてやるから。
「…犬神……俺は…お前の……お前の永遠に…なれるか?」
「―――そんなもの初めから……」
「出逢った瞬間から…永遠…だった……」
時の歯車。
透明な時間軸。
それすら。
それすらも無意味なもの。
それすらも意味を成さないもの。
そんなモノ、初めて出逢った時から…崩れ去っていた……。
さらさらと零れてゆく銀の砂。
剥がれ落ちる銀の砂。
そして埋められてゆく香り。
お前の煙草の、香り。
俺にとって世界の果ては、ただ静かに流れる海と。
そしてお前の腕の中、だった。
End