星を見ているのが、好きだった。空一面にきらきらと輝く星を見ていると。見ていると何だか、強くなれるような気がしたから。ほんの少しの勇気が、欲しかったから。
―――好きだから、一緒にいたい。
犬神は扉を開けた途端、絶句した。彼にしては珍しいほど、表情が顔に出ている。更に口に咥えていた煙草まで落としそうになってしまった。それとは対照的ににこにこと満面の笑みを浮かべて黒崎が立っていた。
「……何だ…それは……」
「何だって、荷物ですっ!」
それでも何とか大きなため息ひとつと引き換えに言った言葉に返って来た返事に、犬神は脱力せずにはいられなかった。見たまんま、である。そのまんまである。
「それは見れば分かる…でもなんでそんなモノが俺の玄関の前にあるんだ?」
「…先生…俺……」
犬神の問いに黒崎の顔が真剣になった。そう言えばこいつのこんな表情を見るのは久々である。何時も何だと思うくらい嬉しそうに自分の傍にいるから。本当に何が楽しいのかと思うくらいに。
「俺っ先生の家の子になるっ!!」
「―――は?」
今度こそ、本気で犬神は咥えていた煙草を口から落とした。それをあせあせとしながら黒崎は拾おうとするが無理だった。玄関の床に落ちた煙草が妙に憐れ、だった。
「だ、だからっ俺…俺を先生の家に置いてくださいっ!!」
「…何で、そうなる……」
「だって俺先生と一緒にいたいんだものっ!」
今にも泣きそうな瞳で黒崎は犬神を見上げてきた。まるで犬のようである。捨てられそうな犬と言うのはこんな顔をするのだろうか…。
「―――お前は…一体…どうしたいんだ」
「先生と一緒にいたいんですっ!」
「一緒にいたいからってどうしてそうなる」
「…だって俺…先生の事…いっぱい知らないから…だから知りたいんだ…先生を…俺…」
手が伸びてきて犬神のシャツをぎゅっと掴んだ。その手が少し震えていた。一体何があったのか、そう聴く前に犬神の口から零れたのはひとつのため息だった。そして。
「とにかく中に入れ、ここじゃ廻りに迷惑だろうが」
犬神の言葉に黒崎の顔がぱぁっと明るくなる。本当に分かりやすい奴だ、ここまで気持ちが顔に出てくると。
「はいっ!!」
両手に抱えきれない大荷物を持ちながら黒崎はとことこと犬神の後を付いていった。
知らない先生がいっぱいあって。
俺が知らない先生がいっぱいあるから。
だから少しでも。少しでも知りたいんだ。
先生の事少しでも分かりたいから。
だから一緒にいたい。傍にいたい。
―――例え我が侭でもずっと、先生といたいんだ……
「で、お前はどうしたい?」
綺麗とは言えない先生の部屋。別に男の独り暮しなのだから、異常に綺麗でも変だと思うけど。でもその中に黒崎の荷物が置かれると、かなり狭いのは否めなかった。
「そ、それは俺は…先生と…」
それでも犬神はテーブルの横に座ると、もう一度煙草に火をつけた。カチャリとライターが開く音がする。それを見てつい見惚れてしまう黒崎も黒崎だったが…。
「先生と俺、同棲したいんですっ!」
「………」
―――同性?????……一瞬同棲を違うものに漢字変換してしまった犬神だった。ってキャラ的にこいつがこんな事を言うのが妙に似つかわしくなくと言うか…予想の範囲外だったので。
「同棲って…居候の間違えだろうが…」
「…ち、違いますっ!同棲ですっ!!」
がしっと拳を振り上げて言う黒崎に犬神はため息を付かずにはいられなかった。こんな所がひどく子供なのだ。子供の癖に同棲と言うから妙なのだ。
「お前誰かに何か吹き込まれたか?」
―――あの忍者辺りが妙な事を言ったのだろうか?こいつは何故か忍者に異常に憧れていて、よく騙されていたからな…。
「はい、如月さんが先生と親密になるにはやっぱ同棲…げほげほっち、違いますなんでもないですっ!!」
やっぱりと言うかあまりにも的中したのが、犬神を益々がっかりさせた。この単純回路は一体何処からきているのか…ってまあそこが黒崎の魅力ではあるのだが。
「全く、すぐお前は人の言葉を鵜呑みにする」
大きなため息とともに、犬神の手が黒崎の髪をくしゃりと撫でる。それだけでどきどきして、そしてしあわせになれるのはやっぱり子供だからだろうか?でも。
「…でも俺…先生といたいんだもの……」
「黒崎?」
「俺先生の事…少ししか知らないから…もっともっと先生の色々な事…知りたいから…だから俺……」
今にも泣きそうな顔で、それでも真剣な瞳で黒崎は犬神を見つめた。その瞳には嘘も偽りも何もない。何時も。何時も黒崎は真っ直ぐに自分を見つめてくるから。
「…全くお前は……」
―――この目にいつも、自分は無意識に降参している……
「…先生?…」
「ただし一週間だけだぞ…俺だって忙しいんだ」
「はいっ!!」
犬神の言葉に満面の笑みで黒崎は答えた。それを少しだけ後悔しながらも、ふたりの同棲生活は始まった……。
目覚めは派手に割れる食器の音からだった。なんだ?と思う前に黒崎の悲鳴が飛んでくる。予想していたとはいえ前途多難とはまさしくコレだろう。
「あ、先生おはようございますっ!」
―――ふりふりエプロン……真っ先に犬神の目に入ってきたのがコレだった。と言うかふりふり??って男子高校生が何故ふりふりエプロン???
「……お前は………」
そして次に入って来たのは見事に散らばったガラスの破片。さっきの派手な音はコップを割った音だと言う事が判明した。そして鼻孔をくすぐるいい香り。テーブルに並べられている料理の匂いだった。味は未知数だが、取り合えず匂いは悪くなかった。
「ごめんなさいっ先生っ!!片付けますっ!!」
「いい、俺がやる怪我するだろうが」
「…先生……」
犬神は黙々と散らばったガラスを片付ける。その間黒崎はそんな犬神に見惚れていた。そんな優しさとカッコ良さにどきどきしながら。でもそんな至福な時間は、長くは続かなかった。何故なら…
「鍋、吹いてるぞ」
「わあっ!」
犬神の言葉ではっと我に返った黒崎がとっさにコンロへと向かう。今にも噴出している鍋の火を止めてぎりぎりセーフだった、が。先が思いやられて犬神はため息を付くのを止められなかった。
それでも出された料理は、不味くはなかった。以前砂糖と塩を間違えられた事があったが、今回はそんな事はなくて。
「―――これ、壬生に教わったのか?」
多分絶対にそうだろうと思って聴いた見たら、予想通りだった。にっこり笑ってこくりと頷く黒崎に、またちょっとため息が出そうになる。そして更に追い討ちをかける言葉が黒崎から出てきた。
「このエプロンも壬生に作ってもらったんだ。如月さんが先生の好みだろうって」
「――――」
「どうしたんですか?先生黙っちゃって…料理美味しくないですか?」
「…いや…そんな事はない……」
…あの忍者…そこまでするか…嫌がらせか…それとも楽しんでいるのか……と思ってそれが後者であるのは如月の性格からすれば明らかだった。
黒崎は如月に憧れている。その理由が『忍者だからカッコイイ』だ。まあそれはいい。そんな事はどうでもいい。がしかしそれに伴って黒崎が如月に懐いている事に大きな問題があるのだ。奴に言わせればこうだ。
『先生が黒崎を構わないから僕に懐いてくるんですよ。お蔭で紅葉との時間を邪魔されるのは迷惑なんですよ』
最後のセリフの目が、明らかにそっちが本音だろうと語っていたのを思い出す。どうもそれ以来明らかに、明らかに間接的に攻撃を受けているのは気のせいではないだろう…。
更に最近壬生までもが如月に感化されてきて妙な事になっている。大体如月はともかく壬生が黒崎にふりふりエプロンを作ると言うなど、以前の彼からは想像できないものだったのだから。
「よかったー俺先生がそう言ってくれるのが一番嬉しいです」
「…そうか……」
「あの、先生?」
「うん?」
「――あーん、してください」
………真面目な顔でスプーンを差し出す黒崎…それは本当に真剣な顔だった。そして。そしてそれが当然黒崎オリジナルではなく、誰かの入れ知恵だと言うのは明白だった。
「…ひとつ聴くが、黒崎……」
「なんですか?先生」
「それも如月に教わったのか?」
「違います、壬生からです。こうすると先生もっと美味しく食べてくれるって」
「―――――」
「先生、だからあーんしてくださいね」
無邪気に言ってくる黒崎に犬神は脱力しきってて、断ることも出来なかった……。
今日は黒崎のお蔭で朝から無償に疲れていた。まして今は月のない新月期だった。ひたすらに脱力感でしかなかった。それでも授業を終えて、帰宅へと道を歩く。その脚は不思議と軽かった。
今までずっと独りだった。それが当たり前で、当然だった。自分のテリトリーに他人を踏み入れる事など煩わしいだけでしかなかったから。でも今はこの事態をすんなりと受け入れている自分がいる。いやむしろ心の何処かで楽しんでいる自分が…。
「ふ、初めから俺が負けているのか」
くるくるとよく変わる表情。今時珍しいくらいな真っ直ぐな心。その全てが今まで自分の前にはないものだった。今まで知らないものだったから。その嘘偽りない純粋さが新鮮でそして。そしてひどく心に食い込むものだったから。
帰り道何時もの商店街で犬神は不意に脚を止めた。そして普段なら絶対に寄らないだろうである場所へと入ってゆく。こんな不機嫌で無愛想な男にはおよそ縁のない場所へと。そして。
―――そして店員の少し意外そうな視線を余所に、犬神は買い物をすませた。
何時も一緒にいたいから。
永遠にいられないのなら。
いられる間だけは、ずっと。
ずっとずっと、一緒に。
一緒にいたい、から。
「お帰りなさいっ!先生っ」
ドアを開けた途端に嬉しそうな笑顔が犬神を向かえる。黒崎の事だからずっと帰ってくるまで玄関の前で待っていたのだろう。まるで犬、みたいだ。犬みたいだけど。
「ああ、ただいま」
そんな風に自分を待っていてくれた人間を犬神は知らない。そして。そして『ただいま』と言える人間を…今まで知らなかったから。
「ほら」
そう言うと犬神は小さな包みを黒崎に投げて寄越す。黒崎の手の中に小さな瓶が転がった。
「先生、これは?」
「土産だ」
犬神の言葉にまじまじと手の中の瓶を見つめた。その瓶の中には色とりどりのこんぺいとうが入っていた。
「…ってこれ先生が買ってきてくれたんですか?…」
「―――何が言いたい」
「い、いえなんでもないです…凄く嬉しいです…嬉しい…先生…」
耐えきれずに黒崎は犬神に抱き付いた。もちろん片手には子瓶をぎゅっと掴みながら。そんな黒崎の身体をそっと抱き寄せて。抱き寄せて犬神はひとつ、微笑って。
「子供だな、こんなモノで喜ぶなんて」
「どんなものでも嬉しいですっ先生から貰ったものならば」
「どんなモノでもか?」
「はいっ!」
「じゃあこれも、嬉しいか?」
「―――え?」
…黒崎が何かを確認する前にそっと。そっと唇が降りてきた……。
その夜ふたりで、星を見た。空に輝く満点の星を。月が新月でなかった分、星たちは一層空で輝いていた。
「俺星好きなんです。きらきらしてて、ずっと見ていても飽きない」
「――そうか…」
お前も見ていて飽きない…そう思ったが犬神は口にはしなかった。きらきらと子供のように輝く瞳を見ていたら、そんな事はどうでもよくなってしまったから。
「そう言えばこんぺいとうも」
「うん?」
「形が星みたいですね。いろんな色があって見ていて飽きないし」
「そうだな」
犬神はそれだけを言うと煙草に火をつけた。煙草の火がぼんやりと照らされて少し綺麗だった。
「お前みたいだな」
「え?」
「いや、なんでもない」
「なんでもないってなんですか?凄く気になりますっ!」
「うるさいぞ、黒崎」
「…あ、ごめんなさい…俺…」
「うるさいと、塞ぐぞ」
「えっ?!」
黒崎の言葉は最後まで言葉として発せられなかった。犬神がその唇でそっと。そっと声を塞いだから。
そんなキスは、煙草の味がした。でもそれが、黒崎が一番知っているキスの味だったから。
「―――甘いな」
「あ、俺こんぺいとう食べてたから…」
黒崎はすまなそうにそう言った。犬神は甘いのが苦手だと知っていたから。でもそんな黒崎の言葉を否定するように犬神は微笑って、そして。
「違う」
「お前が元々、甘いんだ」
―――そして、何よりも甘い言葉を黒崎に、くれた。
「…先生…」
「ん?」
「…俺…迷惑?」
「迷惑も何も勝手に押し掛けて来て何を今更…」
「…でもやっぱその…ちょっと気になって…」
「馬鹿」
「…え?…」
「迷惑なら初めから追い出している」
犬神の言葉に黒崎が嬉しそうに笑って。
笑ってそして抱き付いた。そんな黒崎に犬神も。
犬神もひとつ、微笑ってそっと抱き寄せる。
大切なものを慈しむかのように、そっと。
星を見ているのが好きだった。
きらきらとしている星を見ているのが。
でも今は。今は星を見ているよりも。
―――先生を見ている方が…大好き、だから……
「…先生?……」
「ん?」
「…ずっと一緒に…いてもいいですか?…」
「聴くな、馬鹿」
「答えは出ているだろう?」
End