―――口付けの後の、煙草の匂い。
俺が、知っているのは。
俺が知っている、先生の匂いは。
何時もほんのりとする、煙草の匂い。
初めは少しだけイヤだったけど、今は。
今はこれが『先生』だと思ったら。
何よりもかけがえのないモノに…なったから……
それが当たり前だと思っていたから、少し変な気分だった。
「…先生?」
キスの後ビックリした顔で見上げたら、先生もちょっとびっくりした顔をした。それが凄く珍しかったから、俺は不覚にも嬉しくなってしまったけど。
「――なんだお前は…驚いた顔の後に何でそんな喜ぶんだ?」
「あ、いえ…その……」
先生の驚いた顔が見られて嬉しいんです――なんて言ったらきっと。きっと呆れられるだろうなぁ。でも呆れられても正直に言った方がいいかな?
そんな事を色々と考えていたら、先生の顔が少しだけ不機嫌になった。先生のそんな顔も大好きだけど…そう思われるのはいやだから。
「ち、違うんですっ!!先生の驚いた顔が見られて嬉しくて俺…」
正直に言ってみたら、先生は予想通り飽きれた顔を、した。
当たり前のものになっていた。
何時しかそれが『先生』の香りで。
先生の匂いで。それが、俺にとって。
―――俺にとって物凄く大事な日常になっていた。
「―――お前は…」
ため息ひとつと、呆れた顔。そんな顔も、大好き。
「だって、滅多に見られないから…俺…俺…」
どんな顔だって、全部好き。だって、先生だから。
「………」
先生なら俺、どんな顔でもカッコイイって思っちゃうから。
「先生の色んな顔見たいから」
本当にバカみたいだけど、俺。
「いいだろうがそんなモノ。俺の変わりに」
俺、どうしようもない程に先生が大好きだから。
「お前が色んな顔を俺に見せているだろう?」
先生はそう言って、もう一回キスしてくれた。
そのキスはやっぱり、煙草の味がしなくて。
しなかったから。だから。
「…先生…」
「ん?」
「…煙草は…どうしたんですか?」
「――ああ」
「切らして買い忘れただけだ」
少しだけ不機嫌に先生は言った。でも不謹慎にも俺はそんな先生に嬉しそうにしてしまう。少しだけ拗ねたように言った先生の顔が、どうしようもない程に好きだなって思ったから。
「お前は俺が煙草を切らしているのが、そんなに嬉しいのか?」
「ち、違います…俺…」
「―――あ?」
「…その…先生の拗ねた顔見られて…嬉しくて……」
「…………」
「あ、あの先生?」
「…お前は……」
「呆れました?」
「―――ああ」
「お前じゃなかったらな」
口許がひとつ、微笑う。それがひどく。ひどく優しくて。俺はまたどうしようもなく嬉しくなって笑ってしまう。でも今度は、先生は呆れたりしなくて。ため息も付かなくて。その代わりに、もう一度。もう一度キスをしてくれて。
「やっぱり変か?」
背中に腕が回され、そのまま抱き寄せられる。先生の広い胸が、大きな腕の中が。一番俺にとって安心出来る場所。俺にとって一番暖かい場所。誰に何を言われても、ここが。ここが俺にとって一番大事な、場所。
「何が…ですか?…」
「味、だよ」
味と言われて耳まで真っ赤になる俺はやっぱりガキなんだと思う。でも先生にそう言われるとどうしても、恥ずかしさが止められない。
「…あ、その…」
「煙草の味がしない方がいいか?」
「…えっと…その…」
「はっきりしない奴だな」
「ご、ごめんなさいっ!!」
つい先生の言葉に怒られたような気がして謝ってしまう。別に悪くなくても俺は謝ってばかりいて。そんな俺に先生は何時も半ば呆れながら『お前が謝る事はないだろう』って言うのが。そう言われるのが、俺の日常で。そして、今も。
「――お前が謝る事はないだろう」
と、俺が何故か安心出来るその言葉を言ってくれた。
変わらない日常が。
同じ事の繰り返しが。
それが本当は一番。
一番かけがえの無い物だって。
気付いた瞬間に、俺は。
―――俺は誰よりもしあわせなんだと、気が付いた……
「でも、先生」
「ん?」
「俺先生のキスなら」
「煙草の味がしても、しなくても大好きです」
最期まで言ったら恥ずかしくなって、俺は俯いてしまった。
そんな俺の頬にそっと。そっと先生の手が触れて、そして。
そして真っ直ぐに俺を見つめて、言ってくれた。
「…欲張りだな…お前は…」
「欲張り、ですか?」
「――でも俺も欲張りだ」
「お前をひとりいじめしているんだからな」
―――優しく微笑んで…言ってくれた………
End