大好き、だから。
だから喜んでもらいたい。
その笑顔が、見たいから。
だから何時も思っている。
―――どうしたら…喜んでくれる…かなって。
どたどたと元気な足音が聞こえる。その音に犬神は軽く苦笑を浮かべた。
…相変わらず…元気な奴だ……
心の中でそう、呟きながら。呟きながらその足音の主に、苦笑する。そして犬神の予想通りにその足音は自分の部屋の、扉の前でぴたりと止まる。ぴたりと止まって、一呼吸。
足音の主は何時も必ず、扉の前で一呼吸置くのだ。あんなに急いでここまでやってくる癖して、必ず。必ず深呼吸をひとつする。それがひどく犬神には…可笑しかった……。
『ピンポーン』
そのインターホンの音に犬神はゆっくりと置き上がると、玄関の前に立って扉を開く。そこには。そこには自分の予想通りの、子犬のような瞳があった。
「先生っ!」
子供のような無邪気な瞳と、表情が犬神の口元の笑みを消えさせない。
―――本当にこんなにどうしてこいつは分かりやすいのか…。
今にも尻尾を降って来そうなほど、自分に懐いているのが不思議だった。不思議だったが何故か煩わしいとは思わなかった。普段ならどんな理由であろうとも必要以上に人間と関わらないように生きてきたのに。自分のテリトリーに入れようとはしなかったのに。何故かこいつだけは不思議と自分の中へと入れてしまった。
…いや自然に入ってきたと言うべきか……。
気付いたらその無邪気さで自分の中にいた。自分の心の中に存在していた。本当にそれがあまりにも自然だったから、自分自身が気付けない程に。
「―――何だ、その荷物は?」
犬神の目の前に現われた黒崎は両腕に大きなビニール袋を抱えていた。そこからネギの頭が飛び出している所を見ると、どうも食料らしい事は分かった。がしかし、もしもこれが食料だとしたら…量が尋常ではない気がするが……。
「俺、先生に手料理をご馳走したいんですっ!」
子供のように目をきらきらさせながら言ってくる黒崎に、犬神は一瞬の不安を募らせた。流石に、表情には出さなかったが。が、しかし。
「……お前が…作る…のか?………」
―――それも、この量を、か?
「はいっ!俺頑張って練習してきましたっ!」
荷物を持ちながらガッツポーズを取ってみたりする、黒崎の嬉しそうな顔を見ているとなんだか犬神は複雑な気持ちになった。その気持ちは悪い気はしない。意気込みも認めよう。…だがしかし……しかし………。
「大丈夫です、俺壬生にちゃーんと料理教わって来ましたからっ!」
「…壬生は料理が…上手いのか?……」
「そりゃーもうっ!如月さんのトコに遊びに言った時に作ってくれた『ペレストロイカ』は超上手かったですっ!!」
…如月…ああ、あの忍者か…何故かこいつは異常なまでに忍者に憧れている…まあ俺にとってはどうでも言い事だが…しかし何で忍者の家で壬生の手料理を食べる事になるんだ?
そこまで考えて思考を止めた。他人の色恋沙汰に口を出すのもバカらしい。それよりも。
「―――ペスカトーレの間違えじゃないのか?……」
「あ、確かそんな名前だった」
俺の指摘に嬉しそうに頷く黒崎を見ていると、やっぱり不安にならずにはいられなった……。
―――トントントントン……
小気味良い音が台所から聞こえてくる。それと同時に妙な歌詞の歌も。大体コスモレンジャーの歌ってのは何なんだ?
でも何だか不思議な気分だった。台所など自分では滅多に使わないし、他人に使わせる事もない。そんな場所にこいつが立っている事が。
それも楽しそうに、俺のために料理を作っている。誰の為ではなく、俺の為に。
「あっ!」
突然上がった悲鳴に俺は無意識の内に立ち上がった。そして台所を覗き込むと、指から紅い血を零している黒崎が居た。
「…あ、先生……」
「馬鹿が。指を切ったのか?」
「大丈夫です、これくらい。全然平気です」
大げさなくらいに首をぶんぶんと振って大丈夫をアピールしたいらしい。しかし庖丁で手を切って痛くない訳はないだろうが……。
「見せてみろ」
俺は強引に手を引っ張るとそのまま血の出ている指先を舐めた。人間じゃない俺の唾液は治癒能力もあるらしい。人間どもの小さな傷ならば、あっと言う間に塞いでしまう。
「わー凄いっ傷が消えたっ!」
「そんなに驚く事もないだろうが」
「凄いっ凄いっやっぱり先生だ」
「…何だ…それは……」
「やっぱり先生は…ヒーローだなって」
「――――」
「先生は俺の一番のヒーローだっ!」
こいつの一番分からない所はコレだ。何処をどう取れば俺が『ヒーロー』になるんだか…。どう見たって俺はお前から見たら『悪役』でしかないだろうが。
―――初めて逢った時からそうだった。
満月の夜俺が人成らず姿に変身した時こいつは怖がる所か嬉しそうに俺に向かって『カッコイイ』と言ったのだ。
誰もが恐れ怯える筈の、俺の本来の姿―――狼を、見て。
こいつだけは子供のように瞳をきらきらさせてそう言ったのだ。そしてそれが今も。今もずっと続いている。そのきらきらとしたままの瞳で、ずっと俺を見続けている。
…時々その真っ直ぐ過ぎる瞳が眩しいと…思う程に……。
「へへ、先生に舐めてもらったから俺もっと頑張れる。だから期待しててくださいねっ先生」
―――そして今も真っ直ぐ過ぎる瞳を俺に向けながら、嬉しそうにそう言うのだ……。
『一番のスパイスは、愛情ですよ』
『愛情?』
『どんなに料理のテクニックがあってもこの人に食べてもらいたいって気持ちがなければ、やっぱり見掛けだけの…上辺だけの味付けでしかないですからね』
『壬生は如月さんに何時もそう思って料理を作っているの?』
『……あ、…えっと………はい…………』
『いいなーらぶらぶだなー。俺も先生とらぶらぶになりたいなぁ』
『―――充分…そうだと思いますけど……』
『え、ホントっ?!ホントにそう見える?』
『ええだって』
『だって先生がフルネームで名前を言えるのは貴方ぐらいですよ』
凄くバカみたいだけど、壬生のその一言で俺は凄く嬉しくなって。
どうしようもなく嬉しくなっちゃって。だから。
だからこの嬉しい気持ちを先生に伝えたかったから。
伝えたかった、から。
壬生に料理を教わって。そして。
そしてお腹いっぱいに先生に食べて欲しいなって。
俺の気持ちを込めて。
―――ありったけの、気持ちを込めて……。
「先生、出来たっ!!」
嬉しそうな声が聞こえてきて犬神は台所へと向かう。確かにそこからはいい匂いが、した。
「見て見て、先生。俺頑張ったよ」
やっぱり今にも尻尾を振って来そうな勢いで言う黒崎に苦笑を禁じえない。本当に子犬のようだと、思う。
「見た目は食い物に見えるな」
「むーっひでー」
子供のように頬を膨らませて拗ねる黒崎が犬神にはおかしかった。ここまで感情が顔にはっきりと出る人間も珍しいと思う。
「まあ、食ってみてからだな」
黒崎の作った料理はある意味犬神の予想外のものだった。今時の若者の好物とは明らかに違うものだった。そこにはきんぴらこぼうと芋のにっころがしに、ほうれん草のおひたしと味噌汁、そして白いご飯と言うまさに『お袋の味』のおかずが並んでいた。
―――壬生の入れ知恵か?それとも如月が俺を『親父』扱いでもしたのか?
そんな事を思いながらも、それでも並べられたメニューには悪い気がしなかった。ごてごてとした料理よりも確かに自分はこう言ったあっさりとしたものの方が好みだからだ。
「いっぱい食べてね、先生の為に作ったんだから」
期待と不安の交じり合った瞳が犬神を見上げてくる。今にも心臓の音が聞こえてくるんじゃないかと言うような緊張っぷりだ。どうしてこいつはこんなにも分かりやすい?
「じゃあ食うぞ」
「はいっ!」
返事だけは妙に元気な黒崎の声を聴きながら、犬神はその料理を口に運んだ…。
――――――こ、これは………………
「…せ、先生?……」
何も言わなくなった先生に心配になって俺はそっと名前を呼んだ。けれども先生は何も言わずに、料理を食べ続ける。だから何時しか俺は黙って先生の顔を見つめる事しか出来なかった。
先生の顔は何時もと全然変わらなかった。だから分からなかった。美味しいのか、不味いのか…。
ただ先生は全部。俺の作った料理を全部、食べてくれた。
…残さずに…食べて…くれた……。
「ど、どうでした?先生」
「どうって?」
「…あ…あの美味しかったとか…不味かった…とか……」
「―――――」
「…お前が…俺の為に作ってくれたものだからな……」
結局答えは聴けなかったけれど。
でもそんな事どうでもよくなって。
先生のその一言だけで、もう俺は。
俺はどうしようもなく嬉しくなって。
「先生、大好きですっ!!」
何もかも忘れてその場で抱きついてしまった。
そんな俺に先生は。
…先生は……
「口直しだ」
そう言って俺の唇をそっと塞いだ。
―――そのキスは何故か凄く、しょっぱかった……。
End