―――このまま世界を、閉じてしまおう……
緩やかに流れる時間の中で。
ただ流れゆく時間の中で。
そこだけが、逆流した。そこだけが、翻弄した。
その流れは渦を巻いて押し寄せて、そして。
そして今まで自分を取り巻いていたもの全てを壊した。
何もかもを、壊した。
伸ばされた腕を絡め取った瞬間。
その瞬間、その波に流されてゆく。
今まで何の為に、生きてきた?
「…犬神……」
伸ばされた、腕。背中に廻された、腕。
「――俺、死ぬのか?……」
力の入らない腕は、それでも必死に俺の背中にしがみ付いた。俺の、背中に…俺だけの背中に…。
「死ぬのは怖いか?蓬莱寺」
血の気を亡くした白い顔。お前には最も似合わない色だ。太陽の光全てを吸収し、そして輝いているお前には。
「…怖かねーよ…だってお前の腕の中にいるじゃん…」
そう言って、微笑う。痛みで口許はぎこちなかったけれども。それでもお前は微笑む。
「…だけど……」
「だけど?」
「…お前を…独りに…しちまう……」
初めから、独りだった。
人間達と時を刻む針は違う。
身体の中を流れる時計の針の長さが違う。
だから、俺は独りだ。
自分が出会って、そして死んで行く人間達を。
彼らをただ見ていただけ。
生まれ死にゆく人間達が目の前を通り過ぎてゆくのを。
ただ、ただ見ていただけ。
だから、独りだ。
―――ずっと、ずっと独り、だった……。
生きてゆく上で、誰かが傍にいる事は煩わしい事でしかなかったのだから。
「…お前を…独りぼっちにしてしまう……」
通り過ぎてゆく人間。俺の前をただ通り過ぎてゆくだけの人間。お前達は俺にとってそれだけの価値でしかない生き物だ。ただそれだけの価値でしかない。だから、だから俺は独りだと感じたことはなかった。今までずっと。ずっとそうやって生きてきたのだから。
「…独りになんて…したかねーよ…」
だからお前が気にすることはない。元通りの生活に戻るだけだ。そう元通り、ただ人間どもが目の前を通り過ぎてゆく…そんな生活に戻るだけだ。
「…犬神…お前を…俺はっ……」
お前のいない、生活。お前がいない、生活。それは。それはどんなモノだった?
煩わしいほど俺にかまう、お前。気まぐれに現われて、そして我が侭を言っては俺を困らせるお前。何時も自分勝手で、俺の都合などお構いなしに。
勝手に俺の前に現われて。そして。そして今、この腕の中で消えて行こうとしているお前。
―――お前が、いない日常…それはどんなモノだった?
「…蓬莱寺……」
気付くと何時も俺のそばにいた。口ではどんなに俺を否定しつつも、何時もお前は俺の傍にいた。何時も、何時も…。
「…俺は…お前が…大事なんだよ…」
―――何時も、そばに、いた……
ずっと、独りで。独りで生きてきたと言った。
淋しくないかと聴いたら、そんな感情知らないと言った。
だから俺は。
俺はそんなお前が哀しいと思った。
バカみたいだろう?お前は俺の想像も出来ない程長い間生きてきて。
そして、俺なんかよりもずっと世の中を人間を分かっている筈なのに。
でも俺は。俺はお前を哀しいってそう思ったんだ。
だって…お前に笑って欲しかったから…。
楽しい時は楽しいって。哀しいと時は哀しいって。
そう言った当たり前のことをしないお前に。
お前にしてほしかったんだ。
――――笑って、欲しかったんだ。
生きている事は楽しいって、お前に気付いて欲しかったんだ。
「―――蓬莱寺…もう喋るな……」
どくどくと、流れる血。身体を流れてゆく血。この血がなくなった瞬間、俺の命は終わるのだろうか?
だったらもう少し…もう少し待ってくれ…俺はまだこいつに伝えていない事がある…。
「…ダメだ…まだ俺は…まだ俺は全てを言ってねー…」
「喋るなっ!」
不意に抱きしめていた腕が強くなる。初めてだ…お前がこんなに俺を強く抱きしめてくれたのは…初めてだ…犬神……。
俺って本当にバカだよなー…今こんな時になってどうしようもない程の幸せを感じているんだから…。
お前の、腕。お前の、声。今初めてお前は俺に『感情』を見せてくれた。お前が今まで生きてきた中で捨て去ってしまったものを、今。今ここで見せてくれた。
「…喋らせろ…犬神…だって俺死ぬんだろう…だったら…後悔させずに死なせてくれよ…」
「―――死なせない…お前は死なせない…」
そう言ってお前は噛みつくように俺に口付けた。それだけで俺はもう充分だ、犬神。
助からないのは俺が一番良く分かっている。だから、言わせてくれ。お前を独りにしないために。言わせてくれ、俺の気持ちを。
腕の中の命が消える事は分かっていた。
分かっているのに何故俺はこんなにも、ざわついている?
今までと何も変わりない筈なのに。元通りに戻る筈なのに。
なのに、俺は。俺はこんなにも?
―――こんなにも、怯えている?……
お前を失う事に、怯えている?
「…愛してる…犬神……」
「―――蓬莱寺?…」
「…だからお前を独りにしたくない…俺はまだお前の本当の笑顔を見ていない…」
「俺の笑顔?」
「笑ってくれよ、犬神。嘘じゃない…お前の本当の笑顔が見たい…生きてよかったって思えるようなお前の笑顔が見たい…」
「……笑えというのか?今…この俺に…」
「お前を失うかもしれない…この俺に……」
…愛している…犬神……
俺は俺は…お前だけを愛しているんだ。
だから、見たくない。
お前のそんな顔を見たくはない。
お願いだ、犬神笑ってくれ。
俺と出会えてよかったって、笑ってくれよ。
そうでないと俺は…俺は……
「…いやだ…犬神…いやだ…」
「…蓬莱寺?…」
「…俺と出逢った事を否定しないでくれ…俺と出逢った事を…お願いだから…」
「失うと分かっていて、喜べと言うのか?」
「…俺は…お前に…笑って欲しいんだ…それだけだ…生きている命を…お前の命を…否定しないでくれ……」
「…俺が何よりも大切な…お前自身を……」
お前はなんて残酷な言葉を俺に告げるのか?
お前の生きていた時間。俺と共有してきた時間。
それはまばたきする程のわずかな時間。
その時を。その時を、お前は。
お前は俺に残して消えてゆく。
―――否定、するなと。告げながら。
そうか、お前は。
お前は気付かせようとしたんだな。
失う前に。失ってしまう前に。
お前といた時間が俺にとってかけがえのないものだと。
俺にとって喜びだと。
お前は。お前は俺に、気付かせようとしてくれたんだな。
「…お前に…出逢えて…よかったよ…蓬莱寺…」
それならば俺は笑おう。お前の望み通りに。お前の為に。
「…犬神…笑った……」
お前が何よりも望んだ、本当の笑顔で笑おう。
「…笑った……」
それからで、いい。狂うのはそれからでも遅くはない。
お前を失って、狂うのは。
―――それからで、いい……。
笑う、お前。
誰よりも優しい笑顔で。
それは。それは俺が欲しかったもの。
俺が、見たかったもの。
何よりも、見たかったもの。
―――俺が見たかった…お前の本当の笑顔……。
子供のような、笑みを俺に向けた。
何時ものように、ひどく子供の顔で。
そして真っ直ぐに俺を見つめながら。
その顔を瞼に、脳裏に焼き付けながら俺は狂う。
この逆流に飲み込まれてしまった俺にはそれ以外の選択肢はなかった。
End